転生者たち
「『弟』君の『名前』が知りたい」
彼女の肌の色とほぼ変わらぬ桜色の唇は艶やかで滑らかに動き、濡れた輝きを帯びて妖しくきらめく。
「ねえ。『貴方』の名前は何というの」
俺は。俺は。
「い、いやだな。先輩。いつも呼んでくれているじゃないですか」
なまめかしく動く唇は甘い香りすら放ちそうな。体中の血液がどくどく動いて身体がふらふらするような。唾液が甘い味を放ち、俺は思わず喉を鳴らした。
「そうね。『あるけど存在しない』名前を呼んだ気になっている」
「そんなことは」
「『きみの知る空の青を僕は知らない』」
人間の感性が違う以上、同じ認識であるとは限らないという議論であるが、『俺』の名前もそのようなものなのだろうと思っていた。だが、五葉先輩は俺の名前を知りたいと言うのだ。ありえない。
モブという存在の名前は当然ながら設定上はなく、作品上で出てくることもない。出るならば少なくとも脇役にはなっているはずだ。
「生まれる前の記憶があったりするでしょ。『弟』君」
柔らかい胸を俺の身体に預け、俺にささやく。頭がしびれそうな。甘い香りと感触。
まさか。ありえない。
「あれっすか。エコーで赤ちゃんの記憶とかですか。
どこぞのWeb小説家は『出ろ』『生まれろ』と煩くて敵わなくて仕方なく生まれたとかなんとか言いますよね」
「Web小説はあたっているけどそれは違う」
この先輩は姉の趣味にもあらかた理解がある。
姉をBLの道に引き込んだのもこのお方だし。
「生まれ変わりで前世の知識があったり、妙に能力が高かったりするって言うアレ」
「きょ、きょ、今日はいい天気ですね」
「会話がかみ合っていないわよ。まじめに聞いて」
俺の両の頬に柔らかく冷たい彼女の掌がゆっくりと触れた。
「私も、そうなの。『弟』君と同じ」
彼女は俺の唇を引き寄せながらつぶやく。
「貴方の名前を教えて。思い出して」
なまめかしく輝く桜色の唇が動きを止めた。
俺の腕の中で五葉先輩が背筋を伸ばし、瞳を閉じ、唇を高く。
ええっ? ええっ?! これ、これ。これって?!
落ち着け俺。
五葉先輩ほどの美少女が俺みたいなモブにキスを求めるわけがない。
これはそうだ。
後頭部を子供が引っ張って目に砂が入って、空にひょっとこが飛んでいるにちがいない。
ぎゅ。
甘い香りがさらに俺の身体を抱きしめる。
その細い腕はあまりにも非力で頼りなく、それでいて手放さないという意思を感じる。
更に彼女の背筋が伸び、唇が俺の口元に近づく。
も、も、もうっ どうなってもいいかもっ!?
五葉先輩ッ! 好きですッ! マジ好きですッ はいっ! すごく先輩は可愛くてかしこくて優しくてッ あと美人で巨乳だし手足が長いけどそんなのは関係なくて髪も真っ黒で綺麗だけどそうのじゃなくてッ! 匂いもいいしそのアノ欠点なんて考えないし考えられないし俺なんかでいいですかあり得ないでしょうもっといい人いるでしょ周りにいやあの他の男にあげたくない。
他のイケメンにあげたくない。
その言葉を。自分の言葉を思い出した。
五葉先輩は『好感度二番目』の男性、もしくは姉貴エンド以外はない。
「記憶が消えても、私、『弟』のこと覚えている」
柔らかい唇が動く。
俺はたまらず、彼女の唇に向けて自分の頭を重力にゆだねた。
がきん。
俺の腕がふきとばされ、五葉先輩が透明な四角の箱 ―― 俺には棺に見えた ―― に閉じ込められる。
「先輩ッ 先輩ッ」
俺は鉄を引き裂く番長の拳の威力の一撃を『箱』にブチ込むが、血が噴き出しただけ。
「やっぱり、ダメなのね」
『箱』越しに俺たちは手を合わせる。彼女が泣いている。
触れ合えるほど近いのに、『箱』はお互いの体温を伝えない。冷たくて無機質なそれは彼女の香りすら。
「ダメじゃないッ 壊しますッ 今ぶっ壊してやりますッ 俺は番長にだって勝てるのですよッ」
「お兄ちゃんも、この世界の一部だし。たぶん私のような妹がいたことなんて忘れるでしょうね。おそらく君も」
