【母の日】母の選んだ異世界プラン【短編】
彼女の歩んできた人生は他の誰が見ても報われない人生だったかも知れない。でも、彼女が転生する前にこちら側の世界で最後に交わした言葉、それは決して絶望などでは無くて、やり遂げた充実感と希望に満ち溢れた言葉だった……。
「もし宜しければ、異世界に旅立つ前に一つだけあなたの希望をおっしゃってみてはいかがでしょうか?」
「希望?でも私に選択肢はないのでしょ?」
「そうかもしれません。でもダメ元ですよ。もしかしたら、異世界転生を司る神様か宇宙人の様な存在が、何処かでこれを聞いて特別に貴方の願いをかなえてくれるかも知れないじゃないですか。」
「ダメ元ですか……それも良いかもしれないですね。」
「そう。ダメ元ですから何を願おうが貴方の思うがままですよ。」
「それじゃあ…そうね……。じゃぁ、私もあの子が行った世界ヘいってみたい。あの子にもう一度笑顔を取り戻させてくれた世界ですから。きっと、とっても素晴らしい世界に決まっています。」
「…………。」
「……。」
遠ざかる意識の中で、彼女はその記憶を徐々に失っていった。何故だかとても大切な事があった様なそんな朧げな記憶さえも今は満ち足りた感情の中へと埋もれていく。
誰かの愛情に包まれるなんて、いったいいつ以来のことだろうか。でも、彼女はそんなことすらいつの間にかどうでも良くなってしまって、今はただ安心してゆっくりと深い眠りにつく。
温かい母親の胸に抱かれて安らかに眠る赤ん坊は、辛かった過去の記憶さえも忘れてそのまっさらな記憶と無垢な心にこれから何を刻むのだろうか……。
これは、ある親子の物語。そして二度と交わることのない二つの人生のプロローグ。
◆◇◆◇◆◇
その日……朝起きると母親が台所で倒れていた。
やかんが火にかけられたままの台所には、いつものように二人分の朝食が用意されている。息子は突然の出来事に早まる鼓動を抑えつつも、取り敢えずやかんの火を消した。
しかし、その後……。
何をどうしたら良いのか分らない息子は、結果として奇異な行動を取ってしまう。
何と、彼の弱い心が、全てを無かったことにしてしまったのだ。
そして倒れている母親を横目に、彼は用意されていた味噌汁と目玉焼きにすら手を付けることなく、何も見ていなかったかのように食器棚に置いてあった菓子パンと牛乳を持って、そのまま自分の部屋へと戻ってしまったのである。
カーテンを締め切った真っ暗な部屋で心の動揺を否定しながらも、息子は耐えきれずにパソコンの電源を入れ検索サイトを開いた。
死体 処理 連絡
もちろんそこには警察や救急に連絡する方法が掲載されている。しかしながら彼にはどうしてもその方法を取ることが出来ない。息子は、もう十数年も自分の家から出たことのない、いわゆる引きこもりである。そして彼は母親意外の人間と話すことがどうしても恐ろしくてならないのだ。
息子は検索を諦め、逃避するかのようにいつものようにゲームの電源を入れた。
いつしか時刻は昼になり、息子はトイレから部屋に戻る途中に恐る恐るもう一度台所に視線を向けた。しかし母親の様子は何も変わりはしない。
息子は目を背けるように台所から離れ自分の部屋のドアを開ける。
そしてその瞬間。唐突に玄関のチャイムがなった。
ピンポン ピンポン ピンポン
チャイムは家の中に息子がいるのを知っているかのようになかなか鳴り止まない。そしてしばらくすると今度は誰かがドアを叩く音がなり始めた。
――母が倒れていることがバレてしまう……
息子は、怯える様にベットの布団にくるまりながら「早く帰れ、早く帰れ…」そう心の中でつぶやいた。
「すみませ〜ん、佐藤さん。佐藤竜馬さん。」
男が大きな声で息子の名前をくり返し呼んでいる。
「佐藤さん、佐藤竜馬さん。」
――駄目だ、そんなに大きな声を出しちゃ。早く諦めてくれ。息子は心の中で叫ぶ。
男の声はどのくらい続いたのだろうか、息子にはとても長い時間に感じられたが、実際にはそれ程の時間は経っていない。
急に男の声が止んだ。
息子が「帰ったか…」と安堵した次の瞬間。
「佐藤竜馬さん。いらっしゃるんでしょう。まことに恐縮ですが勝手に鍵を開けさせてもらいますよ。」
