38話
本当にいつまで経っても甘えっ子ね。
私がいなくなっても、心優しく強い魔女でいて。
あなたが心配だから『術』を掛けていくわ――――。
忘れていた師匠の言葉を思い出した瞬間、リンの頭の中にかかっていた深い霧が、すうっと晴れていく気がした。
猫になった理由、真一がとつぜん現れた理由、真城家が代々リンのそばにいた理由。すべてがつながったのである。
「ルネが私にかけた呪いがどういうものか、分かったかも知れん……」
「えっ? それは素晴らしいですが……。やはり今は刻さんを取り戻す方法を探さないと」
遠慮がちに咎める椿を制して、リンは話を続けた。
「いや、今だからこそ重要なことなのだ。もし私の想像通りの呪い――いや『術』なら、刻の魂をとり戻すことができる!」
「本当ですか!?」
「ああ。ルネが私を猫にしたあの日、師匠は悪魔崇拝派との最終決戦に出かけるところだった。もし、死を覚悟していたとしたら? 私をひとりにするのがどうしても心配で、魔法をかけたのだとしたら?」
さっぱり分からないと言った風に、椿が首をかしげる。
「はあ……猫にしてしまっては、余計に人間社会から孤立してしまう気がするのですが」
「たしかに喋る猫などふつうの人間は怖がるだろうな。だが、そんな時に都合良く現れた男がいたのだ。無条件にそばにいてくれた男が」
「と、言いますと?」
「最初の真城家の執事だ。彼はもしかしたら、ルネが私のために魔法で召喚した従者だった可能性がある。真城家の男が代々に渡って執事を務めたのは、それが宿命だったからなのだろう。私が猫になると言うのは相応の代価なのか、あるいは一種の副作用だったのかも知れん……!」
リンは声高らかに締めくくった。
「え、えと」
しかし椿の顔に浮かんだのは、衝撃の真実に驚いたと言うよりも呆れたような、拍子抜けしたような表情だった。
微妙な間をおいて、すっかり目元の涙が乾いた椿が言いにくそうに口を開く。
「あの……。それは少々論理の飛躍と言うか、突飛過ぎると言うか……」
「う、仕方あるまい! 考えるのは苦手なのだ!」
リンは嘆き、それからがっくりと肩を落とした。
「魔法によって召喚された従者の末裔なら、刻の魂は悪魔と契約する前に、すでに私と契約していたことになると思ったのだがな……やはり無理があるか」
しばらく続いた沈黙の後、椿がおもむろに立ち上がった。
「……探しましょう」
「え? 何をだ」
「リン様の考えがこじつけでないと言う証拠です。本当にそのような術があるのなら、書庫のどこかに手がかりがあるかもしれません。詳細ものっているでしょうし、悪魔を説得する材料にもなります。私が行きますから、リン様は刻さんのそばにいてあげてください」
急にやる気になった椿に、今度はリンが引け腰になる。
「いや、あの。たぶん見つからんと思うぞ」
「それでも、やれるだけやってみたいんです」
見上げると、決意に満ちた椿の瞳と目があった。
(そうだ、少しでも可能性があるなら……)
「……よし、頼んだぞ」
本当は一緒に探しに行きたかったが、骨折した方の腕と蹴られた内臓が痛くて動けない。
リンは椿に希望を託し、ここで待つことにした。
十分以上経っても椿は戻ってこなかった。
「やはり、ないのだろうな」
リンがあきらめかけていた時、
「ありました! ありましたよーっ!」
分厚い本を両手に掲げながら、椿が息を切らせて駆け寄ってきた。
「何だと、本当か!? 馬鹿な! ありえん! ちょっと見せてみろ!!」
自分で言い出しておいて疑念の声を上げるリン。椿から片手で本を受け取ると、表紙を見るなり顔をしかめる。
「おい。何の暗号だ、これは」
書かれているのは見たこともない文字だった。
「フランス語ですよ」
「椿お前、フランス語なんてできたのか?」
「ええ、あと英語とロシア語とポルトガル語とスペイン語とイタリア語とドイツ語とスワヒリ語はできます。悪魔崇拝派時代に、任務のためだといろいろ叩き込まれましたから」
「…………。お前には、掘り返すと出てくるものが沢山ありそうだな」
恨めしげに椿を見る。と、ひとつの疑問が頭をかすめた。
「途中でハルとジュリアを見かけたか? まさかあいつらも逃げずに、まだ屋敷にの中にいるのでは――」
「書庫にいましたよ。こっちの様子を気にしていたので、心配ないとだけ伝えておきました。刻さんを生き返らせようとしているところ、なんてとても言えませんから」
「……そうだな。あの子たちに教えるのは、すべて解決した後にしよう」
彼らを早く安心させるためにも、刻の魂を奪還しなければならなかった。
リンは椿に本を渡す。
「分かるように訳してくれ」
「はい、では……」
本を開くと、椿は咳払いをして読み上げた。
『従者の契約』
一、術者が己の自由を制約する代わりに、選らんだ人間を従者とする魔法である。
二、制約を続ける間はこの術が解けることはなく、従者となった人間は後継者が決まるまで術者から遠く離れることができない。
三、被術者が死亡した事態に備え、術は被術者の血縁者にも遺伝情報として残される。
「……と書いてあります。驚くべきことに、ほとんどリン様のおっしゃった通りでした」
おそるべき直観力ですね、と感嘆の声を漏らした椿が本を閉じる。
「自分から言い出しておいて何だが、関係のない人間を一方的にしもべにするなど、恐ろしい魔法だな」
リンは今さらながら、とてつもない罪悪感を覚えていた。
真城真一は魔女の都合で人生を狂わされた被害者と言うことになる。彼がどうやって選ばれたか見当もつかないが、他に歩むべき人生があったはずだ。彼だけではなく、刻も英次も。他の真城家の男達も、別の人生があったかもしれない――。
「まさか……刻が無理をして悪魔と取り引きしたのは、悪魔に操られたのではなくて従者の契約のせいか? 私を守るよう、魔法に操られたのでは……っ」
思い当って口にすると、椿は「待ってください」とリンに落ち着くよう言って、もう一度本の内容に目を通す。
「えっと、いえ。それはないみたいです。『後継者が決まるまで遠くに離れられない』とありますが、『意思を操作する』とはひと言も書いてありませんから」
「そうか」
少しほっとして、リンは息を吐いた。
「リン様、今は気にしても仕方ありませんよ。第三者のルネ様が勝手に結んだ契約ですし、少なくとも、この魔法のおかげで刻さんを救える可能性が出てきたんです」
優しく諭されて、リンは頷いた。彼女の言う通り、今すべきなのは悩むことではない。
「そうだな。私が半日猫でいるうちは、刻の身体と魂は私のものだと分かったのだ。早くあの長髪オヤジから刻を返してもらうとしよう」
「はい!」
椿は返事をすると、もう一冊の本を出した。
「ん? そっちは何だ」
「刻さんが使った、悪魔を呼び出すための呪文がのっている本ですよ。魔力をなくした私はもうただの人間ですから、彼と同じことができます」
「危険ではないのか? 悪魔と契約するための呪文だろう。お前まで魂を奪われたらどうする」
「そっ、それは嫌ですが他に方法が思いつかなくて……。リン様こそどうやって交渉するおつもりだったのですか?」
期待の目を向けられたリンは、堂々と答えた。
「大声で呼び出す!」
「……やはり呪文にしておきましょう」
椿が冷静に言った。