10話
一度自室に戻って着替えを済ませると、刻はまず着物の手入れからはじめることにした。
和服を綺麗するのは面倒で、洋服のように手軽に洗濯、と言うわけにはいかない。下手すると生地を駄目にしてしまう恐れがあるので、とりあえず携帯で方法を調べてみた。
「すみません、いらないタオルありますか」
必要なものを椿に頼むと、少し憐れんだような顔をしながらも用意してくれた。
着物をリンの部屋から運び出し、風通りのいい二階の廊下で作業を開始する。説明にある通り、タオルを濡らして軽く叩くように汚れを落とし、専用のブラシで仕上げた。天日干しは別の日にするしかない。この時点で、もう夕方の四時近くだった。
次にとりかかったのは保管庫の整理。リンから渡されたメモどおりに薬にラベルを貼り、正しい位置に並べ替える。これは意外と簡単で、三十分ほどで終了した。
そして最後の命令である百通の手紙を書くために、詳しい指示をリンに求めに行く。
自室で待っていた彼女は、驚いた様子で刻を迎え入れた。
「ずいぶんと早いな。もう他の仕事は終えたのか?」
「ああ」
「むぅ。お前、なかなか器用だな」
感心したように唸るリンは「よし」と言って、椅子に座ったまま刻を仕事机の方へ手招きした。その姿は言うまでもなく『招き猫』にしか見えない。
「さて手紙だが、これを使え」
彼女は机の上に用意されていた便箋と封筒を、鼻でつんつんと触ってしめす。
「作業はここでするとよい。私はお前が書いて封筒に入れたものに印を押していく」
「分かった。……けど、百枚もいったいどこに出すんだ?」
「顧客だ」
リンは、便箋の隣に置かれたノートを見るよう刻に指示する。
言われるがまま手にとって開くと、中にはさまざまな言語で書かれた住所と名前らしきものがびっしりと並んでいた。
「私が占いと薬作りが得意なのは教えたな? そこにあるのはすべて、私に占いや薬を依頼してくる客の一覧だ」
「へえ。それで、本文は?」
「今から言うことを文字に起こしてくれ」
椅子を刻にゆずって、リンは机の上にぴょんとのる。
入れ替わるように椅子に腰かけ、ペンを握ったところで刻は動きを止めた。
「何語で書けばいいんだ?」
宛先は何十カ国もある。一応聞いてみるものの、当然日本語しか書けない。努力しても、せいぜいつたない英語が限度だ。この仕事をこなすのは困難かと思われたが、
「日本語でかまわん」
さも当たり前のようにリンが言った。
「紙に特殊な薬を染み込ませてある。“意思疎通薬”と言って、書いた人物の意図を読んだものに伝えてくれるものだ。だから、文字自体はあまり意味がない」
「マジかよ」
にわかには信じがたいが、魔女の薬となればこのくらいの技術は当たり前らしい。
「ほら、書くから内容を言ってくれ」
刻は気を取り直すように、ペンを握り直して催促した。
「うむ」
軽く咳ばらいしたリンが、棒読みするように言葉を発する。
「えー、『毎度ご利用ありがとうございます。この度、新作ができましたのでお知らせいたします』」
「書けた。次」
「『つきましては、新商品“一目惚―れ”の魅力をより知っていただくために、驚きの実験結果を同封しました』」
「“ヒトメボーレ?”」
「惚れ薬だ」
「ひっでぇ名前だな」
刻は思わず手を止めて、渋面を作る。
「いいから黙って手を動かせ。――次はだな、『実際に使用した方々の感想も一部抜粋して載せさせていただきます』」
まるで通販番組の宣伝文句みたいだと思いながら、本当かどうか怪しい『使用者の言葉』を文字にしていく。ご注文をお待ちしております、と締めくくってようやく一枚を書き終えた。
「できたぞ」
「よし。では今と同じ内容のものを、あと九十九枚用意してくれ」
「って、百枚全部一緒なのかよ!」
ようは、ただのダイレクトメールである。
「文句を言うな。さっさと――――――――――い、いかん!」
次の瞬間、机の上からベッドへと見事なダイブを決めた黒猫は、もぞもぞと布団の中に潜り込んだ。
「……? どうかしたのか」
刻の冷静な問いに、リンが必死な声で訴える。
「変身がはじまったのだ! いいか、こっちを見るのではないぞ!」
「何で。正体知ってんだから別に問題ないだろ」
「変身といっても、服まで一緒に変わるわけではない。人間の姿に戻ったところで裸は裸のままなのだ」
そんな危ない時間に男を部屋に入れるなよ。そう心で突っ込んで、刻はため息をつく。
「分かったよ、外にいるから終わったら呼んでくれ」
呆れながら部屋を出て行こうとした時、携帯電話の着信音が鳴り響いた。
「な、何ごとだっ!?」
もう人間の姿に戻ったらしいリンが、綺麗な顔を布団から覗かせて辺りを見まわす。
まるで警報を聞いたかのように慌てふためく主人を無視して、刻はポケットから携帯を取り出した。
(非通知……?)