4話
『男女七歳にして席を同じゅうせず』
礼記の言葉が沙綾の脳裏を掠めてゆく。愛らしい仕草に絆されるままに、二つの布団の端をぴたりと付けて敷いてしまったが、果たして良かったのだろうか。壁側を向きながら床に就いてからも、沙綾は自問自答を繰り返していた。
「ここは躾ときっぱり断るところだったんじゃないか?いや、でも、父ちゃんも何も言わなかったしなぁ。」
正確には言わなかったのではなく、三郎が超高級漢方薬オタネニンジン(高麗人参)を握らせて黙らせたのである。「紅花屋、お主も悪よのぅ・・・。」と言う良観の呟きは、残念ながら沙綾の耳には届かなかった。
しかし、頭を抱えて布団の中でもぞりもぞりと動く様は滑稽だった。
三郎が笑い出す。子ども特有の高い声でありながら、どこか柔らかで心地よい響きが沙綾の心を解す。
「芋虫が化けたようだぞ。」
「失礼だね。」
沙綾は振り返り、月明かりに照らされた三郎の端正な顔と向かい合う。
「夜明けには行っちまうと思うと寂しいもんだね。」
「・・・・・・。」
「仙人、て本当にいるんだな。よく分んないけど、仙人様は仙薬、て究極の薬作るんだろ?三郎様にぴったりじゃないか!たくさん勉強しておいで。それで、気が向いたら、家にも寄ってって。色々教えてくれないか。」
しんみりとした雰囲気が漂う。
「・・・気が向いたら、て何?」
呟かれた言葉に沙綾は目を瞠る。三郎の上方訛りを聴いたのはこれが初めてだった。金持ちの坊ちゃんらしい美しくも尊大な言葉遣いが三郎の常である。
しかし、ただ一言のそれが、非常に沙綾の母性を擽った。
神童と言えども十の子ども。親と離れて江戸に来るのでさえ、心細かっただろうに、異国どころか異世界へ旅立とうと言うのである。不安でないはずがないではないか。
「三郎様、こっちの布団くるかい?」
今度は三郎が目を瞠る番だった。一瞬の逡巡が過ぎる。しかし、少年は賢く、強かで、早熟であった。
「良いのか?」
「勿論だよ!あたしを姉さんだと思って甘えてくれていいんだ。さっきのだって、三郎様が嫌々無理するくらいなら、て意味で」
語尾まで言い終わらない内に、開けられた掛け布団に三郎が滑り込む。沙綾は笑いながら、胸元に包み込むように抱いてやった。
「ちょっと狭いか?」
「いや、このままで。」
こうして二人はしばし眠りについた。三刻程ではあったが、深く温かいまどろみであった。
日の出まであと半刻といった頃、沙綾は甘い香りと茶器の合わさる音で目が覚めた。
「三郎様?」
丁度枕元に座った三郎が湯呑に茶を注いでいる。
「ゆっくりしたいところだが、そうも言っていられない。沙綾、飲め。」
「飲め、て。何さ、これ。」
「甘いぞ。」
「いや、味じゃなく。」
「薬効はあるが、害はない。」
「いや、そうじゃなくって。」
「旅立つ私の心だ。受け取れ。」
『心』。その言葉に義理と人情に厚い江戸娘はいたく感激した。
「まぁ、そう言うことなら・・・。」
相手は神業を操る薬師である。害が無いと言うのだから、間違いはないだろう。冬の寝起きで喉が渇いていたこともあり、沙綾はそれ以上の追求はせず口を付けた。
「本当だ、甘いね。」
「だろう?ほら、一気に。」
急かされるままに飲み切ったところで、沙綾は体に違和感を覚える。それは急激に駆け巡り、痺れとなって沙綾を襲ってきた。何という不快感。
「何・・・熱っ・・・!」
湯呑が転がった。
沙綾は冷や汗を浮かべている。
「・・・害が・・・無いって言ったよね・・・?」
「死にはしない。」
「三郎様!謀ったね・・・っ。」
うつ伏せに倒れ、飲んだものを吐こうともがく沙綾を押し留めながら、少し困った表情を浮かべる三郎はどこまでも儚げで美しい。
「吐くな。無駄だ、沙綾。」
既に沙綾の意識は風前の灯。優しく肩を抱いている三郎の髪も瞳は黒いはずなのに、明け始めた光の反射で髪は炎、目は翡翠のように輝いて見える。それが、仙人の相というものなのか。美しい、と沙綾は思った。何をされても許してしまいそうだ。それどころか、逆に許しを請いたくなるような魔的な魅力。でも、これだけは聴かせてほしかった。
いったい何を飲ませたんだ?
答えを聴く前に沙綾の意識は閉ざされた。
子ども扱いは嫌なのに、好きになったのは子どもとして甘やかしてくれるお姉さん。早熟ならざるを得ない故の矛盾。ぼんぼんは辛いよ・・・等と妄想しながら生まれた話です。コメントはまとめに入ってますが、まだ続きます。