3話
紅花屋の騒動は沙綾の耳にも届いていた。
此方は江戸でも名立たる名医、石田良観の医庵である。沙綾は早逝した若妻と良観の一人娘。器量良しの働き者で、齢も十五を越えれば嫁にと声が掛かることも少なくない。しかし当人はどこ吹く風。白粉も叩かず、今宵も父を手伝っての薬棚の整理に勤しんでいた。
「仙人とは、また突拍子もねぇが。まぁ納得すらぁな。」
「そうだね。三郎様なら、ね。」
漢方医の世界で三郎を神童として知らぬ者はいない。紅花屋の商売は地方行脚のノウハウを生かして多岐に渡る。そうした商いの一つが薬の販売である。開国文明開化を経て、百貨店へと展望してゆく礎の一つだ。
大蔵が金なら三郎は薬。三度の飯より調薬。鎖国の世にあって古今東西の妙薬、毒薬を知り尽くし、完璧に使いこなす鬼才の持ち主なのだ。
「初対面で、黄帝内経、傷寒論、金匱要略、全部諳じた上に、持ってきた薬の講義で半刻だ。新しい使いの丁稚と思って飴でもやろうかとしてたのにさ。」
「あら、わたしはあげたよ。」
美少年の正体に気付き、慌てて上等の茶を用意し始めた父親を尻目に、沙綾は水飴を練って差し出した。三郎が躊躇っているようだったので、仕事中で遠慮しているのだろうと、半ば強引に手を取って握らせ、気にするなと微笑んでみせる。艶やかな飴が品良く口に運ばれるのを見届けて、良観を手伝いに沙綾は奥に入った。その時、残された麗しい少年の頬が仄かに朱に染まっていたことを知る者はいない。
「お前…紅花の坊っちゃんにそんな庶民の菓子なんて・・・良い度胸してるな。」
「だって、父ちゃん言わなかったじゃないか。こっちは頭いいな、と思って、ご褒美あげたつもりだったのよ。」
「ちょっと賢いくらいで家の柱の薬効まで解説する子どもがいるもんかい。」
あそこまでいけば博識を通り越して薬馬鹿。噂では、死んだ飼い猫を生き返らせたこともあるという。極めた薬学は最早超人の域である。
「・・・ぴったりかもね、仙人。」
「そうだなぁ。将軍様に抱えられるよりも良かったかもなぁ・・・。」
紅花屋の次男坊が江戸下がり、と知った時、いよいよ御庭番か、と思ったものだ。その才能を将軍と言えども、個人が独占することを良観は惜しんでいた。医の道に貴賎無し。その信条のままに、彼は御匙医(将軍専属医)の話が来てもものらりくらりとかわし、生涯町医者として生きてゆくこととなる。
三郎が訪ねてきたのは、こうして親子が頷き合っていた時分のことであった。
最初に忍び込んできたのは背筋も強張る冬の冷気であった。振り返れば、甘やかな面差しの美少年が立っている。訪れる時は、いつも嬉々として珍しい薬片手に講釈を垂れる三郎も、今宵はどことなく悲壮な雰囲気を漂わせている。動いたのは沙綾だ。草履をつっかけ、傍に駆け寄り、三郎の襟元に手を伸ばし、何と、そのまま、むんず、と掴み上げたのだ。
「子どもがこんな時間になに出歩いてんだい!」
後ろでオロオロしている良観を無視して、生粋の江戸娘は一気に捲し立てる。
「唯でさえ綺麗な顔してるってぇのに、その辺のゴロつきどもに襲われでもしたらどうすんだっ。ましてあんた、呉服の大店の息子だろ?金目当てのクズ共がしっかり顔覚えてるんだよ。義理を立てて、お陀仏じゃ、こっちだって泣くに泣けない、てぇもんだ!」
沙綾は手を緩めた。
「分ってるよ。別れの挨拶に来てくれたんだろ?」
それまで呆気に取られていた三郎が、苦笑を浮かべる。少し大人びた表情も三郎なら様になるな、と、沙綾が思っっていると、相手の眉根が寄せられた。
「・・・子どもじゃない。」
「いいや、子どもだ。明日まで待てないのが良い証拠。」
あえて齢のことは言わずに沙綾が返すと、日の出と共に仙人が迎えに来てしまうのだと言う。
「今夜しかない。」
切羽詰ったような声に、いよいよ沙綾は手を離し、三郎を覗き込む。
少年の目は真剣だ。ただの別れの挨拶以上のものを沙綾は感じた。
「よく分んないけど、その、仙人になる、ってのは今生の別れ、てことかい?」
「違う。だが、数年は戻れないだろう。その間、手を拱いているなど、私には出来ない。」
「・・・なるほど。」
沙綾は徐ろに良観を振り返り、納得する。三郎は良観が死にはしないかと、不安なのだろう、と。良観も来年で五十も半ば。三郎が帰る頃には鬼籍入りしていてもおかしくはない。
「それこそ、仙人になっちまえば、いつでも会えるようになるんじゃないの?」
「・・・だから、それまでが心配だと言っている。」
いくら沙綾が、大丈夫だ、自分が何とかすると言っても、三郎は顔を顰めるばかり。埒があかないと言った雰囲気になってきた頃、良観が助け船を出した。
「まぁ、こんな夜更けだ。それこそ、これから帰って頂くのも危ないだろうよ。どうでしょう、三郎様、一晩泊まっていかれては。幸い、弟子の部屋に、布団は余っていますし。」
とは言え、医庵の端にあるような弟子の部屋に三郎を突っ込む訳にもいかない。
「わたしの部屋は汚ねぇし、年寄臭くていけねぇ。奥の沙綾の部屋でも宜しければ空けましょう。いいな?」
「それは構わないよ。わたしも父ちゃんの部屋で寝ればいいんだろ、て、何?どうした?」
袖を引かれ、沙綾は三郎を振返った。やや下から首を傾け、上目遣いで見てくる美少年の顔は悩殺モノだった。
「沙綾も共に。」