第22話:ターニングポイント1『ミカ』
翌朝。 窓の外が白み始めても、俺は執務室の椅子に座ったままだった。
眠れなかった。 昨日、涙目で飛び出していったミカの顔が脳裏に焼き付いて離れない。 胸の奥で、嫌なサイレンが鳴り響いている。
(……謝らないと)
だが、体が重い。 帰還してから三日間、ほとんど眠っていなかった。頭がぼんやりとして、思考がまとまらない。
(……もう少ししたら、行こう)
俺はそう思いながら、気晴らしに机の上の書類に手を伸ばした。 スラム(ダンブ池周辺)に関する報告書だ。 昨日はマティアスの作った「要約」しか読んでいなかった。
(……せめて、現状を把握してから謝りに行くか)
俺は引き出しから、現場から上がってきた「一次データ(生原稿)」を取り出した。
分厚いファイル。マティアスが「不要」として省いた細かいデータが、そこには大量に記録されていた。
俺はページをめくった。
「……ん?」
ある一覧表に目が止まった。 被害者リストだ。
『症状:全身の倦怠感、激しい頭痛、嘔吐、呼吸困難』
ここまでは疫病でもあり得る。
だが、被害者の属性がおかしい。
・被害者A:男児(7歳、体重18kg)
・被害者B:女児(5歳、体重15kg)
・被害者C:女性(22歳、小柄、体重42kg)
・被害者D:男児(9歳、体重20kg)
・被害者E:女児(6歳、体重16kg)
・被害者F:男性(68歳、体重70kg)← 軽症
・被害者G:男性(45歳、体重85kg)← 軽症
俺の手が止まった。
リストに並ぶ重症者は、子供と女性ばかり。高齢者や大柄な男性は「軽症」となっている。
通常、感染症や疫病なら、免疫力の低い「高齢者」から死者が出るはずだ。 だが、このリストは逆だ。
共通しているのは——
「……体重が、軽い」
俺の背筋に冷たいものが走った。
体重によって重篤化のスピードが異なる。 回復魔法が効かない。 場所は、換気の悪い湿地帯の窪地。
これは「病気」じゃない。
「……毒だ」
硫化水素か、メタンか、あるいは地下から湧き出た未知のガスか。
汚水が溜まり、腐敗したヘドロから発生した有毒ガスが、濃度の高い「毒」となってスラムを覆っているのだ。
それならば、すべての辻褄が合う。
子供の方が先に倒れるのも、魔法で治しても(その場で空気を吸い続けている限り)すぐに再発するのも。
俺は震える手で次のページをめくった。
そこには、医療スタッフの健康状態が記録されていた。
・看護師A(女性、28歳、体重48kg):軽度の頭痛、倦怠感
・看護師B(女性、32歳、体重52kg):嘔吐、呼吸困難
・医師A(男性、45歳、体重75kg):軽度の倦怠感
そして、最後の欄に——
・衛生管理局長 ミカ(女性、22歳、体重43kg):
その先は、空白だった。
報告書が作成された時点で、ミカは自分の症状を報告していなかったのだ。
(……なぜだ?)
答えはすぐに分かった。
ミカは、自分の症状を隠していたのだ。
患者を治療するために。スタッフを安心させるために。この街を救うために。
そして—— 数日間、不眠不休で現場にいる。小柄で、体重が軽い。疲労で免疫が落ちている。 そんな状態で、高濃度の毒ガスの中に数日間も?