驚くべき事に、男はそう言った。
玄関の鍵が開けられる音が聞こえて家の中に誰かが入ってくる。倒れていた母親の姿は見られただろうか……。玄関の横は台所だ。当然母親の姿を見られたに違いない。しかし不思議なことに足音は母親の前で立ち止まることなく息子の部屋に真っ直ぐ近付いて来る。
部屋のドアが開き、パチンと照明のスイッチを入れる音が聞こえた。
「いけませんなぁ〜昼間から明かりもつけずにカーテンを締め切って。ほら、布団の中に隠れていらっしゃる。」
そう言われて男に布団を剥ぎ取られた息子はベットにうずくまりながら、恐る恐る男の姿を確認した。
息子が薄っすらと目を開けるとスーツを着た営業マン風の男が真っ直ぐ息子のことを見ている。そしてその瞬間、不覚にも息子は男とバッチリと目を合わせてしまった。
「はぁ〜、やっとこちらを見ていただけました。佐藤竜馬さんでいらっっしゃいますね。わたくしこう言う者でございます。」
呆れる様なため息のあと。男の胸の内ポケットから取り出された名刺がベットの上の息子に差し出される。
異世界転生コーディネーター 伊勢 涼太
名刺にはそう書かれている。
「い、異世界転生コーディネーター?」
息子はそう言うと、恐る恐る顔を上げた。
「はい、異世界転生コーディネーターの伊勢涼太と申します。あなたの異世界転生のお手伝いにやってまいりました。ただし、今回は急なことでしたのでこのような形の訪問になってしまい誠に申し訳ございません。」
「な、なんですか、異世界転生コーディネーターって。それに勝手に家の中まで入ってくるなんて…」
「重ね重ね申し訳ございません。本来ならばもっと自然な形でお会い出来るはずだったのですが……。お母様との契約で、お母様の死後1時間以内に必ず訪ねて欲しいとのご要望でしたので。」
息子もこの男がまともな人間で無いことは分かっていた。勝手に家に入ってくることも、母親の死体を見ても平気でいることも、そして異世界転生コーディネーターという名刺も……。何もかも全てが普通では無い。
この男を相手にしてはいけない……そんな事は充分に理解していた。
しかし、息子は堪らず言い返してしまった。
「ちょ、ちょっと……。それじゃぁなんで朝に来なかったんだよ。」
「いや、私と致しましても本日のことは予定外でして…朝、お母様は生きてらっしゃったんですよ。亡くなったのはつい先ほど、20分前ぐらいでしょうか。」
「で、でたらめなことを……。」
「ちゃんと調べました?調べてないでしょう。いや〜しかし竜馬様もなかなか筋金入りですねぇ。倒れていたお母様を放置されるとは、私もそこまでは予想出来ませんでしたよ。え〜と本来ならば、お母様が亡くなるのは…3年後ですね。」
思わず痛いところを突かれた息子は思わず押し黙る。一方でつらつらとよく話すこの男は、手元の資料を確認しながら話しをしている。はたしてそこにはいったい何が書いてあるというのだろうか。
「では、今から竜馬様が異世界転生するにあたりまして、契約内容の確認と、まずは竜馬様が望む異世界がどんなものなのか、と言ったところから聞いていきたいと思います…よろしいですか?」
怪しいと思いながらも思わず乗せられて会話を始めてしまった息子に、目の前の男はまたしても意味の分からない言葉を投げかける。しかしその柔らかい物腰とは裏腹に、男にはどことなく有無を言わせない凄みのような物があり、そして残念ながら息子は、それに抗うだけの経験と勇気を持ち合わせてはいなかった。
「ですが、その前に。リビングに案内していただいてもよろしいですか?ここではアレですんで。」
さて、彼の部屋は10年以上母親さえ入ったことのない、足のふみ場もないほどの汚部屋であった。男に言われて抗うことすら出来無い息子はただ男の言葉に従うしかない。リビングに向かう途中には、例の台所を横切るのだが……。やはり自称異世界コーディネーターの男は、母親の死体を一切気に留めなかった。
そして、男はリビングのテーブルの上に丁寧に資料を並べると、まるで保険のセールスマンのように異世界転生の説明を始めた。
