【ドラマパート】支那膺懲
英梨子が次期小銃や自記記録計の開発にいそしんでいたころ、朝鮮では激しい政争が繰り広げられていた。確かに壬午軍乱で最も保守的な大院君派を壊滅させることはできたが、閔氏一族をはじめとする親清派閥「事大党」が勢力を衰えさせながらも政権にしがみついており、日本が支援する急進改革派閥「独立党」の動きを頻繁に妨害していたのである。
「今の状況を見るに、朝鮮には我が国からのもう一押しが必要です」
外務卿の井上馨は、朝鮮独立党から届く愚痴のような嘆願の数々をどうにかしようと、内務卿兼宮内卿の大久保利通に相談した。
「もう一押しと言うと、やはりクーデターか?」
「穏便に行くかはわかりませんが、そうなるでしょうね」
「だが、そんなことをすれば清が黙ってないだろう」
大久保が至極当然のことを馨に指摘する。
「そうなんですよ……清は今インドシナを巡ってフランスと武力衝突しており、そのうち戦争に発展する可能性があります。なので、今から準備させておけば、清の目がフランスの方を向いた隙に朝鮮でクーデターを起こさせ、平時より安全に朝鮮を我が国の影響下に置くことができるでしょう」
清仏戦争の1年以上前から、フランスはインドシナに進出しており、現地の政権である阮や、阮の救援要請を受けて参戦した清と武力衝突を繰り返していた。馨はこれを見て、独立党にクーデターを起こさせることを思いついたのである。
「だが、絶対に清が我が国へ報復しない保証はないだろう?」
「そのとおりですので、まずは大久保さんにご意見を伺った方が良いと判断した次第です」
「うーん……今ここで判断するには情報が足りないな。少し待っていてくれ」
大久保には、いくら清がフランスと戦争中と言えど、日本に朝鮮でクーデターを起こされたら黙っているとは思えなかった。そのため、その読みを裏付けるべく、関係各所に聞いて回ることにしたのである。
数週間後、九条道孝が憲法の草案を書いていると、大久保が進捗を確認すると言って訪ねてきた。しばらくはどこまで草案を書けたとか、ドイツ憲法からの変更点とかを話していたが、やがて煕通がドイツ随行時の見聞をまとめたレポートに話題が移る。
「そういえば、あのレポートの中で、ドイツが清国向けの巨艦を建造していると書いてあったが、娘さんは何か言っていたかな?」
「あれですか……あれに打ち勝てる艦を我が国が就役させるまでに、10年単位の技術開発と投資が必要だと言っていましたよ」
定遠級は欧米基準だと戦艦としてはだいぶ小型であるが、装甲厚では引けを取らない。そんな重装甲を撃ちぬける火砲は、当時の日本で製造できる代物ではなかった。
「それには……莫大な費用が掛かるだろうな」
「なので、いっそこの戦艦が就役するより前に、機会さえあれば雌雄を決しておいた方が良いと言っていました。そんな都合よく清が欧米列強と戦争をするとは思えませんが……」
「……ところがな、本当に都合よく、清がフランスと戦争をする気配があるのだ」
そういうと大久保は、インドシナにおける清仏の武力衝突と、馨から朝鮮でクーデターを起こす提案があったことを説明する。
「それは……」
「海軍卿の川村君も『今すぐ戦うなら清に勝てる。しかし、陸軍の出した資料にある戦艦が就役したら、向こう10年は手出しできない』と言っていた。もし10年も待っていたら、その間朝鮮は政争に明け暮れ続けて、我が国の防波堤としての役目を果たせるようになる日がさらに遠のくだろう」
日本が朝鮮を自国の勢力圏に組み込みたいのは、安全保障上、対馬や九州を清やロシアから遠ざける必要があるからだ。だが、今の朝鮮は国力に乏しく、防波堤になるどころか逆に橋頭保にされかねない。ゆえに、急進的な改革を志向する独立党に政権をとらせ、早急に富国強兵に集中してもらわないと日本が困るのだった。
「……それならば、腹をくくるしか、無いと思います」
「わかった。本格的に検討を始めよう」
こののち、大久保は独立党のクーデターを煽り、その支援をするよう馨に命じる。行き当たりばったりだった史実と違い、この世界の甲申事変には十分なリソースが準備されることとなった。
「ここをこうして……できたぞ」
1883年から実に1年以上をかけ、梨本宮菊麿は自記記録計の実に7機目となる試作品を組み上げた。