「……っ!」
俺はガタリと椅子を蹴倒して立ち上がった。
血の気が引いた。
時計を見る。 朝の6時。 ミカが部屋に戻らなくなってから、すでに12時間以上が経過している。
「……やばい!」
俺は執務室を飛び出し、廊下を走った。
「おい! 誰かいないか! 馬車を出せ!!」
夜勤明けの執事が驚いた顔で出てくる。
「領主権限で緊急発進だ! ダンブ池へ向かう! 急げ!!」
◇
早朝の街を、馬車が疾走する。 中心部からスラムまでは約20分。 その時間が、永遠のように長く感じられた。
俺は馬車の中で、拳を握りしめた。
(……頼む。間に合ってくれ)
だが、胸の奥の嫌な予感は、どんどん大きくなっていく。
(……なぜ、昨日すぐに行かなかった)
(……なぜ、データを先に見なかった)
(……なぜ、ミカの言葉を信じなかった)
後悔が押し寄せる。すべてが、遅すぎた。
やがて、窓の外の景色が変わった。 新しく建てられたばかりの仮設住宅群。
だが——
「……なんだ、これ」
俺は窓を開け、外を見た。 そこには、生気がなかった。
外を歩く人がいない。窓という窓が閉じられ、まるでゴーストタウンのように静まり返っている。
馬車を降りた瞬間、鼻をつく異臭に顔をしかめた。 腐った卵と、錆びた鉄を混ぜたような重い臭い。 空気そのものが澱んでいる。
「……こんな場所に、押し込めていたのか」
俺はハンカチで口を覆い、仮設病院となっている集会所へ走った。 その途中、俺は見てしまった。
道端に、小さな布が被せられた「何か」がある。
風で布がめくれ、中が見えた。
小さな手。動かない、冷たい手。
「……ッ」
俺は目を逸らし、走った。
集会所の前には、泣き崩れる女性がいた。
子供を抱きしめ、「起きて、起きて」と叫んでいる。
だが、子供は動かない。
俺は彼女を見て、立ち止まった。 その女性は——
「……ラナ?」
1ヶ月前ほど街でで出会った、あのスラムの少女だった。
だが、彼女が抱いているのは——小さな男の子。弟だろうか。
「ラナ!」
俺が声をかけると、彼女が顔を上げた。
その目は、絶望に染まっていた。
「……ルイ、様……」
彼女の声は、震えていた。
「……なんで……なんで、こんなことに……」
「……っ」
俺は言葉が出なかった。 彼女の弟は、もう動かない。
「……ミカ様は……ミカ様は、最後まで頑張ってくれました……でも、もう……」
「……ミカは?」
「……奥の、部屋に……」
ラナが指差した。俺は走った。
「ルイ様!?」
入り口で、顔色の悪い衛生兵が驚きの声を上げた。 中は地獄絵図だった。 通路まで簡易ベッドが溢れ、子供や女性が苦しげに喘いでいる。 医療スタッフたちも目の焦点が合っておらず、ふらつきながら動いている。限界だ。
「ミカはどこだ!!」
俺は大声で叫んだ。 近くにいた看護師が、泣きそうな顔で奥の部屋を指差した。
「……局長なら、奥の集中治療室に……もう、誰も入れさせないって、鍵をかけて……」
俺は奥へ走った。
ドアを蹴破るようにして開ける。
そこには。
部屋の隅のベッドに、泥と汚れにまみれた白い服が見えた。
「……っ」
俺は駆け寄った。 ミカだった。 顔は土色で、唇は紫色に変色している。
呼吸は浅く、ヒュー、ヒューという乾いた音が漏れているだけだ。
「ミカ! ミカ!!」
俺は彼女の体を抱き起こした。
軽い。恐ろしいほどに軽い。
冷たい腕をさすり、必死に呼びかける。
「……ん……」
ミカの瞼が、ゆっくりと震えた。
焦点の合わない瞳が、俺を捉える。
「……ルイ……?」
蚊の鳴くような声だった。
「大丈夫だ! 今すぐここから連れ出す! 街の病院へ行けば治る! だから——」
「……ルイ……」
ミカが俺の服を弱々しく掴んだ。
「……ごめん、ね……」
「何言ってるんだ! お前は何も悪くない! 俺が——」
「……みんな、救えなかった……」
彼女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……私……失格、だよ……」
「そんなことない!!」
俺は叫んだ。
「お前は最後まで頑張った! 誰よりも! ……俺が悪かったんだ! 俺が、お前の言うことを聞かなかったから!」
「……そっか……」
ミカの目が、ふっと遠くを見た。
「……ルイ……優しい、ね……」
「ミカ、頼む! 起きてくれ! 俺、まだ謝ってない! 昨日、ひどいこと言った! 謝らせてくれ!」
「……いいよ……」
ミカが小さく笑った。
「……もう、いいの……」
「何がいいんだよ! 何も良くないだろ! 俺、お前と話したいことがたくさんあるんだ! 熱帯で見たこと! ルロイから教わったこと! これから作る街のこと! ……だから、起きてくれよ!」
