34話
「その反応は当たりみたいだな」
悪魔を相手にしているとは思えないほど刻の口調はいつも通り怖いものなしだ。見ているリンの方がハラハラしてしまう。
だが、バフォメットは生意気な少年の態度より、彼が口にした『サタナキア』に強く関心を持っているようだった。
「その名まで知っているとは……小僧、貴様何者だ」
「ただの執事だよ」
刻はさらりと返して言葉を続ける。
「サタナキアとバフォメットが同じ悪魔だって説は、さっき読んだある本にのってた。『サタナキアは地獄の支配者ルシファーの配下であり、また三人の精霊を配下に持つ将軍である。そして女を虜にして操るのが得意』ってな。最後の部分なんて、まさにその通りだろ?」
そう言って、彼はバフォメットの後ろでけなげに跪くエレナを見た。
「アンタにとっては、『地獄の番人』と言う組織に属した仕事がある。『魔女の象徴』はただの趣味なんじゃないか?」
「く、くっ……くははははは」
とつぜん肩を揺らして笑いだした悪魔に、刻が眉根を寄せる。
「はずれか?」
「いや、そうではない。感心したのだ。いったい何の書物を読んだのかは知らないが、貴様の言うとおり我には別の顔がある。そして、魔女の象徴が本職ではないと言うのも正解だ…………だから、貴様の願いを叶えてやってもいい」
「本気か」
「ああ。地獄でシケた人間の魂を見るのもちょうどうんざりしていたところだ。小僧のような生意気な奴がいれば、いろいろ退屈しなくて済みそうだからな」
バフォメットの言葉にリンはどきりとする。悪魔の敵側として教育されたので、人間が悪魔と取引する方法など知らない。が、今の話はまるで刻を地獄に連れていくと言っているように聞こえた。
「……アンタにとって魔女を捨てるのが簡単なら、その分代金も安くならないのか?」
刻は取引について詳しく理解しているようだった。彼がサタナキアの名を見つけた本とは、おそらく地下の書庫にあるルネが残した手書きの資料だ。それには詳細まで記されているはずである。
リンは刻に書庫を見せたことを後悔した。
(もし書庫に立ち入らせなかったら、今頃は安全な場所に逃げていただろうに……)
いくら悔いてももう遅い。
人間と悪魔の取引は、今目の前で着実に進んでいるのだ。
「魔女の象徴としての立場を失うことは、我にとって決して容易なことではない」
「楽しみがひとつでも減るのは辛いってか?」
「何が悪い。悪魔とは常に己の欲望に従う生き物だ。神の作りし人間に堕落と絶望を教える――。それが我らの欲求であり使命。魔女は、人間を貶めるのに都合のいい存在だった」
「そんな大切なおもちゃを俺の魂ひとつで売り飛ばすなんて、やっぱり相当魔女に飽きてたんだろアンタ」
魂ひとつで売り飛ばす。
刻の口から出た恐ろしいひと言に、リンの心臓が激しく波打つ。
(魔女となる以外に人間が悪魔と契約する方法は……己の魂を差し出すことなのか!)
エレナはたしかにおとなしくなった。これで彼女の暴走は止められる。
しかし目的を達成できたところで今さら後に引けるのだろうか?
やっぱり契約をしない、などと、そんな甘いことが悪魔に通用するのだろうか?
不安と焦燥感にかられながら、固唾を飲んで見守る。
「勘違いしてもらっては困る。貴様が気に入ったから特別に負けてやっているだけだ。どうする小僧、今ならまだ引き返せるが」
「…………いや、このまま続ける」
「刻! お前正気か!?」
刻の作戦なのだろうと思ってはいても、リンはたまらず口を挟む。
「命はくれてやるよ。その代り、こっちも先の長い人生を捨てるんだ。アンタが約束を守ったって分かるまでは死ぬわけにいかない」
声が届いないのか、刻はこちらをちらりとも見ずに話を続けている。
そこでようやく、リンは彼の異変に気がついた。刻は今リンどころか、まわりがまったく目に入っていないようだった。
(まさか冷静に見えるだけで、あいつ……余裕がないのか?)
何か策があって悪魔の話にあわせているのかと思ったが違う。刻はバフォメットのペースに引きずり込まれているように見えた。
「おい刻、しっかりしろ! 目を覚ませ!!」
リンが叫んでも、刻の瞳はまるで操られたように悪魔から離れない。
「交渉成立だな」
バフォメット悪意に満ちた声が、リンにとどめを刺した。
「バフォメット様! お待ちください、本気で私をお見捨てに……」
エレナが焦ったようにバフォメットに縋りつく。彼女は彼女で、悪魔が本気で取引するはずないと思っていたのだろう。
「離せ、邪魔だ」
「ですが……っ!」
何かを言いかけたエレナは、急に力が抜けたように崩れ落ちた。身体に異変を感じたのか、両手を交互に見つめて唇をわななかせている。
「そんな……まさか。魔力を感じない」
赤い瞳をさらに赤くして呟くエレナ。
「バフォメット様、なぜ……っ、どうして……!」
悪魔に惹かれた哀れな魔女は、絶望して床に崩れる。そして、完全に沈黙したのだった。
「小僧。貴様の望みどおり、我が魔女に与えた力を奪ったぞ」
「まだいるだろ」
刻がいまだに意識を取り戻さない椿を見やると、バフォメットは小さく頷いて胸の前で指を鳴らす仕草をした。
「……完了した。これであの女も二度と魔力を使えはしない」
「他にアンタの手下の魔女はいないのか?」
「いない。そこの女がすべて片づけたようだからな」
バフォメットの視線を追うように、リンも刻もエレナを見る。
「おい、アンタ本当か」
刻が問いかけてもエレナは何も答えない。下を向いたまま、ぶつぶつと何かを唱えている。
「答えろエレナ」
バフォメットが聞くと、彼女はようやく顔を上げ、うつろな表情で首を縦に振った。
「これで満足したか」
「ああ」
覚悟を決めたように、刻が静かに目を閉じる。
「駄目だ!」
リンは起き上がり、彼に向かって手を伸ばした。
「しっかりしろ! 目を覚ませ!! 自分が何をしてるか分かっているのか!?」
必死に呼びかけた声がようやく届いたのか、刻は我に返ったように目を瞬いた。
「リン? 俺――」
「刻、よかっ……」
ほっとしたのもつかぬ間――――。
まるでコマ送りを見ているように、刻の身体がゆっくりと後ろに倒れていった。
「もう遅い。契約は完了した」
バフォメットの勝ち誇ったような声が耳に入り、リンの頭は真っ白になる。
どさり、と床に倒れる音がした。
「と……、刻――――ッ!」