プロローグ
文久二年、西暦にして一八六二年――。
それは雨が降りしきる、夏の夜のことだった。
「はあ、はあ……っ」
着物の裾に足をとられそうになりながら、ひとりの少女が広い屋敷の階段を駆け下りる。
名はお凛。苗字はない。
彼女は声を張り上げ、玄関扉に手をかけている赤毛の女を呼び止めた。
「ルネ様!!」
赤毛の女――ルネ・ルベールとは最強の魔女にして、お凛の魔法の師である。
素晴らしい才能に反してどこかものぐさなところのある師匠の就寝はいつも早く、こんな真夜中に外出したことなど一度もなかった。
――何か嫌な予感がする。
――何か様子がおかしい。
言いようのない不安にかられたお凛は、微かに震える声で言葉を紡ぐ。
「ルネ様、待ってください! こんな時間にどこへ行くのですか?」
振り返った師匠はいつもの暖かい笑みを浮かべていた。
「……何をそんな捨てられた猫みたいな顔をしているの。ちょっと急ぎの用事があるだけよ」
「外はすごい雨ですよ? 朝になってからでいいじゃないですか。いくら魔女とは言え、ずぶ濡れになっては風邪をひいてしまいます……っ」
お凛は思わず師匠の服の裾をぎゅっと掴む。
これは置いて行かれたくない時にしてしまう彼女のくせだった。
「ふふ。心配してくれるのは嬉しいけど、本当は寂しいだけなんでしょう? 十六歳になっても甘えっ子ね、あなたは」
「もう! からかわないでください」
ふてくされるように言う弟子に、ルネは優しく微笑みかける。それからお凛の頬に両手で優しく触れ、少しだけ悲しげな表情をした。綺麗な翡翠色の瞳が切なげに揺れている。
「ねえ、凛。あなたは魔法が得意でなくても自慢の弟子よ。私がいなくなっても、心優しい魔女として強く生きて」
「私がいなくなっても……って、どういう意味ですか?」
お凛はその言葉にひどく動揺し、師匠の服をまたも強く掴んでしまう。
ルネの困ったようなため息が、吹き抜けの玄関ホールに響いた。
「んー、このまま行こうかと思ったけど……。やっぱりあなたが心配だから『術』をかけていくことにするわ」
独り言のように言うと、ルネはお凛の頬に添えていた手を胸のあたりまで下ろした。
「ルネ様? 何を……」
ますます戸惑うお凛が視線を落とすと、触れられている部分が、ポウと光を帯びている。
「え……。これはいったい――――き、きゃあああああッ!!」
その輝きは一瞬で全身に広がり、お凛の身体をまばゆい光が包んだ。
(身体が熱い。いったいどうなってしまうの? 私……!)
真っ白な視界、朦朧とする意識の中で、お凛の耳に聞こえたのは……。
「ごめんなさいね」
ルネの別れの言葉と扉を開ける音。そして、雨の中消えていく最愛の師匠の足音だった。