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【ドラマパート】学び屋とお勤め

遅くなりました。ドラマパートです。

「ヒリヒリするなあ……」


 見るからに怪しい黄色の液体を、東京砲兵工廠火薬製造所付の稲葉尚秀に濾別(ろべつ)させながら、英梨子がそんなことをつぶやいた。


「だ、大丈夫ですか!? どこかに液がかかったりして……」


 それを聞いた稲葉が慌てた様子で後ろを振り返る。五摂家の大事な長女、それも、これまで数々の発明を立て続けに成し遂げてきた神童なのだ。それにケガなんかさせてしまったら、何人の首が飛ぶか分かったものではない。


「あ、大丈夫です! ケガとかそういうのじゃないです。それより、ちゃんと前を向いて作業してください……」

「す、すみません!」


 それにびっくりした英梨子は、慌てて稲葉を落ち着かせ、作業に集中するように促した。火薬を扱う作業には危険が伴うので、緊張感があるなあという感想を単につぶやいただけだったのである。


(自分の代わりに実験をしてくれるのはいいけど、なんだか申し訳ないし、保護具も無いのはやっぱり怖いよなあ……)


 英梨子が前世で慣れ親しんだラテックス製の薄いゴム手袋は、1964年の発明品である。革手袋は硬く分厚すぎて細かい作業には向かないし、軍手では薬品を防げないため、素手で取り扱うしかない。


(前世でも、高校時代は保護具無しで混酸とか扱ってたけどさあ……どんなに気を付けていても、いつの間にか手の皮がキサントプロテイン反応で黄色くなってるんだよなあ……やっぱよくなかったんだろうなあ……)


 英梨子は変色して硬くなった皮を口に含むと、すごく酸っぱかったというどうでもいいことを思い出した。もちろん彼女のことだから、酸を手に直接かけるようなへまはしていない。それでも手が変色するのは、発煙硝酸から出る二酸化窒素が汗と反応して硝酸になっているのだろうか。


「濾別できました」

「ありがとうございます。それではその粉末をアンモニア水に投入して中和してください。それで、ピクリン酸アンモニウムが生成すると思います」


 下瀬爆薬のように、ピクリン酸のままでも爆薬として十分通用することは英梨子も当然わかっている。しかし、ピクリン酸は衝撃を受けると容易に爆発し、しかも酸であることから砲弾を腐食させてしまうのだ。おまけに、砲弾との反応生成物も爆発性がある上に衝撃に敏感であるから、危険極まりない物質なのである。


(酸性であることが問題なら、中和してしまえばいい。金属ではない化合物で中和すると、衝撃に対して鈍感になる。何気にD爆薬ってすごい発明品だよね)


 本来の発明者であるメジャー・ダンに感謝を捧げつつ、英梨子は作業を見守るのだった。




 少したって放課後のこと。次々と教室から出ていくクラスメイト達をしり目に、英梨子がのんびり帰り支度をしていると、教師から声をかけられた。


「九条さん、ちょっといい?」

「あ、先生」


 知識レベルも家格も周りと隔絶している英梨子は、学習院の中でも浮いた存在であった。大っぴらに言っていたわけではないが、放課後に陸軍工廠に通っていることもいつの間にか学校内で噂になっており、『おもしれー女』を通り越して『得体のしれない女』になっていたのである。唯一、教師達は何とか英梨子の会話にもついてこれるため、貴重な話し相手として英梨子に重宝されていた。


「陸軍工廠でのお勤めが始まってから、前にもまして疲れてそうだけど、大丈夫?」

「大丈夫な範囲ですよ。ダメそうならお勤めをお休みしてますので。そういう契約ですから」


 見た目は幼女かもしれないが、中身はアラフォーである。学校では淡々と課題をこなし、騒ぐことも群れることもしない英梨子は、教師から見れば元気がないように見えていた。


「ほかの子もそうだけど、何ならお勤めを優先して、こちらをお休みしてもいいんだよ?」


 まだまだ学問が軽視されていたこの時代、ほかの用事のために学校を休んだり、何なら退学したりすることも少なくなかった。特に女子の場合、『婚約したので、花嫁修業のために退学します』という理由がまかり通ったりもしたのである。


「迷いどころではあるのですが、まだ年若い今だからこそ体験できることって世の中にたくさんあると思っていて、その一つが同年代の子たちと学校に通う経験だと思っています。だから、私としては、学校を優先したいなと思う次第です。父も、学校より明らかに危険な陸軍工廠でのお勤めに、複雑な思いを抱いているでしょうし」


 お世辞でもなく、英梨子は本心でそう思っていた。確かに勉強内容は前世でとっくに習ったことばかりで、特に面白みもない。しかし、教え方ひとつとっても、平成と明治では差異があるし、子供たちの反応も違うように感じる。幼い子供たちの和気あいあいとした雰囲気も、英梨子の精神年齢では見ていてほっこりするものであった。自分がその中に混ざれなさそうなのは残念だったが、彼女の中ではお仕事よりも価値ある体験だったのだ。


「そうなの……先生としてはうれしいけど、無理はしないでね。九条さんがまじめに学校に向き合ってくれているのはわかってるから、ほかの子みたいに意地でも学校に来いとは言わないよ」

「あはは……まあ、必要な時にはそうするかもしれませんね。ありがとうございます」


 まるで現代と錯覚するかのような柔軟な対応である。自分と対等に話せる人間がなかなかおらず、孤独を感じる日々ではあるが、それでも自分を何とか慮ってくれようとする気持ちに、英梨子は温かさを感じるのであった。

※濾別

固体と液体の混合物を濾紙などのフィルターに通す、という操作は濾過と同じ。目的物が液体の方なら「濾過」、固体の方なら「濾別」と使い分ける。


※二酸化窒素

名前の通り、窒素と酸素の化合物。身近なところでは内燃機関、特にディーゼルエンジンの排ガスに含まれる窒素酸化物の一種で、酸性雨の原因としても知られる。実際に二酸化窒素のにおいをかぐと、ほぼディーゼルエンジンの排ガスそのままのにおいがするので、人によっては本で得た知識を体感できて感動するかもしれない。


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― 新着の感想 ―
[一言] 既に御国の為に報恩してる良家の才女が、自身の体調やメンタルケア優先するって言ってるのは教師としても無下にし難いですよねぇw
[良い点] キャッキャと戯れる同級生たちを眺めて癒される小学生…なんだか縁側に座って孫を眺めるおばーちゃんみたいですなw [一言] 「まだまだ学問が~」とありますが、彼女の場合は陸軍からの招聘と言う事…
[良い点]  最新話、拝読いたしました。  「稲葉尚秀」はここで登場するのですね。  些細な描写ながら時代の差を感じさせるのは、素手と手袋の部分でした。  未来知識で何かを生み出そうにも、それを生み…
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