1話
――二〇一三年 十月
「うっわ……ここかよ」
真城刻はメモを片手に、とある一軒の家の前で立ち尽くしていた。
厳密に言うとただの家ではない。ミニチュアの城を思わせるほどの立派な洋館だ。
目の前にそびえる大きな門から覗くレンガ造りの屋敷は、古びているせいか、さながら有名テーマパークにある西洋風お化け屋敷みたいな雰囲気である。
真っ赤な夕焼けの空にカラスの鳴き声が響く。その情景が、余計に屋敷を不気味に見せているのかもしれない。
山奥の閑静な住宅街には似つかわしくなく、この建物だけが別の国と別の時代を思わせた。
「すげーな」
感嘆の声を漏らして古めかしい館に不釣り合いのインターフォンを押すと、聞きなれた声がすぐに返ってきた。
「はい。どちら様でしょうか」
「ジイさん、俺だよ俺」
「ああ、刻か。ちょっと待っていなさい」
しばらくすると、屋敷から老齢の男が出てきて門を開ける。
軽く後ろに撫でつけたロマンスグレイの髪に、異国の情緒を漂わせる顔立ちと長身。スーツを上品に着こなしたその紳士は刻の祖父、真城英次である。職業はこの仰々しい屋敷の執事だ。
見るからに厳格そうな雰囲気をまとった彼は、刻を一瞥するなり――――抱きついた。
「待っていたぞーっ! いやぁ、お前が私の後を継ぐ日がくるなんて。ジイちゃん、どんなに嬉しいことか……!」
「おい、やめろよ気持ち悪い」
刻の心底嫌そうな声に、しぶしぶ離れたかと思えば今度は頭をなでくりまわす孫バカの祖父。
「ついこの間までひとりでおつかいも出来なかったのに……! なんて立派に……っ。くぅっ」
今度はハイテンションから一転、目頭を押さえて感慨にふけりはじめている。
「……ったく」
刻は長いため息をついた。
基本的には真面目な性格の祖父であるが、どうもこうやって異常に子ども扱いするところがある。
息子夫婦を亡くして、たった一人残された孫を可愛がる気持ちは分からなくもないが、この年齢になるとさすがにうっとうしい。
「もういいから。ほらジイさん、早く案内してくれよ」
「そうだな!」
唯一の肉親である祖父ーー英次は刻を敷地内に入れて門を閉めると、スキップせんばかりの足取りで屋敷に向かって歩いていく。
刻は上機嫌な英次の後に続き、
「まだまだ仕事できそうじゃねぇか……後継ぎなんて当分いらないだろ、絶対」
と、気だるげな表情で呟いたのだった。
ことの発端は刻が十七回目の誕生日を迎えた先月、
『私の後を継ぐ気はないか』
英次が口にした、そんなひと言だった。
仕事が生きがいの祖父らしくない弱気発言に驚きつつも、将来やりたいことがないからと軽くOKした刻は、驚くべき事実を耳にすることとなる。
祖父だけでなく、真城家の人間は代々執事の仕事を継いできたのだと聞かされたのだ。
今まで教えてくれなかったことに何となく不信感を覚えて一度は断ろうとしたのだが……。話はとんとん拍子に進み……気がつけば今の高校に通いながら“バイト”として祖父を手伝い、徐々に仕事を覚えていくという話でまとまったのだった。
そして、初出勤となる今日にいたる。
刻は学校が終わってすぐ、この屋敷に向かったというわけだ。
「しっかし、広いな」
門を抜けてから屋敷までの距離はかなりあるらしく、広すぎる庭を突っ切るようにして石畳の道がまっすぐ伸びている。その道を歩きはじめた刻は、異様な光景に背筋を凍らせた。
カラスが大きく口を開けて翼を広げている像や、角を生やした奇妙な生物が描かれている石碑。その他にも奇怪な置物の数々が、屋敷の玄関口へと向かうこの道の両端に並んでいたのである。
しかもそれらすべてが向かい合うように列を作っているため、間を歩いていると両側から睨まれているような気分にさせられた。
「なぁジイさん、この妙な置物っていったい何なんだ?」
「ん、ああ。これは屋敷を建てたお方の趣味だと聞いている」
「趣味ねぇ。こんなのいつまでも残しておくなんて、今住んでる奴もこういうのが好きなのか?」
少し顔を引きつらせながら尋ねる刻に、英次はさらりと返した。
「そうではない。下手に動かしたり触ったりすると、どんなことが起きるか分からないから処分できないんだ。危ないからお前も十分に注意しなさい」
「は?」
「ちょっと困ったイタズラ好きがいてな……。まあ気にするな。そのうちに馴れるから」
「いや、気になるだろ。何が起こるか分からないって? 危ないってどういうことだよ。馴れるって何にだ」