「今回はうまくいきますかね」
「前回の試作機で自動的に記録を付け続けることには成功したし、今回は稼働時間を長くしただけだから、うまくいくとは思いますが……」
自記記録計とは、人間の手を借りず、自動的に温度と湿度を記録し続ける装置のことである。気象観測における人間の労力を大いに削減する装置であるが、菊麿と英梨子にとっては、気球よりはるかに高く飛ぶロケットでの気象観測を目指すうえでも重要な測定機器であった。
「まあ、やってみてからのお楽しみとしましょう。百葉箱……『二重百葉窓の箱』に設置しに行きますか」
「そうですね」
二人は梨本宮邸の庭に(菊麿の趣味で)設置された百葉箱に試作品を取り付けるべく、家の外に出る。
「しかし、こんなにも早く、我が国と清が事を構えることになるなんて思ってもみませんでした」
庭を歩きながら、菊麿が日清戦争が始まったことを話題にした。その手の話を好む英梨子に影響されて、菊麿もまた宮家の跡取りとして国際情勢を気にするようになっている。
「そうですね……私も去年から清がフランスともめてたことは知らなくて……今年になって戦争に発展してからようやく『今すぐなら日本からも仕掛けられるなあ』って思ったところです」
「そうなんですか。九条さんにも予測できないことってあるんですね」
「そりゃあ、私は神じゃありませんからね」
意外そうな菊麿に対して、英梨子は苦笑しながら答えた。
「今までは『今の腐敗した清相手なら勝てる』って思ってましたけど、いざ始まってみると不安になるのはどうしてなんでしょう」
「戦争には相手がいる以上、『絶対』がありません。それに、これまではまだ戦争が始まっていなかったので『言うだけならタダ』って感じでした。でも今は実際に戦争が始まってしまったので、巡り合わせが悪くて大損害を被る可能性が実際に生じている、そういうことだと思います」
「ですよね……英梨子さんは、特に不安ではないのでしょう?」
今まではどこか対岸の火事だった自分を恥じつつ、菊麿が英梨子に問う。
「いえ、不安ですよ? あり得ないということはあり得ませんから、何か悪いことが起きないようにいつも祈っています」
「一瞬意外に思いましたが、理由を聞いて納得しました」
「ただ、一言付け加えさせていただくと、私は平時からずっと不安を抱えて生きてきましたよ」
「……え?」
百葉箱の元までたどり着いたこともあり、驚いた菊麿は立ち止まって英梨子の方を見た。普段あれだけ堂々としており、我が物顔で男子教室に入ってきて皇族の自分とおしゃべりしている英梨子が、常日頃から不安を抱えているとは思ってもみなかったのである。
「日本や諸外国が想定外の動きをしないか、『女子供だから』みたいな理不尽な理由で陸軍から解任されないか、実験は思った通りうまくいくか、開発品が不具合を起こさないか、あと……まあこれは言わないでおくとして、平時であっても不安に感じる物事は私の周りにいくらでもあったということです」
子供らしく純真に人生を楽しめていない自分を嘲るように英梨子は言った。
「そう言われてみると、私も皇族にふさわしい振る舞いができているかはここ最近不安に思うようになりましたね」
「うんうん、殿下はいい子ですね……はっ! 失礼しました。なんか母性がくすぐられてしまって……」
「あはは……別にいいですよ。気にしないでください」
英梨子の反応が面白くて動揺から立ち直った菊麿は、気を取り直して自記記録計を中に入れるために百葉箱を開けた。
「それはそれとして……不安に打ち勝つには、とりあえず気を張って元気よく生きること。そして、不安のもとに対して対応すること。この2つしかないわけです」
まるで自分に言い聞かせるように、英梨子は作業中の菊麿に対して語り掛ける。
「はい。なので私も九条さんも、すでに不安のもとに対して対策を打っているわけですから、『天が落ちてくることを恐れずに』堂々と生きていきましょう」
「ええ、それがいいと思います」
作業を終えて百葉箱のふたを閉めた菊麿が振り返ると、英梨子が嬉しそうに微笑んでいた。
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