2話
三郎が奥座敷に呼ばれたのは夜も更けた頃のことだった。
正面の文机では、後三分前七分できちりと髷を結った青年が算盤を弾いている。彼の名を大蔵と言う。齢は22歳。家系図を紐解けば、紅花屋の旦那の弟の嫁の兄の息子という、一応の縁戚同士。だが、それ以上に、父親同士が紅花屋で同じ釜の飯を食べた同僚であり、無二の親友だったことが、大蔵を奉公に上がらせる背景となった。丁稚より商いの才に長けた彼は、三度の飯より金勘定を好む。接客も上流。目上の者への作法も卒無くこなす彼は、紅花屋史上類を見ない速さで出世の階段を駆け上がってきた。同胞からの信頼も厚く、通例年季三十年を越え、四、五十代で名を列ねる次期番頭に有力視されている。
日中は客寄せの甘い笑みを浮かべる大蔵の切れ長の目が、帳面の数字を追ってゆく。売り上げが良かったことを表すように、右手によって軽快に珠が弾かれ、同時に左手が帳簿に勘定結果が美しく綴ってゆく。
「表の騒ぎは知っているだろう。明朝、玉子殿が再び参られる。荷を纏めておきなさい。」
万人を感嘆させる仕事の手を止めずに、大蔵は三郎に言った。
三郎が下げていた頭を持ち上げた。灯があたり、薄暗がりの中に顔の造作が浮かび上がる。現われたのは白磁の肌に、華の顔。その美少年っぷりに、陰間茶屋(男娼風俗店)に奉公に上がれば大入り間違いなし、と太鼓判を押したものがいるとかいないとか。
「行かねばなりませんか。」
「あれ程の大騒ぎだ。お前がいれば野次馬が押し寄せて商売にならぬだろう。」
江戸の人口は男性比率が非常に高い。参勤交代でやってくる地方武士や奉公に上がる次男以下。100万都市大江戸の野次馬は些かむさ苦しかった。庶民が着物を買うのは古着屋の時代である。この書き入れ時に、小汚い人垣の為に、紅花屋の上客である名家や豪商のお嬢様方に二の足を踏まるのは願い下げ。暖簾だけ見せてすぐにお帰り頂くのが理想的と言うものだろう。
言外の大蔵の言葉を三郎は正しく理解していた。
「ですが、人が集まれば名が売れましょう。良い宣伝になるのでは。」
「確かに仙人布は語呂が良い。だから尚のこと、本物の仙人になって頂いて、箔を付けてもらいたいのだよ。よくよく修行に励むのだぞ。」
取り付く島も無い。大蔵の頭の中では三郎が旅立つのは必定。それどころか、既に、仙術を修めて里帰りするところまで織り込み済みの販売戦略が立っているのは間違いない。こうなれば、彼の言を引っくり返すのは不可能である。三郎に選択肢はなかった。
「わかりました。ですが、少し入用のものもありますので、明け方までに一度留守にさせて頂いても良いですか?」
「こんな夜更けにか?」
「はい。江戸下がりをして間もないですが、私にもそれなりに友人がおりますので、挨拶状くらいは配らせて頂かないと。義理を大切にするのも、紅花屋の家訓でございましょう?」
ここまで言って、三郎は右袖を口を隠すように上げた。首を傾け、上目遣いで、大蔵の耳元に忍び寄る。
「お願いどす、大蔵はん・・・。」
「・・・一っ!」
それまで一切上げようとしなかった大蔵ががばりと起き上がるのに合わせて、三郎は身を翻す。
「それでは、言って参ります。大蔵兄さん。」
「一」の字は跡取り娘に。一姫とは三郎の妹の名前。齢八つにして、紅花屋一の冷徹漢を骨抜きにした魔性の女である。三郎とは容姿も然ることながら、声が非常によく似ている。
小気味良いとばかりに笑顔を向けてさっさと出てゆく三郎を、大蔵は恨めしげに見送ったのだった。
大蔵さんはクールな人物設定をしていた作者の思惑を見事に飛び越えていきました。