な。
意味が解らない。
わかりたくない。
わかって知った。
この世界は俺から両親を奪うだけではなく。
彼女との思いすらも。
彼女との関わりそのものを。
「ざけんなっ! 俺から、俺たちから何度も両親を奪いやがってッ 五葉先輩もッ」
「次に会うとき、私は私じゃない。別の『五葉 涼子』」
血まみれの拳を振るう俺に優しくほほ笑む彼女。
棺越しに見た彼女の笑みは寂しくて。暖かくて。
「私の、前の名前は『伊丹 純』」
「伊丹さん?」
「そうだよ」
彼女の口元が綻ぶ。
おもいだして。
おもいだして。
あなたのなまえはなんですか。
骨が見える拳を振りかざすのをやめ、俺は記憶のかなたにあった名前をつぶやく。自分ですら忘れていたそれを。
「俺、俺は……『山田 準』。同じジュンです」
「そう。だからかな」
彼女が笑う。
彼女の瞳からあふれる涙の暖かさを、俺は感じることができない。
再び拳を振るう。
なんどもなんども。
なんどもなんども。
拳を振るう俺を彼女は静止させ、再度瞳を閉じる。
俺は振るう拳を止める。
彼女の微笑みが近くにあるのに何故拳を振るう。
もっと大事なことがあるよな。
はは。おれってバカだよな。
冷たくて、無機質で匂いの欠片もない。
そんな感触が俺の唇に広がる。
味はない。無機質で平たい感触を舌が伝えてくる。
だが。俺たちはこの瞬間、忌々しい『箱』越しにちゃんと口づけをかわした。
彼女の微笑みに手をかざす。照れた頬が愛しい。『箱』越しに指先が絡む。
「ね。私のかわり、任せた。あの子を守ってあげて」
「はい。先輩」
……。
……。
「あれ? 『弟』君。どうしたの」
懐かしい。先ほどまで聞いていたのに懐かしい声だ。
それは忌々しいほど同じなのに『別人』の声。
「泣いているけど、どうした? お姉さんに話してみなさい」
ああ。違うのか。態度も性格も同じなのに。『魂』が違う。何故か解る。
「い、いえ。先輩。目にゴミが入っただけです。花粉症カモ?」
「なにそれ。超ウケる」
ケタケタ笑う先輩は俺を追い越して走る。
「ところで、なんで私こんなところにいたのかな? 『弟君』知っていますか?」
「ボケるには早いですよ。五葉先輩」
「なんか姉弟そろって失礼よね。ボケは貴方たちでしょ」
そよ風が俺の髪を撫でる。
プンすかと俺を叱る先輩は「あ。財布ない。家に忘れた」とつぶやく。
「なんでだ? ちくしょう」
「あはは。帰りの交通費は出してあげます」
「かたじけない! さすが親友の息子だッ」
「弟です」
「どうでもいいではないか。我が心の友よ」
「ジャイアンですね。返す気ゼロですよね」
「うん!」
俺たちは『適切な距離』を保ちながら帰宅した。
「あ~ん! 友よ! 私は財布を忘れたのだ~! 貸してくれ~!」
泣きつく『五葉先輩』に姉はこうのたまった。
「アンタ誰?」
酷いっ! 『五葉先輩』の説教が俺たち姉弟に降りかかった。
その調子はいつもの五葉先輩だったが、『何か』が違っていた。
気が付くと手を握りしめて泣いていたらしい。
「言い過ぎた。申し訳ない。『弟』君。あとなんか怪我している。四谷先生に診てもらえ」
彼女の謝罪に俺は曖昧に答えた。
「手なんて痛くもかゆくもないので問題ないです」
この胸の痛みに比べれば、どんな痛みだって無意味だ。
新しい五葉先輩との距離感に慣れようとする日々。
辛いけど泣いてばかりじゃだめだ。俺にはやることがあるのだから。
そんなある日。家の電話がけたたましくなった。
「以前、お前と意味なく喧嘩した件について謝りたい」
番長からだった。
電話を受けた俺は彼と共にベンチに座り、謝り倒す彼を宥めながら時間を過ごしていた。
「なぜ俺はあんなに怒っていたのだろう。マブダチ相手に」
「さぁ。若いうちはよくあると思いますよ」
歳を一定以上取らずに何回もループもしていれば、大抵のことは諦めがつく。
