名前を捨てて、生き直す
夜風は、思っていたよりも澄んでいて冷たかった。
自衛隊営内隊舎の屋上。
昼間に熱を溜め込んでいたはずのコンクリートは、すでに無機質な冷たさに戻っている。フェンスの向こうには、整然と並ぶ建物と外灯の白い光。遠くで発電機が低く唸り、ここが現実であることだけを、淡々と主張していた。
縁に立つ。
一歩踏み出せば終わる距離。
なのに、体は動かない。
息を吸うと、乾いた夜気が肺に入り、胸の奥まで冷えていく。夏はもういない。秋の匂いがした。汗と油と土が混ざった、自衛隊特有の匂いの奥に、なぜか昔の記憶が混じる。
俺がここに来た理由は、誇れるものじゃない。
志望動機なんて、後からそれらしく整えただけだ。
本当は、逃げたかっただけだった。
家にいると、息ができなかった。
友達の名前を出せば、すぐに悪口に変わる。
「あんなやつと関わるな」
「ろくでもない」
理由は示されず、否定だけが降ってくる。誰と話したか、誰と笑ったか、それだけで責められた。
外出は制限され、SNSも制限された。
世界と繋がる細い糸を、一本ずつ切られていく感覚。
周囲と関わること自体が、いつの間にか「悪」になっていた。
家の中では、声が二つになる。
祖父と父。
どちらか一人なら、まだ耐えられたかもしれない。
だが二人が揃うと、逃げ道は完全に塞がれた。
強い口調。
詰め寄る視線。
反論は許されず、沈黙すら責められる。
何も言えなくなると、それがさらに怒りを呼んだ。
部屋に逃げても、心までは閉じられなかった。
足音が近づくだけで体が固まる。
扉の向こうにいるのは家族のはずなのに、敵意しか感じなかった。
ここを出なければ、壊れる。
そう思った。
集団生活が苦手なことは分かっていた。
それでも自衛隊なら、理不尽も命令も「仕事」として割り切れる気がした。
家庭で受けてきた理不尽より、ずっとマシだと信じた。
現実は、静かで、重かった。
訓練のきつさや怒号は耐えられた。
規則に従うこと自体は苦じゃない。
だが、常に誰かと一緒にいなければならない生活が、少しずつ心を削っていった。
一人になれる場所がない。
弱っている顔を隠す余白がない。
限界が近づいても、それを言葉にする術を、俺はもう持っていなかった。
家から逃げたはずなのに、
逃げられない構造だけが、形を変えてそこにあった。
風が吹く。
体温が奪われ、手すりに触れた指先の感覚が鈍っていく。
ここまでの人生は、失敗の連続だったのか。
それとも、ただの途中だったのか。
下を見ないようにして、空を見上げる。
雲の切れ間に、星が一つだけ瞬いている。
遠くて、無関係で、それでも不思議と目が離せない。
この一瞬で、すべてが終わる。
そう分かっているのに、記憶は終わってくれない。
涼しい夜気の中で、
俺の人生は、静かに、執拗に、蘇り続けていた。
◆ ◆ ◆
次に目を開けたとき、世界は白かった。
天井。
照明。
消毒液の匂い。
瞬きをすると、視界の端がわずかに滲む。体は重く、鉛を流し込まれたみたいに動かない。呼吸はできているのに、うまく自分のものじゃない感覚があった。
ここはどこだ。
その疑問だけが、はっきり浮かんだ。
後になって知ることになるが、民間の病院だった。
順天堂大学病院。
意識はある。
でも、記憶がない。
自分の名前すら、すぐには浮かばなかった。
過去も、理由も、感情も、輪郭を失っている。
それなのに、不思議と恐怖はなかった。
苦しさも、絶望も、後悔も、そこにはなかった。
胸の奥にいつも居座っていた重たい何かが、ごっそり抜け落ちている。空っぽなのに、妙に静かで、穏やかだった。
もしかしたら――
それが、唯一の救いだったのかもしれない。
何も思い出せないということ。
何も背負っていないということ。
白い天井を見つめながら、俺はただ呼吸をしていた。
