07.交渉結果は、契約という名の呪い?
殺気を消したということは、完全に信じていなくとも少なくともクラウスがアデラインの価値を認めてくれた、ということだ。
(ゲームのクラウスは、幼い第二王子を誘拐してまでアレを手に入れようとしていた。誘拐なんかしなくても、王家の血を引くわたくしが協力すれば手間が少ない。彼等の中でわたくしの価値は上がったはずだわ)
現国王の兄弟は若くして流行り病で亡くなっており、直系の王族の人数は現国王と二人の息子のみ。
傍系では、前国王の妹王女の血筋、現ベルサリオ公爵とアデラインだけだ。
少なくとも、クラウスが求めるモノを手に入れるまでは危害を加えられないだろうと、アデラインは内心安堵の息を吐いた。
「なるほど」
一歩足を前に動かしたクラウスとの距離が近くなり、アデラインの上に影が落ちる。
近すぎる距離に驚き、顔を上げると赤色の瞳と視線がぶつかった。
「……護衛が必要な理由は分かった。それで、誰の素行調査をご希望なんだ?」
赤色の瞳を見詰めているうちに、恐怖とは違う不思議な感情が湧き上がりアデラインは胸元に手を当てた。
「わたくしの婚約者である王太子殿下と、殿下と恋仲になっている異世界人、そして取り巻き達の素行調査をお願いします」
「王太子の素行調査をしてどうするつもりだ? 異世界人の恋人と別れさせるつもりか」
「いいえ。真実の愛でお二人は結ばれているらしいので、別れさせるなど可哀想ですよ。何が起ころうとも、このまま添い遂げてくださればいいと思います。あの色ボケ、いえ、殿下に嫁ぐなら独身を貫きます」
政略上必要な結婚だとしても、形だけで冷遇される王妃なんて、ヒロイン至上主義な考えに染まっている王太子と夫婦になるなんて、絶対に嫌だ。
「ただ、殿下はどうしても穏便な婚約解消ではなく、わたくしに非があるとした婚約破棄をしたいようで、学園内外でわたくしの悪行を捏造しているようです。どうやら義弟も殿下に協力していて、専属メイドと執事までわたくしを裏切っていたのだと、今朝知りました」
目蓋を伏せたアデラインは鞄の中へ手を入れて、自室から持って来た小瓶と鎖が切れたネックレスを取り出した。
「恋人に夢中になり、公務と生徒会の仕事を疎かにしていても殿下を庇い続けていたのに、わたくしを陥れて婚約を破棄しようとするなんて、あの色ボケ王子っ!」
感情が昂ぶり、指で弄っていたネックレスを強く握れば鎖がシャリシャリ音を立て、手の中で瓶の中に入っている赤紫色の液体が揺れる。
「今まで殿下を支えるのは婚約者の義務だと、異世界人との関係は一時的なものだと信じていました。ですが、魔力回路を乱すよう細工されて、精神に影響する毒まで使用されていたのを知り、恐怖と怒りも沸き上がったけれどそれ以上に気持ちが悪い。王太子としての義務を全うしない殿下も、異世界人を聖女として崇めている彼等も気持ち悪くて、無理になったの」
感情を排除して話そうとしていたのに、一年近くもの間我慢していた“今までのアデライン”の感情が高まっていき、ネックレスと小瓶を持つ手に力が入る。
「異世界からの迷い人の話は聞いたことがある。珍しい黒髪黒目で聖属性の魔力を持ち、神殿から聖女候補だとみなされているとな。その聖女候補に王太子を始めとする男達が夢中になっているのか」
震える手にクラウスの指先が触れ、驚いたアデラインはビクリと肩を揺らした。
「公女様、これは俺が貰ってもいいか」
「か、かまいませんが、何に使うのですか?」
「使い道を思い付いたら教える。これは、なかなか面白そうだな」
受け取った小瓶を指で摘み、光に透かし見たクラウスは不敵に笑ってから、ゆっくり背後を振り返った。
「公女様の依頼を引き受けよう」
「「えっ」」
それまで、気配を薄くしてやり取りを静観していたディオンとルベルトは、同時に驚きの声を上げた。
「しかし、依頼枠は全て埋まっています。今すぐ動ける者はいません」
「何とかしろ。人員確保と割り振りをするのがお前の役割だろう」
「……はい」
横暴な命令を受けたルベルトは、目蓋を閉じてこめかみに手を当てた。
依頼を引き受けて貰えたことに安堵し、動こうとしたアデラインの両足から力が抜けていく。
「あれ、足が……」
ふらついて伸ばした手をクラウスが掴み、支えられて何とか転倒するのは免れた。
「あ、ありがとうござい、きゃああ!」
