魔王の妻となりし姫 (奏雨)
『蝶と魔王の出会いし日』
守られるのではなく、守れるように。
そう願うようになったのは、何時の日からだっただろう。
「初めてお目にかかります。濃と申します」
艶やかな着物を身に纏い頭を下げた濃姫に、彼女の夫となる男ーー織田信長は口角を上げ、へらりと笑った。
「俺が織田信長だ。………以後、よろしくな」
しまりのない顔は、大うつけという世の評判に少しも違う事はない。
そう判断し懐に手を伸ばしかけ、しかし濃姫ははっとその手を止めた。
こちらを見つめる信長の、穏やかそうな表情。だがその瞳は、どこまでも冷徹な色を宿している。
濃姫は優美な笑みを消し、信長の様子を窺った。
互いを値踏みするような視線が交錯し合う。
先に目を逸らしたのは、濃姫の方だった。
視線を下に向け、もう一度頭を下げる。
「これから、宜しくお願い致します」
儀礼通りの行為に、信長は満足そうに一つ、頷いた。
夜。
同じ床に就いた信長と濃姫は、暫しの時を無言で過ごした。
その均衡を破ったのは、今度は信長だった。
「お前の望みは、何だ?」
問われた言葉に、濃姫はにこりと笑い、懐の刀を抜いた。
「貴方のお命………と言ったら、驚くかしら?」
鋭利に閃く刀を玩びながらそう言うと、信長は理知的で傲岸な笑みを浮かべた。
「なるほど、やはりか。………取れるものなら、力づくで取ってみるか?」
先刻までとは全く違う、絶対者の纏う空気。
やはりこちらが本性かと、そう思いながら濃姫は言葉を紡いだ。
「”信長が評判通りのうつけなら殺せ”。それが、父上の命令よ」
「ほう。………俺を生かすも殺すもお前の裁量次第というわけか。随分と、道三殿に信頼されているのだな」
その言葉に、濃姫が微かに苦笑する。
「それはどうかしらね。………父上は、利用出来るものは何でも利用するだけよ」
「つまり、それだけの利用価値がお前にはあるということだ。………単身で織田に乗り込ませられる人材など、そうは居るまい」
特に何の感慨も見せずそう言った信長に、濃姫は懐刀を回していた手を止め、小首を傾げた。
「それは、お褒めの言葉と受け取っていいのかしら?」
「好きにすれば良い」
間髪入れずそう返される。
面白い男だと、そう思った。会話をしていてここまで楽しいのは何年ぶりだろう。
「…………いいわ。とりあえず、今は生かしておいてあげる。………けど、安心はしないでね。もし貴方がつまらない男だと思ったら、何時でも殺してあげるから。………せいぜい私を楽しませることね」
妖艶な笑みを浮かべてそう言うと、信長はくくっと笑った。
「ほう、それはなかなか手強そうだ」
「あら。嫌ならすぐに私を斎藤家に返して、新しい妻を迎えたら?」
ころころと笑いながら言う濃姫の顔に、信長は手を伸ばした。
彼女の顎を取り、自分の方へと向けさせる。
さすがに目を見開いた濃姫に向けて、信長は囁くように言った。
「冗談だろう?…………俺は第六天魔王となり、天下を統べる。その妻となる者に、濃、お前以上にふさわしい女がいると思うか?」
濃姫が、小さく息を呑む。そしてすぐに彼女は、心から楽しそうに笑った。
「魔王の妻、ね。………面白いじゃない。貴方の天下、見てみたくなったわ」
刀を懐へとしまい、笑みの種類を大人びたものへと変える。
「貴方に、私の本当の名を教えてあげる」
そう言い濃姫は、己の唇を信長の耳へと近付けた。
「私の本当の名は、帰蝶。………二人の時は、そう呼んでちょうだい」
優しく微笑みかけた濃姫に、信長もまた、少しだけ瞳の色を和らげた。
「俺と共に来いーー帰蝶。お前の気高さこそ、魔王の妻にふさわしい」
力強い声とともに、体を抱き寄せられる。
「どこまででもついて行くわ。貴方が私を楽しませてくれる限り」
愛おしむような響きを持った声で言い、濃姫は信長の体を抱き返した。
守られるのではなく、守れるように。
そう願うようになったのは、何時の日からだっただろう。
そんなこと、もう覚えてはいないけれど。
守る対象が”私”から”貴方”へ変わったこの日のことは。
きっと、一生忘れないーーーー。
『蝶の帰る場所』
「斎藤を、滅ぼす」
低く淡々とした声が、そう告げる。
本来絶望の通告である筈のその言葉を、愉悦と共に聞いた私はきっと、
永禄十年、小牧山城。
「濃姫様」
夫•織田信長の小姓にそう声をかけられ、濃姫は歩いていた足を止めた。
「あら。どうかしたの?」
にこりと笑ってそう尋ねた濃姫に、少年が少しだけ困ったように視線をさまよわせる。
しかし彼はすぐに、覚悟を決めたように真っ直ぐな瞳で濃姫を見つめた。
「信長様がお呼びです」
「信長が?」
夫の名を平然と呼び捨てにし、濃姫が小首を傾げる。