理由も分からず、生きているという事実だけを、ぼんやりと受け止めながら。
◆ ◆ ◆
リハビリは、突然始まった。
ある日、白衣とは違う服の人が現れて、淡々と説明をした。
言葉の半分も理解できていなかったと思う。ただ、「体を動かす」「戻していく」という響きだけが、ぼんやりと残った。
足が、曲がらなかった。
正確には、曲げようとすると、拒絶される。
関節がどうこうというより、体そのものが「それ以上は無理だ」と主張してくる感覚だった。
ストレッチャーに乗せられ、脚を固定される。
ゆっくり、ゆっくりと可動域を広げていくリハビリ。
理屈では必要だと分かっていても、実際はきつかった。
少し動かされるたびに、奥のほうから鈍い痛みが湧き上がる。
声を出すほどじゃない。
でも、歯を食いしばらないと耐えられない程度には、確実に痛い。
「力抜いてくださいね」
そう言われても、どうやって抜けばいいのか分からない。
体は勝手に強張り、呼吸だけが浅くなる。
ついていけなかった。
気持ちも、体も。
もう一つは、車椅子だった。
最初は、座っているだけで疲れた。
視線が低くなり、世界の見え方が変わる。
廊下の長さがやけに遠く感じられて、自分が遅れている存在になったような気がした。
操作もぎこちない。
まっすぐ進めない。
曲がりたいところで曲がれない。
ちょっとした段差が、やけに大きな壁になる。
周りは優しかった。
急かされることもなかった。
それでも、焦りだけは勝手に増えていった。
できない自分が、はっきりと可視化されていく。
最初は、本当にきつかった。
体力的にも、精神的にも。
けれど、不思議と投げ出したいとは思わなかった。
何かを取り戻したいというより、
ただ、ここにいる自分を現実として受け入れるしかなかった。
思い出せない過去の代わりに、
今、痛みを感じているこの体だけが、確かなものだった。
リハビリ室の白い床を見つめながら、
俺は黙って、言われた通りに脚を動かし続けていた。
◆ ◆ ◆
父親が面会に来た。
カーテン越しに人影が見えたとき、胸の奥がわずかに固くなる。
顔を見れば、それが誰かはすぐに分かった。記憶は曖昧でも、空気の重さだけは体が覚えていた。
近況報告のような口調で、淡々と話し始める。
その内容は、俺の体調でも、気持ちでもなかった。
通帳は全部回収したこと。
印鑑も預かっていること。
ここに運ばれるまでにかかった金も、俺の貯金から出したこと。
まるで事務連絡だった。
俺の手元には、僅かなお金だけが残される。
残りはすべて管理する。
そう言って、当然のような顔をしていた。
反論しようという気持ちは、湧かなかった。
湧かなかったというより、湧く前に潰された。
この状況で、何を言っても無駄だと、体が理解していた。
病院の食事は、少なかった。
栄養的には足りているのだろう。
だが、自衛隊での摂取量に慣れた体には、明らかに足りない。
皿はきれいになくなっても、腹の底には何も溜まらない。
空腹は、じわじわと意識を削る。
痛みよりも、静かで、しつこい。
ある日、看護師にお金を渡した。
「おにぎりを買ってきてもらえませんか」
声は、思ったよりも落ち着いていた。
戻ってきた小さな袋の中には、温度の残ったおにぎりが二つ。
海苔の匂いがした。
それを食べる時間だけが、楽しみだった。
ゆっくり噛んで、味を確かめる。
腹に落ちていく感覚を、確かめる。
それだけで、「生きている」という実感が戻ってくる。
管理されている金。
制限された自由。
選べない立場。
それでも、
この腹ごしらえの時間だけは、誰にも奪われなかった。
白い病室で、
俺は黙っておにぎりを食べる。
それが、当時の俺にとって、
唯一、確かな楽しみだった。
◆ ◆ ◆
退院、ではなかった。
転院らしい。
この民間の病院から、自衛隊病院へ移るという話を聞いたとき、実感はなかった。ただ「次へ行く」という事実だけが、静かに置かれた。場所は東京。