支えてくれたクラウスへお礼の言葉を言い終わる前に、背中と腰に回された彼の腕がアデラインを抱き上げた。
「お、下ろしてくださいっ」
一気に高くなった視界と近くなったクラウスとの距離に、互いの体温を感じられるくらい密着していること、彼がアデラインを横抱きにしていることに気が付いた。
(お姫様抱っこぉー!? 金狼のマスターって血も涙もない鬼畜設定じゃなかった? それともわたくしが依頼者だから? それにこの人、ずっと思っていたけど、この人は近くにいられたら駄目なやつだわ。色気が有り過ぎて仕草一つとっても心臓に悪いっ)
異性に触れられた経験はほとんど無いアデラインは、クラウスの釦を外して開けた胸元から覗く逞しい胸筋を直視してしまい、羞恥のあまり全身を真っ赤に染めた。
「契約書にサインを書いてもらう。書けるか?」
「は、はいっ」
耳元へ唇を近付けて問われると、クラウスを異性として意識するつもりは全く無くても、耳と頬にかかる吐息がくすぐったくて上擦った声がアデラインの口から出る。
「おい」
泣きそうになっているアデラインを抱えて歩き出したクラウスは、ポカンと口を開けて呆けているディオンとルベルトを睨んだ。
「契約書だ」
一喝され我に返ったルベルトは、ビクリッと体を揺らす。
「はっ! すぐに、用意します」
魔力を集中させた指先で宙に幾何学模様を描くと模様は魔法陣を形作っていく。
直系三十センチほどの魔法陣の中央から、バインダーに挟まった契約書とペンが出現した。
「あれは、具現化魔法ですか?」
「いや。取り出しただけだ」
短く答えたクラウスは、アデラインを抱えたまま隣接する部屋まで歩き、二人掛けのソファーへ彼女を下ろした。
「ありがとう、ございます」
纏う雰囲気は冷たいものなのに、アデラインを抱き抱えてソファーへ下ろす時は、壊れ物を扱うように優しい。
(この人、金狼のマスターという設定以外では、本当はどんな人なのかな?)
心を読まれないように、隙を見せてはいけないと構えていたのに戸惑いを抑えきれず、アデラインは向かいのソファーに座ったクラウスを見詰めた。
「公女様、こちらの契約書の内容を一読し、納得されましたらサインをしてください」
「わかりました」
まだ動揺から抜け切れていないらしく、疲れた表情をしているルベルトからバインダーとペンを受け取り、バインダーに挟まっている契約書の内容を確認して気が付いた。
(これ、文字から強い誓約の力を感じるわ。ギルド側が必要だと判断した場合は、ターゲットを破壊、または殺害することもある。契約を結んだ後はこの依頼を取り下げることは出来ない。依頼内容を達成した後、または依頼者が死亡、意思の疎通が出来なくなった時のみ依頼を取り下げられる。違反した場合は、即報酬に上乗せした対価を支払ってもらう、か。まるで呪いね)
これだけ強い誓約の力は呪いに近いといえる。
依頼主の気が変わったとしても、契約書にサインをしてしまったら依頼を取り下げられない。
(これは……凄い内容ね。それだけ、金狼に依頼を引き受けさせることが困難なのね。でも、わたくしが破滅を回避するためには彼等の力が必要なのよ。もしかしたら、破滅を回避出来て生き延びることが出来たら、“私”が見たかったシークレットイベントの展開になるかもしれないし)
依頼主が契約を破棄しようとした場合、依頼主の命は保証されない。
金狼に依頼するということは、命を賭ける覚悟が必要ということだ。
(よしっ)
契約書の下部にアデラインがサインし終わり、手にしているペンの動きを止めると文字が金色に発光し始める。
ペンのインクに含まれる魔力によって、契約書にアデラインの名前が定着したのだ。
「これは……」
「サインは書けましたね。マスター、どうぞ」
アデラインからバインダーを受け取ったルベルトは、足を組んで座っていたクラウスへバインダーとペンを渡した。
バインダーを受け取ったクラウスはアデラインが書いたサインに手をかざすと、契約書に書かれている文字が金色に輝き出す。
「クラウス……の名にかけて……引き受けよう」
クラウスが契約書にサインを書き終え、契約を受け入れたことを告げる。
その次の瞬間、契約書から放たれた光は粒子となり、次々にクラウスの手のひらの中へ吸い込まれていった。
契約成立しました。
アデラインの口調が途中で砕けているのは、“私”の意識が前面に出たためです。