「こちらが、以前お母様と交わした契約書になっております。選べるパック10《テン》のご契約ですので、お客様がお好きなシチュエーションを最大10個まで選択することができます。しかし…ちょっとその前に、ご本人の確認と転生の意思の確認。これだけさせて頂く決まりになっておりまして。」
そんな男の口から次々と繰り出される異常な言葉を息子は勢いにおされ、ただ黙ったまま享受していた。
「まずは、お名前は佐藤竜馬様でよろしいですね。35歳。母子家庭ながら大学院を卒業されるも就職活動で挫折。それから約10年間引きこもりでいらっしゃる。よろしいですか?」
「は、はい」
「お優しいお母様でいらしたんですね。女で一つで大学院まで…さぞやご自慢の息子さんだったんでしょうな。しかもその後、引きこもりになられてからも諦めず竜馬様の世話をしっかりと見ていらして…ちなみにお母様のご病気の事は?」
「いえ、聞いていません。」
「心配をかけたくなかったんでしょうなぁ。以前一週間程家をお空けになったことがあったでしょ。その時に手術をされたそうなんですが、完治されなかったそうです。お母様はそのご病気がきっかけで私どもの営業所にお出でになられたんですよ。」
息子にとってそれはいちいちが耳障りな言葉だった。病気のことはうすうす気が付いてはいたが、母親の病気がここまで酷くなっていた事を自分が聞かされていなかったのが腹立たしかった。しかし…なによりも自分が引きこもりになったのは過度な期待をかけた母親の責任なのだ……目の前の男はそんな現実を無視して母親の気持ちばかりを尊重していることに苛立ちを覚えた。
「あらためて聞くと耳が痛いでしょう?まぁ形式的なものなんでお気になさらずに。これを行わないことには異世界の扉が開かないのです。ですのでもう少しだけ我慢してくださいね。これで終わりますから。」
そして男は一枚の書類を出してきた。
「さて今の本人確認をふまえて、佐藤竜馬さまに異世界転生の意思がお有りであればこの書類にサインをお願いします。サインをした瞬間に異世界の扉は開かれます。しかし現世に残りお母様の死を受け止めた上で新たな一歩を踏み出す。それもあなたにとっては異世界転生かも知れません。」
息子の目の前には、金色に輝く用紙と七色に光る羽根ペンがプカプカと浮かんでいた。
「さぁ、サインをされますか?」
ペンと用紙を見た、息子の顔色が急に変わっていく。この宙に浮くペンと用紙はどう見てもこの世のものとは思えない。
「コレは、異世界のものだ。異世界転生は本当にあったのだ。」
その顔からは先ほどまでの怯えた表情が消え、急に自信に溢れたものへと変わっていく。息子は心の底から震えていた。
「当然サインをするに決まっている。こんな馬鹿ばかしいクズのような世の中に何の未練があるか。」
息まく息子は七色に輝くペンを手にすると、金色の紙に勢いよく名前を書き込んだ。
佐藤 竜馬
そして、彼が用紙を目の前の男に差し出したその途端、金色の紙に書かれた七色の文字が突然光り始める。文字は空中へと浮かび上がり今まで見たこともない文字へと変わっていった。3行4行と次々に空中へ書き込まれていく文字は次第に炎へと姿を変えて、空中を燃やしていく。
そして燃え尽きた先には、真っ白な美しい草原が広がっていた。
「おめでとうございます。これが異世界への扉です。この先の世界はまだ真っ白なままでございます。そしてその世界に色を付けて行くのは佐藤竜馬様あなたでございます。」
やった…
感無量の息子に、目の前の男が改めて自己紹介をした。
「どうも、私は異世界転生コーディネーターの伊勢涼太と申します。これから竜馬様が転生する異世界を貴方と共にコーディネートさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。」
「今回はですね、お母様から『異世界転生選べるパック10』の申し込みを頂いておりますので、そちらの範囲内でのご提案となります。ただし、そのうちの4ポイントはお母様が事前に選択なされていますので竜馬様が選べるのは6ポイント分となっています。」
異世界転生の夢を叶えた佐藤竜馬の態度は見る間に横柄なものへと変わっていった。小説やアニメなどで憧れた異世界へ渡った主人公達には尊大な態度をとる者も多くいる。