自衛隊病院――その名前だけで、隊員が多い場所なのだろうと想像が膨らむ。不安と、わずかな期待が、同時に胸の中で揺れていた。
転院の日。
介護タクシーに乗せられ、東京まで移動した。
車内は思ったより静かで、揺れも少ない。運転手と、ぽつぽつと会話を交わした。世間話の延長みたいな、当たり障りのないやり取り。その中で、自分が自衛官だと伝えると、相手は少し驚いた顔をした。
「そうなんですか」
その反応が、なぜか嬉しかった。
誇れる状態でも、立派な姿でもない。それでも「自衛官」という肩書きが、まだ自分に残っている気がして、少しだけ胸を張りたくなった。
あとから聞いた話だが、転院にかかったお金は全て僕の貯金から引かれたらしく、残高は無くなっていた。
貯金は60万あった。転院にかかったお金は30万。不思議なこともあるものだ。
病院に着くと、流れは早かった。
案内されたのは、精神科病棟。
そこで、持ってきていたものを一つずつ確認される。
スマホ。
髭剃り。
紐付きのズボン。
その他、ありとあらゆる私物。
制限、回収。
理由は分かっている。
仕方のないことだ。
安全のため。管理のため。
頭では理解しているのに、胸の奥がじわりと重くなる。
また、制限か。
その言葉が、はっきり形を持って浮かんだ。
特にきつかったのは、スマホだった。
利用時間が制限されると、急に時間が余り始める。
やることが、なくなる。
連絡も、情報も、気を紛らわせる手段も、すべて細くなる。
ベッドに横になって、天井を見つめる。
時計の針の進みが、異様に遅い。
考えないようにしても、考えてしまう。
自衛隊病院の夜は、思ったよりも静かだった。
期待していた隊員の気配も、今はまだ遠い。
やることのない時間の中で、
俺はまた、制限された世界に身を置いていることだけを、はっきりと自覚していた。
◆ ◆ ◆
リハビリは、また始まった。
今度は、歩行だった。
ピックアップと呼ばれる器具に体を預け、両脇を支えられながら、床に足を出す。
重心の移動。
体重をかける感覚。
頭で理解しているつもりでも、体は戸惑っていた。
それでも――
足が、前に出た。
ほんの一歩。
それだけなのに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
歩ける。
当たり前だったはずの行為が、奇跡みたいに感じられた。
いつぶりだろう。
自分の足で、完全に独立しているわけでもない。支えられているし、遅いし、不格好だ。それでも「前に進んでいる」という感覚が、確かにあった。
嬉しかった。
驚くほど、素直に。
こんなふうに思ったのは、たぶん初めてだ。
歩けることが、こんなにも尊いなんて。
リハビリの時間は、相変わらずきつかった。
筋肉は思うように言うことを聞かないし、疲労もすぐに溜まる。
それでも、あの一歩があるだけで、踏ん張れた。
日々は、静かに流れていった。
気づけば、ここに来てから一ヶ月が過ぎようとしていた。
大きな事件があったわけじゃない。
ただ、安定していた。
それが、評価された。
ある日、リハビリの担当者が言った。
ピックアップは卒業。
次は、松葉杖。
「昇格ですね」
その言葉に、少しだけ笑ってしまった。
松葉杖を使って立ち上がる。
自分の腕で体を支え、自分の判断で足を出す。
責任が増えた分、自由も増えた。
まだ不安定で、慎重で、転ばないように神経を使う。
それでも、確実に前よりも「自分で動いている」。
制限ばかりの中で、
この小さな進歩は、はっきりとした希望だった。
歩ける。
前に進める。
その事実だけで、
この先の時間を、もう少しだけ生きてみようと思えた。
◆ ◆ ◆
松葉杖を使い始めてから、また一ヶ月が過ぎようとしていた。
足の可動域は、気づけば九十度をとうに超えていた。
