32話
その頃、玄関ホールには一方的な暴力による不快な音がこだましていた。
階段わきに倒れる椿のもとへ行ったエレナが、意識のない彼女を嬲るように痛めつけていたのだ。何度も、何度も、何度も。
「いいかげんやめろ!!」
リンは床に這いつくばったまま、悲鳴にも近い声で叫んだ。
「どうしてそこまでする! お前の目的は拷問ではないはずだ!」
とどめを刺さないのはありがたい。だが、あまりに残虐すぎる。
もう見ていられない。なのに――。
(なぜ私は立ちあがって止めようとしない)
(芋虫のように無様に転がったまま、椿を見殺しにするつもりか!)
自らを奮い立たせ起き上がろうとするが、力がまったく入らない。
蹴られた場所が悪かったのか、少しでも動くと内臓にとてつもない痛みを感じた。
「どうして、ですって?」
必死にもがくリンに対し、エレナは振りもせず言う。
「そんなのこの女が嫌いだからに決まってるじゃない。こんな腰抜けの裏切り者、苦しんで死ぬべきよ」
それはまるで、ゴミを処分するような口ぶりだった。
「…………っ!」
瞬間、リンの中で何かが切れた。
湧き上がる激しい怒りが、すべての感覚を遮断する。
負傷した両手をぶらつかせて、華奢な足の力だけで起き上がった。不思議と痛みは感じない。目がかすんで前がよく見えないし、ふらついてまっすぐに歩けないが、かまわずに突進した。
エレナの後ろから体当たりを決め込み、リンは彼女もろとも前のめりに転んだ。
「ちょっ! いきなり何なの!?」
「こいつは……お前にとっては死に値する人間でも私には違う! 腰抜けだろうが裏切られようが簡単に失える存在ではない!」
不意打ちに驚いた顔をするエレナにのしかかったまま、リンは食らいつく勢いで怒鳴った。
「だから私はこいつを絶対に死なせたりはしない!!」
「知らないわよ……そんなこと!」
不愉快そうに赤い瞳を細めるエレナに着物の襟を掴まれ、リンは乱暴に横に倒される。立場が逆転し、今度は馬乗りにされた。
「おとなしくしていればよかったものを、馬鹿な女」
片手で首を絞め、もう一方の手に魔力を集めるエレナ。そのまま心臓に光弾を撃ち込まれるのだろうと、リンは瞬時に悟った。
死を覚悟し、悔しさに赤い瞳を睨みつけた――――その時。
(あれは、誰だ……?)
ふと、エレナの後ろに誰かが立っていることに気がついた。
顔は分からないが、黒い礼服を着た男だと分かる。
「我を呼び出した人間はどこだ」
男の言葉に、エレナがはじかれたように振り返った。
「バ、フォメット様!」
エレナはリンから離れて黒い礼服の男の前に跪いた。その声はひどく動揺している。
「バ……フォメットだと……?」
仰向けに倒れたまま、リンはバフォメットと呼ばれた男を注視する。
話に聞いていた姿とはまったく違った。黒い羽根もなければ山羊の角もない。
目鼻立ちの整った中年の男。少し変わったところと言えば、後ろで結った異常に長い髪くらいだろう。
「バフォメット様、私はあなたに会うため指示に従ってました。呼び出すことなどできるはずありません」
エレナの言う通りだった。
会いたくても会えないから、彼女は仲間殺しをしている。それが、指示を達成する前に悪魔が姿を現したとなれば彼女が混乱するのは当たり前だ。
エレナでないとすれば、いったい誰が悪魔を呼び出したのか?
その答えは、リンにとって信じがたい人物にあった。