「……ルイの……作る、世界……」
ミカの声が、どんどん小さくなっていく。
「……見たかった、な……」
「見せるよ! だから!」
「……約束……」
ミカが俺の手を握った。
その手は、冷たくて、震えていた。
「……病気で……死ぬ人が……いない……国を……」
「……ああ! 約束する! だから——」
ミカの手の力が、ふっと抜けた。
「……ミカ?」
掴んでいた手が、力なく落ちた。
「ミカ! おい!! しっかりしろ!!」
返事はない。 胸の上下動が、止まっていた。
「待て! まだ話してない! まだ何も聞いてない! お前が本当に言いたかったこと! お前が本当に見たかった世界! お前が——」
俺の声が、震えた。
「……お前が、俺に言いたかったこと……まだ、聞いてないんだ……」
だが、ミカは答えない。
「おい! 医者! ポーションだ! 早くしろ!!」
俺は後ろにいた医師を怒鳴りつけた。
だが、医師は悲痛な顔で首を横に振った。
「……手遅れです。心臓が、もう……」
「ふざけるな! 治せよ! 命令だぞ!!」
俺はミカを揺さぶった。
「起きろよ……おい、ミカ。 謝るんだろ? 喧嘩したままじゃねえか。 菓子を持っていくって、決めたんだよ。 なあ、起きろよ……!!」
部屋には、俺の虚しい声だけが響いた。
俺は彼女を腕の中に抱いたまま、動けなかった。 思考が真っ白に染まっていく。 計算も、戦略も、数字も、何も浮かばない。
ただ、視界が滲んで、ミカの顔が見えなくなっていく。
(……もっと、話したかった)
(……もっと、聞きたかった)
ポタ、ポタと。 俺の頬から流れ落ちた雫が、彼女の泥だらけの頬を濡らしていた。
自分が泣いていることさえ、俺には分からなかった。
◇
——どれくらい、そうしていただろうか。
俺は、ミカを抱いたまま、動けなかった。 時間の感覚がない。 ただ、彼女の体が、少しずつ冷たくなっていくのを感じていた。
部屋のドアが開く音がした。
「……ルイ様」
背後から、誰かの声が聞こえた。 医師だろうか。
「……もう、行きましょう。ミカ様を、ここで休ませてあげましょう」
「……」
俺は答えなかった。
「……ルイ様、お願いです」
その声は、震えていた。
「……これ以上、ミカ様を苦しませないでください」
俺は、ゆっくりとミカをベッドに横たえた。
彼女の顔は、穏やかだった。まるで、眠っているように。
俺は立ち上がった。 背後を振り返ることなく、部屋を出た。
廊下には、泣き崩れる医療スタッフたちがいた。 俺は彼らの目をみることができなかった。
「全員馬車で街へ行け。誰一人ここに残すな」
俺は残り僅かな力で言った。
「で、でも! 患者が——」
「患者も一緒にだ。……今すぐだ」
俺の声に、スタッフたちが動き始めた。 俺は集会所を出た。
外では、朝日が昇り始めていた。 美しい朝日。だが、俺にはそれが、ひどく残酷なものに見えた。
(……ミカは、もうこの朝日を見られない)
俺は拳を握りしめた。 爪が手のひらに食い込み、血が滲んだ。
——これは全て俺のせいだ。
——ミカに耳を傾けなかったせいだ。
——発展ばかり考えていたせいだ。
——俺のせいだ
——ミカが死んだのは俺のせいだ。
——俺がミカを殺した。
◇
バール領主館に戻ると、サーシャが待っていた。 彼女は俺の顔を見て、すべてを悟ったようだった。
「……ミカさんは」
「……死んだ」
俺の言葉に、サーシャの顔から血の気が引いた。
「……そんな」
彼女の声が震えた。
「……そんな……嘘、ですよね……?」
「……本当だ」
サーシャが俺を見た。 その目には、今まで見たことのない感情があった。 怒り。悲しみ。そして——絶望。
「……なぜ、ですか」
彼女の声は、低かった。
「……なぜ、もっと早く行かなかったのですか」
「……」
「……なぜ、ミカさんの言葉を信じなかったのですか」
「……すまない」
「謝らないでください!!」
サーシャが声を大にして叫んだ。 俺は初めて見た。彼女が、こんなに感情を露わにするのを。
「……謝って、済む問題じゃないんです! ……ミカさんは、死んだんです! ……もう、戻ってこないんです!」
彼女の目から、涙が溢れた。
「……ミカさんは、ルイ様のこと信じてたのに……最後まで、ルイ様のこと待ってたのに……なのに……!」
サーシャが膝をつき、大声で叫んだ。
「ルイ様のせいで、ミカさんが死んだ!」
そして彼女は大声で泣き出した。
俺は、何も言えなかった。
俺は、何もできなかった。
俺は、逃げるように自室へ戻った。
▼次回は明日18時投稿。