百十度に、もう手が届きそうなところまで来ている。
リハビリのたびに告げられる数字が、少しずつ更新されていく。
そのたびに、胸の奥が明るくなる。
ただの角度。
ただの数値。
それでも、それは確かな「前進」だった。
嬉しさは、そのままモチベーションになった。
痛みも、疲労も、やり過ぎないようにというブレーキもある。
それでも、「もう少し」「あと一回」と、自分から思えるようになっていた。
そんな頃、転院の話が出た。
自衛隊中央病院、東京から。
次は、福岡。
また移動。
また環境が変わる。
驚きはあったが、不思議と動揺は少なかった。
この数ヶ月で、変化に慣れてしまったのかもしれない。
東京で過ごせる時間は、もう長くない。
そう思うと、自然と気持ちは前向きになった。
残り少ない東京ライフ。
やれるだけ、やろう。
リハビリの一回一回に集中する。
松葉杖の扱いに慣れ、歩幅を確かめ、体重の乗せ方を修正する。
自分の体と、正面から向き合う。
制限の多い生活の中で、
この成長だけは、誰にも管理されていなかった。
曲がる角度が増えるたび、
歩きが安定するたび、
俺は確かに、自分の足で前へ進んでいた。
東京の空の下で積み重ねたこの時間が、
次の場所へ行くための、確かな土台になっている。
そう信じて、今日も松葉杖を握りしめていた。
◆ ◆ ◆
自衛隊福岡病院へ転院する日が来た。
送ってくれたのは、これまで世話になっていた先任陸曹だった。
多くを語らない人だったが、車内の空気は不思議と穏やかで、変な緊張はなかった。空港までの道のりを、ただ流れる景色を見ながら過ごす。
飛行機に乗り、東京を離れる。
遠ざかる街を見ても、名残惜しさはあまりなかった。ここでやれることは、やり切った。そんな感覚のほうが強かった。
福岡に着いてからは、空気が違った。
自衛隊福岡病院は、中央病院ほど厳しくなかった。
面会の制限は緩く、スマホの利用も比較的自由。
リハビリの時間も短くなり、その分、ぽっかりと時間が空いた。
そこで、書き始めた。
小説を。
もっと正確に言えば、これは退院後、落ち着いた日常の中で振り返りながら書いている自伝だ。
あのときは、ただ時間を埋めるためだった。
けれど結果的に、それが今に繋がっている。
福岡病院の看護師は、よく話を聞いてくれた。
忙しいはずなのに、足を止めて、目を見て、ちゃんと向き合ってくれる。
ここでは「患者」ではなく、「人」として扱われている感覚があった。
リハビリの先生との会話も楽しかった。
冗談を交えながら、体の状態を説明してくれる。
中央病院のときより、ずっと笑う時間が多い。
リハビリが「きついもの」から、「前向きな時間」に変わっていった。
空いた時間には、将来のことを考えた。
退院したらどうするか。
自衛隊には復帰する。
そして、退職する。
その後、家を出る。
順番は決まっていた。
退院 → 自衛隊復帰 → 退職 → 家出。
迷いはなかった。
ここまで来て、元の場所に戻る選択肢は、もう現実的じゃなかった。
母は、ずっとそばにいた。
最初に連絡したのは、自衛隊中央病院にいたときだ。
伝えた瞬間、すぐに飛んできてくれた。
「無事でよかった」と泣きながら、何度もそう言った。
それからも連絡は続いた。
面会に来て、他愛ない話をして、帰っていく。
福岡病院に移ってからは距離も近くなり、会う頻度はさらに増えた。
その中で、少しずつ話した。
家を出たいこと。
戻る気はないこと。
怖いけれど、戻ったらまた壊れるという確信があること。
母は否定しなかった。
現実的な話を、静かに一緒に考えてくれた。
そうして、家出計画は形になっていった。
行き先は、母のもと。
この文章を書いている今、
それらはすべて、すでに過去の出来事だ。
けれど確かに、
福岡の病院で過ごしたあの時間が、