彼はそれに自分をかさねたのかもしれない。
「なんだよ、10個選べないのか〜まあいいや、まず俺は、チートがいいんだよね。チート。最初からすごいやつ。」
佐藤竜馬は、テーブルの上のカタログを手に取ってパラパラとめくる。すると、徐々に彼の目が輝き始める。
「あ、この成長チートっての知ってるわ、これどんどん強くなるからいいんだよね。あとこれ、アーティファクト。現世からスマホとか持っていってさぁ、異世界で薬とか作って感謝されるやつ。」
彼の夢はどんどんと膨らんで行くようだった。しばらくは黙って見ていたコーディネーターだったが、彼の豹変ぶりを見かねて、水を差すように話し始めた。
「お楽しみの所、恐縮なのですが、目に付きやすいスキルばかりではなく、もう少しじっくりと異世界生活とこれからの人生のビジョンを決めませんと。」
男の忠告に、あからさまに嫌そうな表情を見せる佐藤竜馬。コーディネーターの意見は無視して彼はスキルの欄に夢中である。
「大抵の方は最初に旅の仲間を選択いたします。異世界の水先案内人が最初に登場するシチュエーションです。男女選択をなさいますと1ポイントプラスですが…」
「うるさいな〜チートがあれば異世界なんか大丈夫っしょ。スマホとか使ってさぁ。」
彼は明らかにイライラしていた。彼の場合は自分の意見を否定されることを極端に嫌う。だから引きこもりになったと男は母親から聞かされていたのだが…
「では、奴隷なんかはいかがでしょうか。1ポイントでいけますよ。」
せめて何か生活に役立つオプションをつけなければ…彼には異世界を共に歩む仲間が必要なはずなのだ。そしてこれなら彼も心を動かすのではないかと、コーディネーターが絞り出したプランであった。
「奴隷?」
「奴隷の少女を買取り人間同様に普通の生活をさせるだけで感謝され好意を持たれます。ご存知でしょ。今はけっこう流行ってるみたいで皆さん選択されますよ。」
「あぁ、知ってるよ。よく耳のある女の子とかが出てくるやつでしょ。それもいいなぁつけようかな…」
「どうですか、まとまりますか?」
本来ならば、客の理想の異世界生活を聞き出した後に、それに合ったプランをいくつか用意していくのがコーディネーターの仕事なのだが…
「大丈夫、決めました。まずは成長チート。そしてスマホ。で最後が奴隷の女の子。これで6ポイント、完璧でしょ。」
「申し訳ございません。それでは1ポイント足りません。」
「え?なんでだよ。6ポイントじゃん。ほらここに描いてあるでしょ。」
カタログの数字をバンバン叩きながら腹立たしそうに訴える。
「えっとですね、そのスマホなんですが、竜馬様はスマホをお持ちにならないためこちらで用意すると1ポイント追加となってしまいますので。」
「えぇ、台所に母さんのスマホが有ったでしょ。ピンクで気に入らないけどアレにするから。」
「いえ、異世界に持っていける物は本人の私物のみとなっっておりまして」
「えぇ〜なんだよ。母さんはいったい4ポイントも何に使ったんだ。教えてくれよ、いらないのだったら外すから」
使われた4ポイントの使い道は母親から息子には伝え無いようにときつく言われていた。しかしこんな様子では彼が異世界で上手くやっていける気がしない。もしかしたら彼の為に母親が選択したオプションが本当に発動してしまうかもしれない…
いや、もしかして、それが母親の目的だったのだろうか…コーディネーターの男は母親と契約を交わした時の事を思い出した。「私は息子を信じていますから」そう彼女は、何回も言っていた。ならば彼に任せよう。母親の言うように私も彼を信じてみよう。
「わかったよ、奴隷はなしにする。」
吐き捨てるように言った息子の言葉。
そして、コーディネーターはその言葉を否定することは無かった。もしこれが、母親の信じるということならば彼にすべてを任せることがおそらくは正解なのだ。
今回の仕事は、今までの仕事とは何もかもが違っっていた。このまま彼が異世界へ渡っても上手くいくはずが無いことは分かりきっている。しかし、あえてコーディネーターはその迷いを断ち切った。
