九球目 診断結果
美里は只ひたすらに、待合用の簡素な椅子に腰掛けていた。その両脇には、真幸と深幸。袖が延びきってしまったことを気にしてか、今度は引っ張る場所を裾へとスイッチしている。
渾身の力を込めて美里のトレーナーを握り絞めていた。おそらく何かにしがみ付いていなければ、自我を支えていられない状況なのだろう。
父親が後々欝陶しいだけの存在となってしまうことは、もはや遺伝子学の分野によって証明されてしまっているが、この、幼児期という最も父親を必要としている時期にそれを失うかもしれないという危機感は計り知れないものがあるだろう。だからこそ、美里は黙って娘達に裾を握らせ続けているのだ。
言うまでもなくもう既に、トレーナーの裾は袖に負けない程にビロビロだ。学人が検査室に入ってから、一分、二分と時間のみがいたずらに過ぎていく。その間にも、トレーナーの裾の長さは増し、それと反比例して美里自身の精神は瞬く間に擦り減らされてしまう。
とにかく早く出てきてほしい。彼女の頭の中は、もうその思いで埋め尽くされている。どうしても落ち着いて物事を把握することができなくなってしまっていた。
そんな美里にとって、検査室の扉が開いたのはとても救いになったことだろう。
検査室の扉が開く。執刀医が姿を表すと同時に、真幸、深幸よろしく美里が白衣の裾にしがみ付いた。
「先生! ガクトはどうなるんですか!? 助かるんですか!? 助かるんですよね!?」
取り乱す美里とドクターの間に、代表通訳が割って入る。そして、今の美里の言葉を冷静に英訳してドクターへと伝える。
ドクターは通訳に英語で言葉を伝えていた。言葉の端々にグッド、ベスト、アンビリバボーなど期待値の高い言葉が混じっている。
《良かった……、助かるんだ……》
言葉から察するに、断定しても良さそうな雰囲気だ。安堵の気持ちで一気に脱力した美里は、物凄い音を発ててその場に座り込んだ。
安心しきって、呆けたように微笑みを浮かべながらあさっての方向を見ていた美里は、ドクターの【バッド】という言葉で現実に引き戻される。
これを境に、ノット、ドントといった否定系の言葉が飛躍的に増した。命は助かる、だが、なんがしかの障害が残る。ドクターの言葉はおそらくそういう類のものなのだろう。通訳の顔色がみるみる青くなっていくのが傍目にもよく解る。
学人の身柄が慌ただしく検査室から搬出されてきた。これから手術室へと向かうのだろう。ドクターは座り込んでいる美里の手をそっと取り、
「ドリームズ、カム、トゥルー」
一言告げて、学人と共に手術室へと駆け出して行った。
通訳は、浮かない顔をしている。否、実際はそれどころの話ではなく、現状では美里以上に取り乱しているといっていい。胸にきつく手を押し当て、何度も何度もしつこいぐらいに深呼吸をしている。
そんな彼の様子を見て、美里は全てを察してしまった。
《下半身不随だ……》
この結末。得たものが大きく、希望に満ち満ちていた筈の今回の遠征で最後に得たもの。それがこれなのだというこの、哀れで、悲惨で、救いようも無い悲劇を意識を取り戻した学人にいったいどうやって受け入れろというのだろう。
《無理。そんなの無理に決まってる……》
そんな折り、漸く気持ちが落ち着いてきたのだろう、通訳が報告に来た。
「小野さん、何と言えばいいのか正直解りませんが……」
「二度と自分の力で、地に立てなくなったんですね」
慎重に言葉を選ぼうとしている通訳に、逆に美里から自分の予想を投げ付ける。とにかくもどかしい。言葉を待っているその時間が、美里にとってひたすらもどかしく感じてならなかったのだ。だからこその、先手なのである。
「その通りです」
どうやら取り乱した美里に当たり散らされることを想像していたらしい。余りにも冷静な対応に、通訳は落ち着きを取り戻すことが出来たようだ。
「私もドクターと同意見です。ドリームズカムトゥルー。傍目には夢物語にしか見えないようなことでも、信じていればきっと叶います。我々が諦めなければ、きっと彼がまた立って歩けるようになる日が来てくれますよ」
座り込んでがっくりと頭を垂れる美里の肩に、通訳はそっと手を添えた。