人生を立て直すための、最後の助走だった。
◆ ◆ ◆
退院日が決まった。
二〇二五年十月五日。
この日で、入院生活は終わる。
告げられた瞬間、ほっとしたのと同時に、胸の奥が少しだけ冷えた。
終わることが、こんなにも寂しいとは思っていなかった。
守られた時間。区切られた生活。
不自由だったはずなのに、ここには確かな居場所があった。
実家に戻るのは、正直、嫌だった。
だが家出計画のためには、一度戻らなければならない。
通過点だと、自分に言い聞かせる。
迎えた退院の日。
病室は、いつもより静かに感じた。
仲良くなった福岡病院の先生と話す。
これまでのリハビリの進展。
そして、これから自分一人でも続けられるリハビリの方法。
専門的な話の合間に、何気ない言葉が挟まる。そのやり取りが、もうできなくなるのだと思うと、少しだけ喉が詰まった。
別れは、あっさりしていた。
だからこそ、余韻が残る。
病院を出ると、父が待っていた。
そのまま車に乗せられ、病院をあとにする。
久々の外。
意識がはっきりしてからの病院生活は、どこか刑務所のように感じていた部分もあった。
だからもっと、解放感があるものだと思っていた。
けれど、清々しい、とまではいかなかった。
行き先が、実家だからだ。
景色が流れていく。
街も、人も、すべてが普段通りなのに、自分だけが逆戻りしていく感覚があった。
それでも、一つだけ楽しみがあった。
弟に会えること。
そのことだけを支えに、
俺は久々の実家へと帰った。
◆ ◆ ◆
実家に着いても、空気は変わらなかった。
玄関をくぐった瞬間に分かる。
ここは、あの頃のままだ。
祖父母に呼ばれ、座らされ、話をされた。
命が助かったのは神様のおかげだとか、
神様との縁からは逃げられないだとか、
いずれはこれを継ぐことになるのだとか。
そんなことを言われた、気がする。
正直、ほとんど覚えていない。
聞く気がなかった。
頭の中を素通りしていった言葉の残骸だけが、薄く残っている。
反論もしなかった。
納得もしなかった。
ただ、やり過ごした。
そのあと、弟と対面した。
久々だった。
少し背が伸びていて、声も低くなっている。
目を合わせると、すぐ逸らす。
ぶっきらぼうなのに、距離感はやけに近い。
照れているのだろう。
思春期ってやつだ。
それだけで、少し救われた。
その日から、日課ができた。
弟がいる時間に、一緒に外を歩く。
ウォーキング。
リハビリも兼ねていた。
そういえば、書き忘れていたことがある。
福岡病院を退院する前に、片杖へと昇格していた。
もう少しで、杖なし歩行に戻れるところまで来ている。
外の空気を吸いながら、ゆっくり歩く。
無理のないペースで、会話もほとんどない。
それが、ちょうどよかった。
歩き終わると、決まりごとがあった。
なぜか祈祷を受けさせられ、そのまま部屋に入れられる。
理由は分からないし、説明もない。
いつの間にか、それが「流れ」になっていた。
日を追うごとに、ストレスは確実に溜まっていく。
胸の奥に、じわじわと溜まる。
それでも、耐えた。
耐えられるところまでは、耐える。
そう決めていた。
ここは、あくまで通過点だ。
この先に、出ていくための準備期間。
そう言い聞かせながら、
俺は今日も杖をつき、
弟と並んで、家の外を歩いていた。
◆ ◆ ◆
決行の日は、突然やってきた。
最初から決まっていたわけじゃない。
カレンダーに印をつけていたわけでもない。
ただ、限界が来ただけだった。
実家で溜まり続けたストレスが、ある日、臨界点を越えた。
胸の奥に沈めていたものが一気に浮かび上がり、
また、希死念慮に襲われた。
このままでは、まずい。
俺は、母に連絡した。
「迎えに来て」
それだけだった。
理由も、説明も、求められなかった。
母は、すぐに来てくれた。
車に乗せられ、実家を離れる。
振り返る余裕もなかった。
