18話
魔法薬を作るためだけに作られた調合室は、他の部屋にくらべて極端に小さく閉鎖的な空間だ。作業台の他には、よく使う材料を保管している棚くらいしかない。
台の上には今、すり鉢とまな板が置かれている。まるで料理をするような道具ばかりだが、実際していることは近い。何種類かの薬草を刻み、すり合わせるのは薬作りの大切な手順なのである。
リンはそうして用意した半固形状の物体を、特殊な水と一緒に小瓶に入れて軽く振った。
魔力を送り込みながら、静かに変化を見守る。うまく行けば、深緑色が赤色になるはずだ。
しかし――。
「クソっ。また失敗か!」
何度やっても変化はしなかった。
理由は分かる。まったく集中できないからだ。
目を閉じて意識を集中させる度、血まみれで痛々しげな椿の姿を思い出してしまう……。
「しっかりしろ、お凛! もう誰もあんな目に合わせるわけにはいかんのだ」
自らを奮い立たせ、姿勢を正す。
もう一度、目の前の小瓶に神経を注いだ。
「………………………………はあ」
しかし何も起こらず、大きなため息が出ただけだった。
「リン」
扉の向こうから聞こえる声に、リンははっとして手を止めた。
「刻か。敵がきたのか?」
「いや、違う」
「だったら後にしろ。忙しい」
可愛げのない執事見習いに負けないほど憮然として答える。
襲撃者がいつまたきてもいいように、一刻も早く毒薬を完成させなければならないのだ。今は呑気に談笑している暇はない。
「……分かった」
あきらめたような刻の声を聞いて、今さらながら気がついた。
(もしかして、心配してきたのか?)
手伝いにきたわけじゃわけじゃないだろうし、他にそれくらいしか思い当たらない。慌てて振り返ったが、扉の向こうにはもう誰もいないようだった。
ふう、と嘆息して再び小瓶と向かい合う。
(刻、か……。あいつがいなかったら椿は今頃死んでいたかも知れんな)
リンが思い出したのは、血だらけになった椿を前に茫然となった情けない自分。
そして、そんな自分とは違って冷静に対処していた刻の姿だ。
彼の適切な処置のおかげで大事に至らなかったのに、礼のひとつも言わずに冷たい態度を取ってしまった。
(私には、余裕というものがないな)
「つッ!」
いのまにか中の液体が激しく熱を帯びていて、驚きのあまり瓶を床に落としてしまった。
考えごとをしていたせいで、必要以上の魔力送り込んでいたらしい。
「大丈夫か? ガラスが割れたみたいな音したけど」
扉が開け放たれ、去って行ったはずの刻が入ってくる。
「うわ、くせ……っ。何の匂いだ?」
彼はシャツの袖で鼻を押さえながら、もう片方の手でパタパタとあおぐ。そして床に散らばったガラス片と液体を避けて通り、奥にある小さな窓を開けた。
「何だお前、邪魔だと分かって消えたんじゃないのか」
リンはその背中に言葉を投げかける。
(……またやってしまった)
頭では心配して戻ってきてくれたのだと分かっているのに、苛立っているせいで、いつもよりひどいことを言ってしまう。
刻は振り返ってリンを見るなり眉間にしわを寄せた。さすがに怒らせたかと思ったが……。
「顔色悪いぞ。少し休めよ」
「え?」
どうやら彼は気遣ってくれているらしい。 なのに、口をついて出る言葉はどんどんけんか腰になってしまう。
「休んでいる暇などない、放っておけ」
「つっても何かアンタ……見てて心配なんだよ。休めって。倒れたら元も子もないだろ」
「大丈夫だ。ひ弱なお前の身体と一緒にするな」
「でも――」
「大丈夫だと言っておる!」
しまったと思った時には、もう机を強く叩いて怒鳴った後だった。
刻に驚いた様子はなく、片眉を上げてこちらを見ているだけ。呆れているのか怒っているのか、よくわからない表情だ。
「そんな状態で作業しても、うまくいかないと思うけど」
彼は淡々とした口調で言った。
「極度の緊張は集中力の低下につながる。戦闘中ならともかく、何かの作業をする時は副交感神経が出ている状態の方がいいらしいぞ」
「副交感?」
「少し落ち着けってことだよ」
「言われなくても分かっておる……」
反射的に刻の説明に言い返したリンだったが、何だか尻つぼみになってしまった。
「私だってお前のように冷静になれたらいいと思う」
とうとう本音が出る。それからはせきを切ったように言葉が止まらなくなってしまった。
「……だがな、無理なのだ。椿が私のせいで怪我をしたと思うと、悔しくて仕方がない。せめて犯人を捕まえてやろうと思っても、手も足も出なかった。私が弱いせいで、下手をしたら全員死んでいたかも知れない……っ。しかもその後、怪我をした椿を前に私はただどうしていいか分からなかった!」
