2話
「リン様、申し訳ありません。無礼のないように、きちんと事情を説明してからお連れするべきだったのですが……。実際に貴女に会ってからの方が、事実を受け入れやすいと思いまして」
自分を育て、頼りにしてきた男が猫に向かって深々と頭をさげている。実にシュールで滑稽な光景だが、刻にはまったく笑えない。石のように固まったまま、一人の紳士と一匹の小さな獣の奇妙なやり取りを見守ることしか出来なかった。
「ふん、まだ若造だ。無礼な態度など気にしておらん。しかし問題はその面だな」
リンと呼ばれた黒猫が前足で器用に刻を指す。
「問題、でございますか?」
英次が首をかしげた。
「顔立ちが平凡すぎると言っている。しかも何だその生気を感じさせぬ目は。英次、お前は若い頃なかなかいい男だったではないか。なぜ孫はこうなった」
「はて、息子も嫁も容姿には恵まれていたはずですが……。たしかに刻は地味かもしれませんな。そこが可愛いと、我が孫ながら思っておりますが」
「まったく。お前はとんだジジ馬鹿だな」
「光栄でございます」
「褒めてはおらんぞ。まあよい、三寸の見直しともいうからな。愛嬌のない顔にもその内慣れるだろう。ハッハッハッ」
ひどい言われようだが、刻には何の言葉も出てこない。ただ、こんがらかる頭の中で同じ疑問を繰り返すだけだ。
――何だこれは。どうなっているんだ、何で猫が喋ってる? と。
黒猫はしなやかな動きでベッドから飛び降りると、混乱して立ち尽くす刻の足元までやってきた。
「ほら。ぼうっとしていないで、きちんと目線を合わせなさい。無礼だぞ」
英次に肩をやさしく押され、刻は片膝を着いてしゃがむ形になる。鮮やかな赤色の絨毯が敷き詰められた床から、視線を少しだけ上げた瞬間にリンと目が合った。
「…………っ」
大きな金色の瞳に見つめられ、吸い込まれそうになる。何故かは分からないが、刻はまるで催眠術にでもかけられたかのように動けなかった。
「そう怖がるな」
耳朶に響くリンの口調は、さっきまでの尊大な態度と違ってとても柔らかい。
「刻と言ったな。若いお前には退屈かも知れんが、少し私の話を聞いてくれるか?」
美しく心地よい声に、刻は操られているかのごとく無意識的に首を縦に振った。
それを見てリンが満足そうに頷き返す。
「うむ……。あれは日本が本格的に開国をし、この横浜が開港されて間もない時のことだ」
突如はじまった昔話に、刻はとりあえず黙って耳を傾ける。
と言うより、聞かなきゃいけない――そんな感覚に陥っていた。
黒猫はゆっくり、ゆっくりと語りはじめた。
「当時、異国人の存在自体には慣れてきつつあったが、民家が集まる静かな場所において彼らはまだまだ遠い存在だった。しかし、ある小さな町で不思議と人々の中に溶け込み、悠々と歩く赤い髪色をした外国人の女がいた……。その女はひとりの少女に、弟子にならないかと声をかけた。『貴女には素質があるわ、素晴らしい世界を教えてあげる』と。まあ、そんな怪しい誘いを、普通ならば断るであろう。だが身寄りをなくしたばかりの少女は他に頼るものがなく、赤毛の女について行ってしまったのだ。――そして赤毛の女は屋敷を建て、拾った少女にある『修行』をさせた」
――幕末の横浜に現れた、赤毛の外人。
――そして、彼女に拾われた日本人の少女。
(何で、急にこんな話をしてんだ?)
意図が読めずに困惑する刻だが、リンはかまわず続ける。
「それからと言うもの少女はその屋敷で『修行』に明け暮れた。色々と非常識なことを受け入れるのに苦労はしたし、傷もたくさん作ったが……彼女にとって師匠と過ごした四年の生活はなかなかに楽しかった」
なぜか遠い日を懐かしむように目を細める黒猫。その姿を訝るように見つめながら、刻は話の内容に違和感を覚えていた。
(修行って何なんだ? 非常識なことって……?)
