11話
不審に思いつつ、部屋を出ながら通話ボタンを押す。後ろ手にドアを閉めて応答した。
「もしもし」
『おぉ刻。元気か? 私だ!』
若干のタイムラグの後に返ってきた声。それはあまりに聞き覚えのある声だった。
まさか今このタイミングで、しかもこの番号に連絡があるとは考えもつかなかった相手である。
「え、ジイさんか……?」
『そうだ。どうした、そんなに警戒した声を出して。もっと嬉しそうにしてもいいじゃないか』
「アンタからだと思ってなかったからびっくりしたんだよ」
『屋敷に電話がないからこっちにかけた。今は都合が悪かったか?』
「……そうじゃなくて。アンタに携帯番号教えてないのに、どうして分かったのかってことなんだけど」
『馬鹿言うんじゃない。保護者の私が知らないわけないだろ。どうせジイちゃんが心配のあまり、お前にしつこく連絡をすると思っているんだろう? そんなことはお見通しだ。ジイちゃんは何でも分かるんだぞ。お前が幼稚園生の頃に好きだった女の子の名前もな』
電話の向こうで祖父が得意げな顔をしているのが分かった。
刻は冷ややかな視線を電話越しに送ったが、英次は気付いていないようで、空気を読まずに一方的に話しはじめる。
『それにしても、セルビアと日本では勝手がまったく違うなぁ。聞いてくれよ、ニコラ・テスラ空港に無事に着いたはいいんだが、何とここは電車よりもバスのほうが正確だし便利らしい。そんなこと私は知らんだろう? だからベオグラードから電車に乗ってしまって依頼人との約束に遅れてしまったんだよ。でも依頼人は驚くことにまだ小学生くらいだったんだがとてもいい子でな、一時間も遅刻した私を笑って許してくれた。もう少し年齢が上ならお前の嫁さん候補にいいかとも思ったんだが……やはり国際結婚というのは大変だろうな。やっぱりジイちゃんは反対だ。ところで彼女の作る料理は絶品だぞ? トルコ料理に似ていてお前の口にもきっと合うだろう、まぁ椿くんの腕には敵わないがな』
「なげーよ。そんなことを言うために電話してきたのか? アンタ」
さすがに業を煮やした刻は口を挟んだ。祖父はいつもこうだ。世間話をはじめると止まらないのである。
『おっとすまん。お前たちを心配して様子を聞くために電話したんだった。どうだ、皆元気にしているか?』
「ああ、元気だよ。もう少し元気がなくてもいいくらいに」
皮肉で返すと、電話の向こうの英次が楽しげに笑った。
『なかなか苦労しているようだな。まぁお前は家にひとりでいることが多かったから、大人数で食卓を囲んだりするのは慣れないだけだろう。だが、そのうち楽しいと思える時がくる』
「どうだか」
そんな日は絶対こないと確信して、刻は憮然と答えた。
『そうだ、お前に大事なことを言い忘れていた。リン様は日が沈むと人間の身体に戻る。くれぐれも破廉恥な真似をするんじゃないぞ』
「……知ってるよ、昨日の時点で気付いてないわけないだろ。だいたい破廉恥って……アンタ孫を何だと思ってるんだ?」
「立派な男だ! 精神的にもそうだが身体的んにもいろいろ立派に成長した――」
「もういい。それ以上言うな」
祖父の若干ズレた褒め言葉は、たいていありがたくない。
「刻? 誰かそこにおるのか」
背中のドア越しにリンの声が聞こえた。
「ジイさんだよ」
刻が一度電話を耳から離して答えると、
「英次? どういうことだ、今そこにいるのか」
リンの惚けた返事が返ってくる。あちらもこちらも話が思うようにできない。立て続けに年寄りの天然ボケに付き合わされた彼はどっと疲れた。
「ここにいるわけないだろ。電話だよ」
「電話?」
「そう電話。通信機」
「おお通信機かそれなら分かるぞ。ちょっと待っていろ、私も英次の声が聞きたい」
数分後、和服を着たリンが出てきた。急いだせいか少し着くずれしているが、絵画から出てきたような美しさは昨日と変わらない。
まだ見慣れぬ美少女に落ち着きのなさを感じながらも、刻は彼女に携帯を差し出す。
飾り気のまったくない、黒い折りたたみ式の携帯電話。リンはそれを戸惑いながら受け取り口の前にかざして、
「私だ。聞こえるか、英次」
ぎこちなく呼びかけたあと、今度は電話を素早く耳に当てた。
『はい私です。刻はどうですか? 迷惑をかけてはおりませんか』
英次の返事を聞いた彼女は、またそれをわざわざ口の前に戻して喋る。
「ああ、相変わらず可愛げないが、仕事はできておる」
『……れは安心いたしました』
彼女が再び携帯を耳元に持ってくる前に英次が返事をしたので、最初の部分を聞き逃しまったらしい。また電話を顔の前に持ってきて抗議した。
「馬鹿者、すぐに返答するな。聞き取れないだろうが」
見かねた刻は、携帯電話を持つリンの華奢な白い手をとって、彼女の耳元に誘導してやる。
「わざわざ動かさなくても、このままで会話できるんだよ」
「む? そうなのか……」
ぱっちりとした目をさらに大きく見開き、心底驚いた様子のリン。間違ったことが恥ずかしかったのか、頬を染めてわざとらしく咳払いをする。
その咳を勘違いした英次が大げさに気遣った。
『リン様? どこかお悪いのですか!』
「何でもない。それよりセルビアはどうだ」
『いやぁ、驚きました。日本では勝手がまったく違うんです。ニコラ・テスラ空港に無事に着いたはいいんですがね、何とここは電車よりもバスのほうが正確なのですよ』
どうやら、祖父はさっきと同じ話を繰り返す気らしい。
長くなりそうだと思った刻は、少し離れたところでリンと英次の会話が終わるのを待つことにした。
廊下の手すりに寄りかかって目をつむる。
静かだな、そう思った矢先、屋敷の外からジュリアの声が耳に入ってきた。
「待ってー」とか「忘れてるよ」とか叫んでいる。
(あいつ、どれだけ声でかいんだ)
誰かを呼びとめるような彼女の大声に呆れていると、
一瞬だけ、妙な静寂が訪れた。
それから――――。
「きゃあああぁぁっ! いやぁ誰かっ!!」
突如耳をつんざくような悲鳴が響き渡り、刻はぎょっとした。電話を耳から離したリンが、あたりをキョロキョロ見まわしながら警戒している。
「な、何ごとだ?」
「俺、ちょっと見てくる」
刻は困惑する主人をおいて、階段を駆け下りた。
嫌な予感に急かされるように玄関ホールにつくと、大部屋から出てきたハルと出くわした。
「ハル! 今の声って……」
「ジュリアだヨ!」
これまでの生意気さが信じられないほど狼狽したハルに腕を掴まれ屋敷を出る。