机をはさんで向かい合う刻は、後ろの壁にもたれかかりながら黙って聞いている。
「もっと、しっかりしなければいけない。強くなくてはいけない。そう分かっているのに百年以上生きていても私は魔女としても人間としても未熟なまま! 今とてそうだ。年下の小僧に愚痴などこぼして、己の矮小さにあきれるばかりだ……っ!」
空気を求めて呼吸を整えるリン。情けなくなって下を向くと、刻の落ち着いた声が降ってきた。
「冷静になれないのは当たり前だろ」
「何?」
予想外の言葉に、リンはきょとんとする。もっと馬鹿にされると思っていたのだ。
「俺が冷静だって言うけど、それはアンタほど椿さんと親しくないからだ」
「そ、それはたしかにそうかもしれんが」
「別に感情的になるなとは言ってない。俺はあまり他人と深くかかわったことないからよく分からないけど、誰かのために怒るのはたぶんいいことだと思う。落ち着けってのは、ぐちゃぐちゃ状態の頭を整理しろって意味。たとえば、今みたいに悩んでること口に出してみたりとかな」
「…………っ!」
リンは思わずはっとした。まさに彼の言う通り、感情を爆発させただけで少し気持ちが楽になっていたのだ。
「もう……心配ない」
強がりではなく、本当に大丈夫そうだった。ようやく頬をなでる夜風の心地よさを実感できるほどに、胸の中に渦巻いていた激しい嵐は収まっていた。
「さて、作業に戻らなくては」
気恥ずかしさを隠すように、リンは材料が並ぶ棚に向かってさかさかと歩く。
薬草の入った瓶を取ろうと背伸びをして高い場所に手を伸ばすと、後ろから伸びてきた
腕が軽々と瓶を取り上げた。
「これか?」
「すまない。助かる」
「じゃあ、頑張れよ」
リンに瓶を渡すと、刻は軽く手を振って出て行こうとする。
だが、次の瞬間――。
「何、まだ何か言いたいことあんのか?」
訝るように振り返る刻の顔を見て、リンは無意識に彼の服を掴んでいたことに気がついた。
「え……!? いや、その」
どう答えていいか分からず、うつむくしかない。
ただ、何となく――彼がそばにいてくれた方がいい。そう思っただけなのだ。
「また一から作り直さなければならんから、手伝って欲しくてだな」
とっさに言いわけっぽく説明すると、刻は困ったような顔をする。
「俺、魔女の薬のことなんか何も知らねーぞ。助手がいるならハルかジュリア呼んでくるけど」
「お前でかまわん。私の言う通りにやればいい。お前のようなサルでもできる」
「またそれかよ」
今度こそ呆れた顔をする刻。面倒くさそうにしながらも、シャツの袖をまくりあげて指示を待ってくれている。
リンは棚を指さし、他の材料も取ってくれるよう頼んだ。
「今回の薬は一段目の右端にあるパロ・サントとの木の皮と、樹脂を加工したフランキンセンス。あと、真ん中にある隣にある乾燥させたセージを使う」
それらを手にした刻が鼻に近付ける。
「意外といい香りなんだな。さっきの強烈にくさかったやつは何だったんだ?」
「言うなれば突然変異だ。私の作る魔法薬は魔力を注ぎ込んで仕上げる。その過程において、分子とやらの構造が変わるらしい」
「へえ、なるほどな」
「さて、まずは下準備をせねばならん。刻、台の上にある板の上で材料を細かくしてくれ」
「分かった」
刻は頷くと、材料を小刀で刻み始めた。手際よく材料を切っていく彼の姿が、料理をしている椿の姿と重なって見えた。
彼女はあんな目にあっても、以前と変わらず料理を作ってくれるだろうか――。
「……椿がきてもう二年になるのだな。それまではひどい食事だった」
独り言のつもりでぽつりとこぼすと、刻が手を休めて反応した。
「二年? てっきり、もっと長い付き合いかと思ってた」
「なぜだ」
「だってアンタらずいぶん信頼しあってるみたいだから。付き合いの長い、うちのジイさんと同じくらい」
たしかに、椿とは信頼関係で結ばれている。だが、
「英次との関係とは少し違うかも知れんな。私にとって椿は娘のようなものだ」
「は? 娘?」
ピンとこないと言った刻の表情も無理はない。猫の時にはペットにしか見えないだろうし、人間の時は姉妹にしか見えないはずだ。年齢で言えば、逆に十分すぎるほど離れている。
「私は椿と初めて会った日に、あの娘を守ろうと決めたのだ」
リンは昔を懐かしむようにふっと笑った。
新しい器具を用意しつつ、彼女は椿と出会った時の話を始める。