刻を完全に置いてきぼりにしたまま、リンはしんみりとしながら物語りのクライマックスを告げる。
「だがある夜、赤毛の女――いや、ルネ・ルベールは突然、屋敷を出て行ってしまったのだ。弟子である私を猫の姿にしてな」
「……はっ!?」
衝撃的な結末に、刻は思わず声が裏返ってしまった。
――弟子である私を猫にした。
饒舌な猫は今、たしかにそう言った。
「まて、開国時代の話だろ……え? そんな昔の人間だったっていうのか? 猫のアンタが」
唐突に聞かされた話はややこしい上に胡散臭い。さっきまで目の前の黒猫に魅了され、呆けていた頭が一気に冷えた。
「しかも人間を猫に姿を変えるって、そんなのまるで……」
「『魔女の仕業みたい』か? ならば正解だ」
あっさり答えるリンだが、刻は困惑を隠せない。
「魔女ってあのホウキで空飛んだり、魔法を使ったりする奴だよな? その弟子ってことはアンタも――」
「ああ、魔女だ。私は師匠のように空を飛んだり、物理的に何かを生み出したりできないがな」
相手の反応を様子見るように、リンはいったん話しに区切りをつけた。しばしの沈黙が訪れる。
「…………」
「…………」
「……じゃあ、何ができるんだ?」
先に口を開いたのは刻だった。
せめて実際に何か不思議な力を目にしたら、全て信じられるかもしれないと思ったからだ。事実、猫が喋っているのである。その正体が魔女でないとは言い切れない。
試すような彼の視線に、リンは自嘲気味に笑った。
「さっき言ったとおり、私は物理的な魔法が使えん。だからできるのは、せいぜい占いと薬作りだ」
「何だ、信憑性ゼロじゃねーか」
やはり魔女など存在するはずがない。占いや薬などいくらでもインチキができる。
そう鼻で笑った刻を、今まで黙っていた英次がひかえめな声で窘めた。
「こら。失礼だぞ」
「かまわん。何ごとも目にしないと、信じるのは難しいものだ」
リンはそう言うと部屋の奥に置かれた机に飛び乗り、鼻先をつかって一枚の古びた大きな紙を広げた。彼女が目を閉じて集中すると、首にかけられているペンダントが光を帯びる。そしてかすかにゆれはじめ、だんだん大きく動き始めた。ペンダントは、そのままひとりでにゆっくり紙の上を移動していく。
『ダウジング』や『コックリさん』と同じ要領だ。
「ふむ」
リンはひとり納得すると、刻の方を振り返った。
「お前、今日はずいぶんと面白い夢を見たようだな。――廊下を歩いていたら突然扉が現れて、そこに入ったら鏡張りの部屋だった。違うか?」
「え」
刻は驚いた。たしかにそのような夢を見たのだ。
「何で分かったんだ? そんなペンダントと紙で……」
「この首飾りを使うと、対象者の意識を探ることができる。現在考えていることだけでなく、過去や少し未来の意識を覗き見ることができるのだ。つまり、寝ている間のお前の頭を覗いたいたというわけだ」
得意げに説明するリン。刻もズバリ当てられたことで思わず感心して聞いてたのだが、
「だから、少し先のお前の考えも分かったぞ。どうやら二、三度命の危険があるようだな」
「……!?」
物騒な話の内容に驚いて黒猫を見る。
「安心しろ。死にはしない、側にいる私が助けてやるからな」
黒猫はニヤリと笑った。言い換えれば、自分の側に居なければ死ぬぞ、ということなのだろう。
占いと称して相手をだます商法はよく聞く話である。もし街角で会った占い師なら余裕で聞き流すところだ。
だがそれを語るのが喋る猫で、見た夢をズバリ言い当てられたとなれば何があっても不思議ではない。彼女の予言を無視して、よからぬ事態になる可能性も否定は出来ない。
「…………はあ」
刻はあきらめたように息を吐いた。
「アンタの……占いの的中率は?」
「ほぼ百パーセント。魔女として他の能力がない分、占術と魔法薬作りに関しては、師匠をのぞいて私の右に出るものはいない」
リンは誇らかに答えた。英次も同意するように真剣な顔で頷いている。
猫の主人。江戸時代生まれの魔女。とうてい受け入れがたい事実だが、自分の持つ常識は捨てるしかない。
そうする方がよほど効率的で現実的だ、と刻は結論を出した。
「やっぱり信じられねーけど……。受け入れるしかないみたいだな」
不服そうに呟く刻。リンは英次の肩に飛びのり、驚いたように囁きかける。
「おい、何だか随分とあっさり信じたな。英次、お前なんて初めて今の話を聞いた時は一ヶ月以上は疑っていたであろう。いくつも証拠を見せてようやく魔女の存在を信じたものだが……。お前の孫は頭が悪いのか?」
「その逆ですよ」
英次は嬉しそうに微笑んで、小声で返した。
「この子は冷静に状況を分析した上で、あえて固定概念を捨て事実と認めたのでしょう。祖父の私が言うのも恐縮ですが、なかなか賢く柔軟な男です」
「ふむ、なるほどな。では――」
床に飛び降り、何か言おうとしたリン。しかし彼女の声は、閉じられている扉の向こうから響く声によってさえぎられた。
