1話
起承転結の起。
師走一日。江戸紅花屋を白い道服の老人が訪れた。流行の店頭販売で常時繁盛の呉服店。この日は格別の大忙しであった。得意の上客相手に手代(接客係)が次々反物を広げ、既に年が明けたかのような華やかさである。簡素な白い衣は人目を惹いた。
人好きのする笑顔が武器の商人である。新米の手代が腰を下げながら用向きを伺いにゆく。
「わしは 山に住まう玉子と申す仙人である。」
答える姿は威風堂々、されど文句は素っ頓狂。老人に対して警戒心が沸き出すのも無理からぬこと。しかしそこは近江に本店を構える大店の手代は教育が行き届いていた。顔には心底感嘆の表情しか浮かんでいない。
「これは徳の高い立派なお方でございますな。珍しいお召しとは思いましたが清国のお方とは。言葉も通じますし、気づきませんでしたなぁ。」
はんなりと話しながら玉子に席を進めつつ、茶を振舞う。新米手代が値踏みをするに、老人の着物の質は悪くない。新米手代は老人を富裕層の御隠居と当たりを付けた。となれば、歓待し、家族か側付が迎えに来るのを待つのが得策だ。上手くすれば、店の名を高める好機となる。
「お構いなく。いやはや商人の親切ほど高いものは無いからのぅ。ホホホホ。」
「何を仰いますか。この紅花屋お客様あっての商いでございます。足休めにお立ち寄り頂けるだけでもご縁。さぁ、こちらにお掛け下さいませ。」
何とも腹の読めない笑顔を互いに交わす様は少しばかり滑稽だ。玉子が一つ咳払いをした。
「わしはこちらに住む三郎殿を迎えにきたのじゃよ。彼に仙人の相が見える故な。」
三郎は紅花屋の旦那の息子で、今年江戸店に丁稚に上がったばかりの10歳の少年だ。丁稚は無給の雑役のこと。何故お坊ちゃんが、と言うと、商人は女系だから。息子はどのみち他家の婿に入るか、奉公に上がるというのが常である。ちなみに紅花屋の後継者は、三郎の二つ下の妹が数え13歳の時の番頭以上の者で最も才のある者を選ぶことになっている。商家の婿は優秀であることが絶対条件なのだ。
とは言え、三郎が坊ちゃんであることは変わりない。新米手代にも野心はある。上手く上り詰め、紅花屋の旦那になれた暁には小舅となる相手を、みすみす得体の知れない老人に突き出す訳にはいかない。笑顔に隠れて、しばし思案していると、玉子の方が茶に手を伸ばした。
「やはり信じておらないようじゃ。藪の中の狐狸には怯えるくせに、目の前にいる仙人を信じぬとはのう。まぁ、わし等も厭世が過ぎて滅多に人界に下りぬ故、責めてばかりもいられぬか。どれ、これでどうじゃ。」
玉子は掴んだ湯呑みを宙に放った。
「何と!」
割れて地に散ると思われたそれは、羽を生やし、雲雀のような声で鳴きながら、羽ばたいてゆく。天井高く旋回すれば茶の湯が舞い、花と変じて、反物を選ぶ令嬢の髷を彩った。湯呑みの鳥が2周程して暖簾の脇をすり抜けて出て行ってしまうと、花は跡形もなく消え失せた。
静まり返る店内で玉子の声だけが一層楽しげに響く。
「さ、早く三郎殿を連れてきておくれ!」