ただ、離れていくことだけが、はっきり分かった。
母の家の近くにある警察署に立ち寄り、手続きをした。
捜索願。
住所を伝えないこと。
必要なことを、淡々と済ませていく。
やっと、家に着いた。
何年ぶりだろう。
二年ぶり、かもしれない。
自衛隊に入る前も、何度か隙を見つけては、母方の家に来ていた。
思い返せば、ここに来るのは三度目だ。
玄関に立ち、靴を脱ぐ。
その一連の動作が、やけに現実味を帯びていた。
今日から、俺はここに住む。
それは「逃げ」かもしれない。
けれど、少なくとも、生きるための選択だった。
静かな家だった。
余計な音がない。
誰かの気配はあるのに、緊張はない。
胸の奥で、何かがほどける。
まだ何も終わっていない。
問題は山ほどある。
それでも、この場所に辿り着いたという事実だけは、確かだった。
俺はようやく、
息をしてもいい場所に、戻ってきたのかもしれない。
◆ ◆ ◆
今、俺は十九歳だ。
来月、二十歳になる。
数字にすると、それだけのことなのに、
そこに辿り着くまでの時間は、やけに長かった。
実家で耐え続けてきた十数年。
逃げ場のない空気の中で、息を殺すように過ごした日々。
それを、ようやく越えた。
家を出られた。
その事実が、胸に落ちてきた瞬間、
感情が一気に溢れ出した。
涙が出た。
理由は一つじゃない。
喜びなのか。
幸福なのか。
安堵なのか。
どれも近いけれど、どれも少し違う。
強いて言うなら、
解放感、という言葉が一番しっくりくる。
縛られていた何かが、音もなく外れた感覚。
それがあまりに突然で、
実感すら追いついてこなかった。
胸がいっぱいになる。
苦しいほどに。
それなのに、重たくはない。
「ああ、終わったんだ」
そう思った瞬間、
これまで耐えてきた時間が、まとめて押し寄せてきた。
意味の分からない叱責。
制限。
沈黙。
我慢。
それらすべてを背負ったままでも、
俺は生きて、ここまで来た。
その事実に、ただ、浸っていた。
まだ先は分からない。
不安が消えたわけでもない。
これからやるべきことは、山ほどある。
それでも――
あの家を出られた。
それだけで、今は十分だった。
十九歳の終わりに、
俺はようやく、自分の人生の入口に立ったのかもしれない。
◆ ◆ ◆
久しぶりに、親族と顔を合わせた。
事情を知っている人たちは、誰も責めなかった。
ただ、心配してくれた。
体のこと、これからのこと、今はどうしているのか。
言葉はそれぞれでも、根っこにあるものは同じだった。
母方は、こんなにも暖かかったのか。
それを、頭ではなく、胸の奥で感じた。
ゆっくりと、噛みしめるように。
今まで知らなかった温度が、確かにそこにあった。
そして、二十歳になった。
法的にも、前の家へ連れ戻される心配はなくなった。
もう、家出少年じゃない。
この家の、正式な住人だ。
安心という言葉では足りない。
現実として、「戻らなくていい」という事実が、人生の地盤を一気に固めた。
母の再婚相手の名前は、井上という。
穏やかで、余計なことを言わない人だ。
俺は、その人に頼み込んだ。
父として受け入れてほしい。
養子にしてほしい、と。
迷いはなかった。
そして、名前を授かった。
「井上拓海」
新しい姓。
新しい名前。
人生のスタートラインに立つには、あまりにも綺麗な区切りだった。
二十歳。
子供から大人になる、このタイミング。
過去と決別するには、ちょうどいい。
背負ってきたものは、確かに重かった。
消えない傷も、忘れられない記憶もある。
でも、それらはもう「これから」を縛る理由にはならない。
名前が変わったから、すべてが変わるわけじゃない。
それでも、進む方向を選ぶには十分だった。
過去は消えない。
それでも、進む方向は選べる。
俺の名前は、井上拓海。
ここから先は、俺の人生だ。