「リン様ああぁぁっ!!」
全員の視線が、ドアに集中する。
「ねぇリン様っ! 英次さんどこか知ってる? この荷物どこに置けばいいか聞こうと思ったんだけど!!」
使用人にしては幼く、甲高い女の声。
あまりのやかましさに刻は耳を塞いだ。
「ジュリアか」
リンが声の主らしき名を呟いて、英次にドアを開けるように指示する。そうして開かれた扉の向こうには、ダンボール箱を抱えた外国人の少女がいた。
「こらジュリア。大声を出しちゃいけないよ」
英次が入り口に立つ少女に優しく注意する。ジュリアと呼ばれたその娘は、悪びれもせず場違いなほどに明るい声で答えた。
「あはは! ごめんね英次さん! 手、ふさがっちゃってて! それでさ! コレ、どこに置く? 適当に置いちゃっていい?」
「ああ、頼んだよ」
「おっけー! まかせて!!」
ジュリアの日本語は流暢だった。歳は刻よりも三つか四つくらい下くらいに見える。高い位置でふたつに結った栗毛色の髪と、大きな青い瞳が印象的な少女だ。身につけたゴシック調のレースワンピースが妙に似合っている。
「あ! もしかしてキミが英次さんの孫の刻くん!? あたしジュリア・サンダースだよっ。よろしくね!」
刻の存在に気付いた彼女が、無邪気な笑顔で声をかけてくる。
「はあ、よろしく」
刻が無表情のまま挨拶を交わすと、リンがジュリアの簡潔すぎる自己紹介に補足をした。
「こいつは居候だ。まぁこの通りうるさい奴が気にするな」
「居候? ……まさか、この子も魔女だったりするのか?」
げんなりしたように尋ねる刻に、黒猫は首を横に振って否定した。
「いや、違う。ちょっと事情があってな……」
説明しようとしたリンの声は、
「あたし行くね! 刻くん、あとちょっとでお部屋の準備終わるからねっ!」
またもジュリアにさえぎられる。
「は? 部屋の準備ってどういう――」
はっとした刻が声をかけたものの、ジュリアはすでに鼻歌をうたって廊下を進んでいたため聞いていなかった。
そして嵐が去ったかのように、部屋にふたたび静けさが訪れたのだった。
(部屋の準備って……執務室とかか?)
首をひねる刻を尻目に、リンが思い出したように英次を見た。
「――さて。新しい執事も決まったことだし、今日中には例の出張に出られるか?」
「はいお任せを。準備がありますので、失礼します」
一礼をして部屋を出て行こうとする英次を、刻が慌てて呼び止める。
「え、おい。ジイさんどっかに行くのか?」
「セルビアに行ってもらう。何だ、英次に聞いていないのか」
涼しい声で質問に答えたのはリンだった。
「セ……っ」
行き先を聞いて呆気に取られる刻。そんな孫を祖父は――――やはり抱きしめた。
「刻! ジイちゃんはしばらく留守にするが、元気でいるんだぞ!!」
「だからいちいち抱きつくな。つーか、セルビアだと?」
「現地にいる魔女が私に魔法薬を注文してきたのだ。その依頼人が直接届けに来てくれと言うのでな。英次に行ってもらうことになったわけだ」
祖父を引き剥がそうともがく刻に、リンはあっけらかんと言ってのけた。
「そんなのウチのジイさんじゃなくてもいいだろ。セルビアって……。年寄りを何とんでもねえ所にパシってんだアンタ」
主人となる相手に遠慮なくもの言う刻。英次は腕の力を緩めて彼から離れると、今度は愛する孫の頭をぽんぽんと叩いた。その愛する孫は不愉快そうに眉間にしわを寄せているのだが、孫を愛しすぎるこの男は気にしていない。
「幼稚園に通いたての頃も、お前はこうやって駄々を捏ねていたよ。『ジイちゃん、置いていかないで』とな」
「言ってねーよ」
「私だって可愛い孫を置いて行くのは、あの時と同じで心配だ。そこで対策を練った」
「対策? 嫌な予感しかしないんだけど」
怪訝そうな刻に対して、英次は相変わらず慈愛に満ちた顔で告げる。
「今日からお前はここで住むんだ。リン様が見ていてくれれば私も安心できるからな」
「はあっ? ったく、アンタは何でいつも大事なことを早く言わないんだよ。……そうか。さっきあの外人が言ってた部屋の準備って、引っ越しのことか!」
「私もお前もここで働くなら住み込みの方が便利だろうと思ってな、同居の件は前からリン様に相談していたんだ。出張中お前を置いて行くのを心配だと話したら、お前だけ先に屋敷に越してくればいいと言ってくださったのだよ」
「…………」
祖父の強引さに、刻はもう慣れっこだった。今さら引っ越しに反対しても意味がないとあきらめ、こめかみを押さえて現実を受け入れる。
「でも……ジイさんがいない間、執事なんて何していいか分からねーぞ」
「心配するな。英次が帰って実務を教えるまでは、ただ私の命令に従えばいいだけだ。お前のようなサルでもできる」
話しに割り込んできたのはリンだった。
「猫のアンタにだけは言われたくねーんだけど」
刻は大仰にため息をつき、
「……はあ。今日から猫の下僕とはな」
と、遠い目をして独りごちたのだった。