36話
「地獄へようこそ。歓迎するぞ」
目の前で下卑た笑みを浮かべているのは、山羊の頭をした悪魔だった。
「お前……バフォメット、か?」
「ご明察。これが我の本当の姿だ。くく、貴様は本当に面白いな……。ここまで早く『門』を抜けた奴は珍しい」
「『門』って……?」
恐怖心を押し込め、刻はバフォメットに尋ねる。
「門とは言葉通り地獄へ入るための通行口だ。人間は皆、地獄に入る前に決まってそこにしがみつく。最後の悪あがきってところだな」
「よく分からないんだけど……。とりあえず、ここが本当の地獄ってことか?」
「そうだ」
「でも俺、門なんて通ってないし、どこにもしがみついた覚えなんてないぞ」
激しく吹き荒れる熱風は焼けつくように痛い。
あまりの暑さに体中から滝のような汗が流れる。悪魔は苦痛に顔を歪める刻を見て愉快そうに笑い、大仰に両手を広げて説明した。
「虚妄を見ていたではないか。それこそが門だ。地獄へ向かう魂は人生の中で思い残したことを仮想体験し、思う存分満足してから永遠に続く苦痛の世界に足を踏み入れる」
「虚妄って……じゃあ、さっきの幻覚は……。俺の場合、心残りは両親だったってことか?」
あまりピンとこない。
「ふん、納得できないと言った顔だな。まあ当然か。ここまで早く門を抜けたと言うことは、小僧の願望が期待外れだったことに他ならない。門で見たのが死んだ両親だとすれば、それは貴様にとってそれほど大きくない存在だったのだろう。ずいぶんと薄情な奴だ」
悪魔が嘲るように言った。
「ああ……たしかに薄情かもしれない」
刻は否定しなかった。バフォメットの話が本当ならば、最後に会ってみたいと思ったものの、両親との再会にそこまで感動を覚えなかったということになるのだから。
「まぁせいぜいこの世界でも図太くいることだ。何度も言うが、我は貴様が気に入っている。魔女と引き換えに手に入れた魂だしな、簡単に狂ってしまってはもったいない」
そう言い残すと、バフォメットは黒い翼を広げて上空へと消えてしまった。
刻はうつろな瞳で灼熱の大地を見渡す。
「他には誰もいないのか……」
もっと、沢山同じような人間がいたり悪魔がいるのかと思ったが違うらしい。
「……はあ」
一気に疲労を感じ、その場にしゃがみ込む。
「クソ、うまくやれると思ったんだけどな……」
深く項垂れなれ、小さく毒づく。
本当は悪魔を言いくるめて、最小限の代償でエレナの無力化を図るつもりだった。だが途中から刻の方がバフォメットに操られてしまい、気がついた時にはもう悪魔の契約にサインをしていたのだ。
「いったい何を考えてたんだ、俺は。そもそも悪魔と契約しようとすること自体アホな発想だろ」
いつものようにもっと深く考えていれば、地獄で途方にくれることもなかった。
(いや、やめよう)
刻は静かに首を振って自分を責めるのをやめた。
後悔しても遅い。あの時はあれしかなかったし余裕もなかったのだ。
とにかく早く助けないと、リンや椿が危ないと焦っていた。切羽詰まった状況で、つい感情を優先させて無茶をしまったのである。
「俺らしくないな」
自虐するように呟いて、ふと気がついた。
うとましいと思っていた彼女達に、いつのまにかずいぶん情が湧いていたことを……。
――――『占い』 『薬』 『猫』
『門』から早く出たのは、リンに関係するキーワードに叩き起こされたからだった。
両親の存在が大きくなかったわけじゃなく、ただたんに、今はリン達の方が気がかりだったからなのかも知れない。
「……あいつら、手がかかるからな」
刻の愚痴が、地獄の大地に虚しく響いた。