第1話 やり直し
タイトル変更するかもしれません。
では、物語へどうぞ。
人間は、惰性という名の緩やかな毒に慣れる生き物だ。
29になり、その事実に気づいたところで、解毒剤など持ち合わせてはいない。
チープな合成木材のテーブルに置かれたコンビニのロゴが入った弁当。それは現代社会における羊飼いの焼き印のようなものだろうか。管理され、飼い慣らされた羊の餌。それが俺の日常だった。
学生時代。漠然とした夢ならあった。だが、何をするにも、その他大勢という安全地帯から一歩も踏み出せなかった。挑戦する人間を嘲笑い、努力する人間を分析し、その粗を探して安心する。そうやって凡庸な自分を肯定し続けた結果が、この現在地だ。非正規の職、友人と呼べる人間のいない連絡先リスト、そして後悔という名の内臓脂肪。明確な資産は、何一つない。
「……やり直せる、か」
あり得ないと分かっている。呪詛のように吐き出す。手元のスマートフォンが照らし出すのは、他人の幸福という名の虚飾の羅列だ。結婚、起業、海外旅行。記号化された幸福を誇示する人間たち。彼らは観客からの「いいね」という承認を養分に生きている。俺は、その観客にすらなれない。画面を無感情にスワイプし、アプリを閉じた。その時だった。
ピロン、と。軽い通知音が響いた。
知らないアカウントからのメッセージ。
『本当にやり直したいの? なら叶えてあげるよ』
悪質なスパムか、あるいは心の弱みに付け込む手の込んだ詐欺か。どちらにせよ、その文字列は俺という人間の本質を正確に射抜いていた。不気味なほどに。
無視すべきだ。そう理性は警告する。だが、その直後、部屋の空気を切り裂くように着信音が鳴り響いた。
ディスプレイには『非通知』の三文字。
このタイミング。偶然にしては、出来過ぎている。
俺は、まるで何かに操られるように、通話ボタンを押した。
「――もしもし」
返事はない。ただ、ザッ、という耳障りなノイズが鼓膜を揺らす。
次の瞬間、世界から、色が消えた。
気づけば、俺はそこに“在った”。
床も、壁も、天井もない。天地の概念すら曖昧な、純白の空間。無音のはずなのに、耳が圧迫されるような奇妙な感覚。理解不能な状況下にありながら、不思議と俺の思考は冷静だった。
やがて、頭の中に直接、声が流れ込んでくる。音波によるものではない。脳に直接書き込まれるような、機械的で、性別のない合成音声。
『ようこそ、夏目 智也君。君は試験の参加者に選抜された』
当選者ではなく、選抜者。その僅かな単語の違いに、俺は作為的な意思を感じ取った。
「誰だ。目的は何だ」
「ここはどこだという問いに意味はない。なぜなら、ここはどこでもないからだ。そして我々は、君が“審判”と呼べば審判になるし、“神”と呼べば神になる。君がどう認識するかは重要ではない。重要なのは、これから君に与えられるルールだけだ」
質問の意図を汲み取りながら、それを冷たく切り捨てる。こちらの思考を完全に掌握していることの示威行為か。逆らうという選択肢は、初めから存在しないらしい。
『君が望んだもの、すなわち“人生のやり直し”の権利を懸けた試験だ。ルールは五つ。正確に理解してね』
俺は黙って、その声に意識を集中させた。
『一つ、君はこれから高校一年生の四月から、三年間を過ごすことになる』
『二つ、君が“人生をやり直している人間”だと、いかなる第三者にも露見せず三年間を過ごしきること。これを達成すれば試験は合格。君は、その後の人生を継続する権利を得る』
『三つ、君の正体が露見し、我々に通報された場合、試験は不合格。ペナルティとして、君の存在そのものを因果律から完全に削除する。記録からも、記憶からも。君がこの世に生を受けたという事実、その全てが無かったことになる』
『四つ、君はこのゲームにおける唯一の参加者ではない。君以外の“人生をやり直し中の人間”を発見し、我々に通報すれば、報酬として可能な範囲で君の願いを一つ叶える』
『五つ、頑張ってね』
その無機質なエールを最後に、声は途絶えた。
そして、まるで古いブラウン管テレビの電源が落ちるように、俺の意識も、闇に飲まれた。
次に目を開けた時、視界に飛び込んできたのは、見慣れた、しかし記憶の奥底にしまい込んでいたはずの自室の天井だった。
壁のポスターも、机の上の参考書も、何もかもが十四年前のままだ。
身体を起こす。軋むベッドのスプリングの音。記憶の中にある三十路前の身体とは比較にならないほど、軽い。
傍らにあったのは、二つ折りの携帯電話。パカ、と開くと、カレンダーが点灯した。
――4月4日。高校の入学式を間近に控えた春休み。
震える指で鏡の前に立てば、そこに映っていたのは、十五歳の俺だった。
無駄なぜい肉はなく、肌にはハリがある。後悔に濁る前の、未来を漠然と信じていた瞳。
だが、その瞳の奥に宿るのは、二十九年分の倦怠と絶望を知る、俺の精神だ。
これは、夢ではない。
あの声も、あのルールも、全てが現実だ。
これから始まる三年間は、甘美なやり直しの機会などではない。一言の失言、一つの不自然な行動が「消滅」に繋がる地雷原。
そして、俺と同じ仮面を被った参加者が、この学校のどこかに潜んでいるかもしれない。
「……上等じゃないか」
鏡の中の少年が、口の端を吊り上げた。
ルールは明確。このゲームでは、人間の醜い本性が何よりの武器となる。
腐りきった人生。それは言い換えれば、失うものが何もないということだ。そして失うものがない人間ほど、この手のゲームにおいて厄介なプレイヤーはいない。
ああ、そうだ。悪趣味で理不尽極まりない。
だが、俺のような人間にとって、これほど公平な舞台があるだろうか?
こうして、俺の二度目の高校生活という名の、生存を賭けたゲームの幕が、静かに上がった。