少年の様子からして、あまり好ましい用件ではなさそうだ。
が、まあそれはどうでもいい。
「…………」
思案するように瞳をすっと細め、そして濃姫は些か緊張した面持ちの少年に声をかけた。
「いいわ。行きましょうか」
朗らかな声音でそう言い、すたすたと歩き始める。
「えっ……濃姫様っ!?そちらは信長様のお部屋ではっ………!」
信長の居室とは真逆の方向へと向かって行く濃姫に、少年は慌てて呼び掛けた。
と、濃姫が少年の方を振り返り、艶やかに笑む。
「すぐに来いとは言ってなかったんでしょう?後で行くと、信長に伝えておいてちょうだい」
そう。こちらにはこちらの都合があるのだ。急な呼び出しに無理に応じる必要もない。
「えっ……あのっ………」
背後で少年がわたわたとしているのを感じながら、濃姫は日課としている剣の稽古の為、裏庭へと向かった。
数刻後。
「来たわよ」
信長の居室の前でそう声をかけ、濃姫は相手の返事も待たずに障子を開けた。
「俺を待たせるとは、いい度胸だな。帰蝶」
床の間の前、座布団の上に胡座をかいてこちらを見つめる傲慢な瞳の男が、そう挑発的な笑みとともに告げる。
「あら、勝手に呼びつけたのはそっちでしょう?来てあげただけ有難く思いなさいな」
うつけとしての信長しか知らない織田家の一般的な家臣ならば驚愕に目を見開くかもしれない絶対者の雰囲気も、濃姫にとっては見慣れたものだ。挑発に挑発で返し、口角を上げながら冷めた瞳で彼を射抜く。
殺気にも似た緊張が、二人の間に走りーーー
「っ……ははっ」
「ふふっ」
堪えきれなくなったように、二人が同時に笑い始める。
この二人にとっては、殺気の応酬も遊びの一つなのだ。
ひとしきり笑い合った後、濃姫は信長の前に腰を下ろした。
「で、何の用かしら?」
そう促すと、信長は顔をすっと引き締め、濃姫を真っ直ぐに見つめた。
「………稲葉山城を、攻め落とす」
感情の全てを殺したように、淡々と。
信長の声が、言葉を紡ぐ。
「っ…………!」
濃姫の瞳が、大きく見開かれる。
稲葉山城は、濃姫の実家•斎藤家の居城だ。
元々信長は斎藤を己の勢力下に置こうとしていたし、この小牧山城とて、斎藤に圧力をかける為につくられた城だ。だが………。
攻め落とす。その言葉の意味がわからないほど、濃姫は愚かでも無知でもない。
濃姫が小さく口を開く。
その口が言葉を発する前に、信長がはっきりと言い切った。
「斎藤を、滅ぼす」
それだけを告げ、信長は視線を濃姫から外した。
信長は冷酷な人間だ。目的の為には手段は選ばない。人の情になど絆されない。
だがそれでも………濃姫にこれを告げることがどれほど残酷なことかは、わかる。
そして、出来れば告げたくなかったとも、思う。
「……………」
濃姫の視線が伏せられ、自らの懐へと向かう。
正確には、懐に収められた小刀へと。
そしてーーー。
「あら。いいんじゃない」
にっこりと笑ってそう言った濃姫に、彼女が刀を抜く可能性を密かに警戒していた信長は、さすがに目を見開いた。
その反応に、濃姫が苦笑を漏らし、鞘に入れたままの懐刀を玩ぶ。
「そりゃあまあ、父上が健在でいらしたなら、抜くことも考えたけれど、ね」
濃姫の父•斎藤道三は自らの息子……濃姫にとっては兄にあたる義龍によって殺され、家督を奪われた。しかしその義龍も、病によりまもなく死に、現在斎藤家の家督は義龍の子•龍興が継いでいた。だがーーー。
「はっきり言って、龍興は当主の器じゃあないわ」
どこかつまらなそうに、しかしそれでいて苛立ったように、濃姫がそう呟く。
そして濃姫は、信長を見据え、強い声で言った。
「あんなのが斎藤の名を継ぐくらいなら、滅んだ方がましよ」
信長が、ついっと瞳を細める。
「斎藤が滅びれば、蝶の帰る場所がなくなるな」
濃姫を蝶に喩えた真剣な声の裏には、彼女の反応を楽しむような僅かな笑みが混じっていて。
「あら、蝶の帰る場所なら、魔王の側にあるじゃない」
だから濃姫も、艶やかな笑みとともにそう告げる。
「魔王に飽いたらどうする?」
信長が面白そうに問う。
「その時は………」
そこで言葉を切り、そして、濃姫は刀をぱっと抜き、煌めく切っ先を信長の首に突き付けた。
「魔王を道連れに、地獄へ帰ることにしましょうか」
蠱惑的に笑み、囁くように言う。
と、信長はふっと口角を上げ、濃姫の体をぐっと抱き寄せた。
「それでこそ、俺の妻だ」
満足げに笑う信長に、濃姫もそっと微笑んで、彼の腕に己の体を預けた。
「斎藤を、滅ぼす」
低く淡々とした声が、そう告げる。
本来絶望の通告の筈のその言葉を、愉悦とともに聞いた私はきっと、
心の奥の深くまで、魔王の妻と成り果てたのだろう。
………蝶の帰る場所はもう、稲葉山には在りはしない。