そして、コーディネーターはもう後戻りの出来ない最終決定の言葉を息子に告げた。
「それでは最終の確認いたします……。」
結局、オプションは、彼の意思通り成長チートとアーティファクトのスマホに決まった。
「まず異世界に旅立たれる前に、注意点を申し上げます。これは貴方にとって大切なことですので肝に命じておいてください。」
そうコーディネーターから告げられた時も、息子はこれから始まる異世界生活に彼は浮かれていた。もしかしたら新しいゲームを始めるような、そんな感覚でいたのかもしれない。
「まず、あちらの世界ではいくらチートの能力があったとしても、まず生きるために働かなくてはなりません。とりあえず冒険者ギルドなどに登録されるのがよろしいと思います。また、宿などの手続きも、食事の手配も、洗濯も、もちろん買い物も最初は全て自ら行ってください。」
しかし…、コーディネーターが淡々と話していくうちに彼の表情には次第に不安の影が見え始め、徐々に先程までの尊大な態度や落ち着きが消えていく。だがそれでいいとコーディネーターは思った。新しい旅の門出はその未来が希望に満ちあふれていたとしても、最初は誰しも不安なものだ。
ところが、息子はコーディネーターの男が予想もつかない事を言い始める。
「す、すいません、母親を。母さんを連れて行くことは出来ますか?」
彼の唇は震え、目は泳ぎはじめていた。
「お言葉ですが。お母様はもう…」
「わ、わかっているよ。だから母さんの死体をあちらの世界に連れて行ってさ、むこうで生き返らす呪文でさ…」
「あの、申し上げにくいのですが…佐藤竜馬様はあちらの世界でもお母様を…こき使う気でいらっしゃるのですか…」
しばらくは押し問答があったが、おそらくは自分でも無茶なことを言っているのはわかっていたのだろう。最後はおとなしく引き下がり、自分に言い聞かせるように納得した。
彼は次第に声を詰まらせ目には涙を浮かばせた。
「か、母さん………うぅ……」
その声は次第に、号泣へと変わっていった。
彼は新しい旅を前にして母親の死を実感したのかもしれない。そして、ひとしきり泣いた後に彼は一人で異世界へと渡っていった。
最後に彼は「すみません、これから母の遺体はどうなるのでしょうか?」とコーディネーターの男に質問した。
コーディネーターは首を横に振るだけで、声に出しては何も言わなかった。
◆◇◆◇◆◇
異世界に渡っていった彼のその後は、結局のところ彼の母親の思った通りの結末を迎えた。
強力な彼のチート能力はほとんど発揮されぬまま、その能力を誰にも知られることなく彼はひっそりと死んでいった。ただ、なかなかうまくはいかなかったものの、自ら仕事を探しなんとか異世界で5年を生き抜いた。
そして、彼の死後、母親のかけた異世界オプションが作動した。
異世界で死ぬと元いた世界に戻るオプション…使用ポイント4。
◆◇◆◇◆◇
息子は、朝に目が覚めると台所に向かった。台所には母親が立っている。やかんは火にかけられ、食卓には味噌汁と目玉焼きが用意されていた。
「あら、竜馬。こんなに早く珍しいわね。」
昔見た母親の優しい笑顔がそこにあった。
「いろんな事があってさ、それで、おれ母さんに謝らなきゃと思って。」
母親は何も答えない。だが息子はそれでも構わなかった。
彼は、たった一言。それを伝える事が出来ただけで満足であった。
「ごめんね、かあさん。」
母親は何時までも笑っていた。
ふと気がつくと、西日が台所に差していた。
「大丈夫よ、あなたならきっとわかってくれるって信じていたから。だから頑張ってね。」
最後に、そう母親が言っていたような気がした。
目の前にはまだ母親が倒れている。佐藤竜馬はテーブルに残されたままの冷たくなった母親の最後の料理をゆっくりと味わいながら食べた。
「ごちそうさま。母さん。」
夕日の差し込む台所に彼の声だけが響いた。
そして、食事を終えた息子は、意を決した様に立ち上がると、台所で母親が死んでいる事を警察に電話で知らせた。
母親の最後の言葉を胸に、彼はいま始まったばかりの人生を歩み始める。おそらく彼はもう二度と異世界転生の夢を見る事はないだろう。人生に遅すぎると言う事は無い。異世界に限らずやり直しなどいつでも………。