ずずんと落ち込む彼を見ると、やっぱり十七歳の普通の青年なのだなと思う。
そりゃ見た目はいかついし、声も怖いし、キップもよくて同い年より大人かもだが。
「ほら。番長。アイスアイス」
アイスクリーム屋が自転車にのってやってきた。
俺たちはアイスを買い、甘いバニラの香りを堪能し、舌が痺れるほど冷たい清涼感に身をゆだねる。
「まだアイスは早かったな」
「でもすぐ暑くなりますよ」
「俺、夏でもこの格好だからな」
「夏服にしましょう」
「番長がクールビスしてどうする」
「あはは」
「お兄ちゃん。こんなところにいたんだ。あ」
聞きなれた声がして思わず振り返ってしまう。見覚えのある顔立ち。だが、俺にではなく、番長に微笑む彼女は、彼女ではない。
「お兄ちゃん! そんなダッサイ格好は辞めなさいと何度いったら解るの?!」
「こっ?! これは我が高校代々の番長の証だぞッ?」
「今時番長もないし、学校が認めていない役職を何十年続ける気なのよッ?! 今更やめろとは言わないけど、もうお兄ちゃんの代でやめなさいッ」
「……はい」
がっくりと肩を落とす番長にいたたまれない気持ちになる。
「すいません。次代を継ぐ約束をしているのに」
「うん? そんな約束したっけ? 」
へ?
キーキー騒ぎながら番長をいたわる娘。
ああ。番長の妹でもあったのね『五葉先輩』は。しばらくすると俺の視線に気づいた娘は頬を赤らめる。
「あっ?! 『弟』君ッ?!」
「あはは。五葉先輩。姉が世話になっています」
「あのその。これは違うのだ。こんな双子の兄はいないのだ」
「ヒドイな。おい」
番長はケラケラ笑っている。
「もー! もう! お兄ちゃんのせいだからねっ!?」
「あはは。まぁいいではないか。こいつは口が固い。それは保障する」
「本当?!」
アイスを口に含んだままの俺に指先を押し付けて「黙っているように」とつぶやく少女に苦笑いする俺。
ああ。ここも違うな。ちょっとだけ。たぶんあの。伊丹さんなら。もっと。
ひとしきりはしゃいだ俺たちは夕暮れ時をあるく。
河原の反対側に沈む夕日を見て、俺は叫んだ。
「太陽のばっきゃろーー!」
ぐず。
「なんか爺ちゃんの世代のドラマみたいだな」
「だね」
番長たち五葉兄妹はそうのたまった。
俺は強がる。誰も俺を理解できないだろう。
それでも俺はやらねばならないことがある。
それでも、今日だけは、今日だけは泣いて、寝ていいよな。
「お~い。『弟』君。起きろ。起きるのだ」
姉貴。寝かしてくれ。
「うりうりうり」
今日はダメ。動きたくない。
「起きないと眉毛を書くぞ」
「むう」
姉ちゃんの能天気な声に起こされた俺は。……二度寝。
「こら。お前のせいで私まで遅刻する。いい加減にしろ」
うっさい。ほっといてくれ。
ぐえ。
姉は俺の布団の上に乗ってきた。脱出しようとしたが何かで両端を縛っているらしい。茶巾かよ。
「む。布団から出たくないようだから出さないようにしたのだが」
「ひぬ。ひぬ。出してください姉上」
というか、反撃である。容赦なしだ。
姉はたんこぶをこすりながら「『弟』君がぶった」とぼやいた。
さすがにちょっと罪悪感を感じる。
八つ当たりにもほどがある。姉ちゃんごめん。
「今日は休みだと電話を入れておいたが、何かあったのか」
なんでもない。
「本当か。本当に何もないのか」
姉ちゃん。姉ちゃんはいいよ。高校を卒業したら繰り返すことを姉ちゃんは覚えていないのだから。
「なんもない。姉ちゃんに話しても仕方ないし」
「私たちは世界で唯一の姉弟ではないのか」
普段残念系の彼女の視線に固まる。泣き出しそうな、不安に揺れる瞳。
「私はお前にとって唯一の姉ではないのか。私はその程度の存在か」
すっと柔らかな手が俺の冷たい頬に触れる。
「言いたくないならそれでかまわん。君は男の子だからな」
姉ちゃんは俺が泣き止むまで黙って抱きしめてくれた。
少しだけ母さんと父さんを思い出した。