19話
「――あれは仕事に行き詰まり、気晴らしの散歩から帰ってきた時だったな。炎天下の中、愚かにも食事をとらず歩きまわった私は、不覚にも門の手前で倒れてしまって……」
「本当に愚かだな」
「黙れ。……で、気がついたら若い娘に抱きかかえられていた
「それが椿さんか」
「ああ」
過去の光景を鮮明に思い出しながら、リンは目を細める。
「私を屋敷の飼い猫だと考えた彼女は、英次を主人と勘違いして看病を頼んだ。弱っているからちゃんと世話をしてあげてください、とな……。そのまま去ろうとした椿を、英次は引き止めた。礼をしようとしたわけじゃない。理由は彼女の顔だ」
「美人だから返さなかったとか言うなよ」
「そんなわけなかろう、英次が女の尻を追いかけていたのは二十代前半までだ」
「知りたくなかった」
刻が苦い顔になって一瞬作業の手を止める。
リンは今ではすっかり落ち着いてしまった、執事であり旧友である男のやんちゃな姿を思い出して小さく笑みをこぼした。
「ともかく、奴が気にしたのは椿の顔の傷だ。よく見れば顔だけじゃなく、腕や胸元にも傷を作っていた。そのまま返すのは気が引けたから、屋敷で手当てをしてやることになったのだ」
「ん? 何で椿さんはそんなに怪我してたんだよ。事故にでもあったとか?」
「いや。親同然の人間に日ごろから暴力を振るわれていたらしい」
「ひでー話だな」
「まあ、悪魔に魂を売らずとも他人を傷つける奴はごまんといるからな」
当時のリンも、椿の痛々しい姿に心を痛めた。だが、ふつうの猫のふりをしていたリンには同情の言葉をかけることができず、彼女の話を聞きながらその悲しげな横顔を見ているしかなかった。
英次がこれからどうするのかと尋ねると、椿は心細そうな目でこう言ったのである。
『分かりません。私には他に行くところがありませんから』
――と。
「……その時、私は思い出したのだ。唯一の身寄りをなくし、途方にくれていた頃のことを。守ってくれるものもなく身を売られそうになっていたのを……。そんな私を助け、拾ってくれた女のことをな」
「あんたの師匠のことか?」
「そうだ。私は無性に椿を放っておけなくなり、秘密を明かしてこの屋敷に住まわせることにした。どんなことがあっても見捨てずに守ると決心したのだ」
「娘のように、か」
「ああ」
刻の言葉にリンは柔らかく微笑んだ。
「……さて、お喋りはここまでにしてさっさと仕上げるぞ」
リンは、刻から受け取った材料を瓶に入れて振る。
意識を集中させ、魔力を送り込んでいくと――。
液体は見事に鮮やかな赤色へと変化した。
「よし。成功だ!」