◆◇◆◇◆◇
人の魂は死んだ後、どこに行くのだろうか…
天国…地獄…異世界…
無…
良子は死後、不思議な体験をした…
彼女はほんのひと時、異世界から戻って来た息子と会うことが出来た…
しかし、それも束の間のこと…彼女の魂はその場所に留まることを許されず、思い出の詰まったキッチンも人生の全てだった息子も淡い光の中に消えて行く。
そしていつの間にかそこは、全ての物が実体を持たない真っ白な世界。
彼女はこれが死なのか…と、そう思ったが、この真っ白な世界を以前どこかで見たような気がした。それは確か…伊勢の事務所で異世界を初めて見せてもらった時。
ふと気がつくと、彼女の隣には伊勢の意識があった。
「良いものを見させて頂きました…」
真っ白な世界の中で伊勢は彼女にそう言った。もちろん自分達二人に実体などは無い。ここは意識だけが存在出来る世界。
「すみません。せっかく時間を頂いたのに…私、何も話すことができなくて…。」
「いやいや、部屋の外から拝見していましたが、息子さんお変わりになられましたね。」
「えぇ。あの子、私を見て笑ってくれたんですよ。あの子の笑顔なんかもう何年ぶりかしら。私それを見たらもう涙を堪えるのに必死で…笑顔を作ることしか出来なくて…」
「我慢される必要は無かったのでは?」
「いえ、たぶん私も笑って無かったんだと思います。この十年間…二人揃って浮かない顔をして生きていたんだと思います。だからせめて…竜馬には最後の私の顔を…笑顔のままで…」
「……。」
「あの……少し聴いてもらってもいいですか?」
「ええ、よろしいですよ。」
「竜馬がね……昔した約束を覚えていてくれたんです。最後に……母の日のプレゼントを買ってあげられなくなってごめん……って言ってくれたんです。私、とっくに忘れていると思っていたのに……あんなにふてくされていたのに……本当は竜馬はずっと優しい子のままだったんです。伊勢さん…あなたから見れば竜馬はどうしようもない息子に見えたかも知れません。でも……竜馬は本当に心根の優しい子なんです。」
「ええ。ちゃんとわかりましたよ。先程のお二人の姿を見れば……息子さんのことも、あなたのことも……お二人共、愛で溢れていらっしゃいました。」
「有り難うございます。それを誰かに知っておいてほしかったんです……。私、最後に竜馬から宝物貰うことが出来ました。これで私も安心して死んで行くことが出来ます。伊勢さん。本当にお世話になりました。」
「あの〜そのことなんですが…」
「ここに一枚の契約書がありまして…」
「え?私には何も見えませんけど…。」
「あ、そうでしたね。失礼しました。実はあなた様用に今朝一枚の契約書が届きました。」
「契約書ですか?」
「息子さんとは別にあなた様にも異世界転生の権利が与えられたと言うことです。だからこそあなたはこの場所にいるのですよ。残念ながらオプションは与えられませんでしたがあなた様も新しい世界で人生をやり直すことが出来ます。」
「え?私もですか?それじゃぁあの、私もあなたの事務所で見たような草原や湖のある美しい国に行くことが出来るのですか?」
「さて、あの世界に行けるかどうかは分かりませんが、でも異世界は何処も美しいですよ。差し出がましいかも知れませんが……今度はあなたご自身の為に人生を歩んでみてはいかがでしょう?」
「そうね。それもいいかも知れない。」
「では、この書類にサインをお願いします。あの、それと最後に一つだけ希望をおっしゃってみてはいかがでしょうか?」
「希望?でもオプションは無いのでは?」
「もしかしたら、異世界転生を司る神様か宇宙人かは分かりませんが、そんな存在がいて、何処かでそれを聞いて特別に願いをかなえてくれるかも知れないじゃないですか。ダメ元ですよ。」
「ダメ元ですか。それも良いですね。それじゃあ……そうね……。」
「何を希望なさいますか?」
「それでは、私も竜馬が行った世界ヘいってみたい。竜馬に笑顔を取り戻させてくれた世界ですから。きっと素晴らしい世界に決まっています。」
母が選んだ異世界プラン END
「願わくば、これからの二人の人生に幸あらんことを。そして神の祝福を。」