ようやく気味の悪い道を抜け、屋敷の玄関の前に立つ。英次は刻の声が聞こえていないのか聞こえていないフリか、無言で玄関の扉を開ける。
秋らしい乾いた空気の空に、ギイ、と重たい音が響いた――。
刻は気鬱なまま屋敷に足を踏み入れる。
中は思ったより綺麗で、開放感のある玄関ホールには煌びやかなシャンデリアや高級そうなカーペットが華を添えていた。まさに古き良き西洋館といった印象である。
ふたりは吹き抜けになっている階段を上り、コの字型に並んだ部屋のうち一番奥の扉の前に立った。
「ここが我らの主、リン様のお部屋だ」
「リン? 女なのか?」
てっきり世離れした非常識で偏屈なオヤジが主人だろうと思っていた刻は拍子抜けする。
と、同時に、やはり何も聞かされてないのはおかしいという疑念が蘇った。
ふつう就職の場合、勤めようとする企業について多少は知識があるはずだ。でなければ、どこに勤めようか決められないし、面接でも困る。それなのに今回は使用人という仕事内容と、ついさっき知った『リン』という主人の名前だけしか教えられていない。
それから主の人柄や仕事について聞こうとしても、祖父はのらりくらりとかわしては答えてくれなかった。
結果、刻の中ではどんどん不信感が募っていくことに。
「ご主人様は随分と秘密が多い人間らしいな」
(どうも怪しい……。ジイさんの奴、何か隠してるんじゃないか?)
質問ではなく皮肉にして呟いたものの祖父には伝わらなかったようで、
「すべてはリン様にお会いしてから伝えることだ」
そんな淡々とした声が返ってくるだけだった。
「リン様、入ります。真城刻をつれて参りました」
口調こそかしこまっているものの、英次はノックもせずに扉を開ける。
刻は祖父に続いて部屋に入り、アーチ窓から差し込む夕焼けのまぶしさに目を細めながら主人の姿を探す。
「……?」
だだっ広い部屋の何処にもそれらしき女はいなかった。当然、男もいない。
いたのは――ベッドの上にちょこんと座ってこちらを見る、一匹の黒猫だけ。
よく手入れされた美しい毛並みをし、首に大きな銀色のペンダントをさげている。屋敷の主人はどうやら猫好きな人間のようだが――。
「何だよ。留守じゃねえか」
「いや、留守ではない」
英次はそう言って黒猫の方にすっと手を伸ばした。真顔で。しかも、きっちり揃えた五本の指で。実に丁寧な仕草で猫を指し示した。
「彼女がリン様だ」
「は?」
意味が分からず、刻は思いきり眉根をよせる。
「ほら、ちゃんと挨拶なさい。今日からお前の主となるお方だぞ」
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………はぁ?」
刻は間抜けな声を漏らし、ゆっくりと英次と黒猫を見比べて沈黙する。そして一分ほどが経過。
「ん? どうした」
英次が動かなくなった孫を覗き見ようと、小さい子供を相手にするみたいに腰を少しかがめる。
「ジイさん……いだろ」
「何?」
次の瞬間。刻は無意識のうちに祖父の両肩を掴んでいた。
「いくら歳だからって、さすがにそれはヤバイだろ。ボケが始まったのか? いや、まだ還暦になったばかりだよな。さっきまでは普通だったよな? 人違いってレベルじゃないぞ。よく見ろ、人間ですらない」
普段はおとなしい孫の攻撃に、英次は目を丸くする。
「真顔で私の肩なんぞ揺さぶって……。お前大丈夫か?」
「大丈夫じゃないのはジイさんの頭だろ」
刻の表情はたしかに冷静だったが、心理的ダメージは相当なものだった。
感情が表に出にくいせいで、相手に動揺がうまく伝わらないのがもどかしい。
彼の知る真城英次とは、いくらとぼけた所があるとはいえ、こういう悪い冗談をいう男ではないはずだ。だからこそ『冗談だろ? からかうなよ』とは言えなかったのである。
祖父の妙な言動に、刻はめまいを感じた。そして彼の混乱は、次に耳にした声によってとどめを刺されることとなる。
「この冴えない小僧がお前の後継ぎか? 英次」
聞こえたのは、そこに居るはずのない女の声だった。頭の中が真っ白になっていくのを感じながらも、刻は雇い主がどんな人か――いや、どんな生き物かを知ってしまう。
可憐なその声がまぎれもなく、目の前の猫から発せられているのを見てしまったからだ。
ショックのあまり、隣に居るはずの祖父の声が遠くの方で聞こえる気がした。