06.捨て身の交渉開始
竦みそうになる心を奮い立たせて、笑顔を作ったアデラインはマスターへ会釈する。
「はい。わたくしはアデライン・ベルサリオと申します」
「アデライン……確かにベルサリオ公爵の長女と同じ名前ですね。名前と顔は一致しています」
手の中に出現させた分厚い手帳を開き、数ページ捲った青銅色の髪の青年はマスターの隣へ移動して、手帳の該当ページを見せる。
「本物の公女か。俺は公女様が会いたがっていた此処のマスターだ。それで、俺に会ってどうするつもりだ?」
「貴方に依頼したいことがあります。ですがその前に、マスターさんのお名前を教えてくれますか?」
真っすぐに自分の目を見て言うアデラインに、マスターの片眉が器用に上がる。
「俺の名前を聞いてどうする」
「わたくしは名乗りました。ですが、こちらにいらっしゃる方達は、誰一人名乗ってくれません。依頼主に対して名乗らないのは失礼でしょう」
長年受けた王子妃教育の賜物で、表情を隠して冷静なのを装っていても実のところ、闇ギルドに一人で乗り込むのは怖くて堪らなかった。
恐怖を誤魔化すのに必死だったのと、“私”の記憶を探れば此処で出会った彼等の名前は分かったため、特に問わなかったのだが。
「なにをっ」
「止めろ」
動こうとした銀縁眼鏡の青年へ、マスターは手を広げて制止する。
「はっ、一人で乗り込んで来た上に、俺に名乗れと言うのか。なかなか肝が据わった公女様だ」
クツクツと心底愉しそうに笑い、歩き出したマスターはアデラインの側まで来ると、自分の胸元を人差し指で突いた。
頭一つ分以上、アデラインよりも背の高い長身のマスターとの距離は、歩幅一歩分しかない。
近くなる距離と、強い眼光が宿る鮮血色の瞳に見詰められるだけで、体が震え出しそうだった。
怯える心を見透かされないよう、アデラインは顔を動かしてマスターと視線を合わせた。
「……俺の名は、クラウスだ。この頭の固い眼鏡はルベルト。公女様を案内してきたのはディオンという名前だ」
「え、マスターが自分で紹介しているなんて、おっと」
クラウスに睨まれて口を噤んだディオンは、珍妙なモノを見るような目でアデラインの方を見た。
「それで、公女様が俺に依頼したいこととは何だ?」
「ご紹介ありがとうございます。依頼したいことは……わたくしの護衛と、ある方々の素行調査をしてもらいたいのです」
「護衛? 公女様には公爵家の優秀な護衛が付いているだろう?」
怪訝そうに眉を寄せて、クラウスは問い返す。
「へー、公女様の護衛と調査ねぇ。面白そうだな」
「ディオン、黙っていろ」
「すみませーん」
またもやクラウスに睨まれたディオンはヘラリと笑った後、もう喋らないという意思表示のつもりなのか口元を手で覆う。
「公女様は此処まで一人で来たと言っていたな。ベルサリオ公爵の祖母は王族だろう。お前の父親は、娘を守る護衛を一人もつけていないのか?」
「わたくしには専属の護衛はおりません。いえ、護衛はいることにはいますが、わたくしが彼等を信用しきれないのです」
幼い頃から仕えてくれていた護衛達は、この数か月間で何故か手のひらを返すようにアデラインから離れていき、エリックを優先するようになった。
時間を逆行する前、王太子に捕らえられたアデラインの身を案ずるどころか、長年仕えていた主へ侮蔑の目を向けていたのだ。
王太子とエリックの命令で動かなかったのかもしれないが、信じていた者達に裏切られた時の絶望感は、思い出すだけで胸の奥がツキリと痛む。
「貴方が何処まで、ベルサリオ公爵家についてご存じか分かりませんが、現当主の実子のわたくしよりも次期当主とみなされている義弟の方が優遇されているのです。わたくしには信用できる者は……気が付いたら全員解雇されていました。わたくしを裏切らない、信用できる者が必要なのです」
「公女様は金狼が何なのか知っているのだろう。知っているのなら、俺達が信用できるとでも思っているのか?」
「それは」
報酬によっては、汚いことも引き受ける闇ギルドメンバーは信用できるのかと、数秒間考えて……アデラインは口を開いた。
「信用できるわ。引き受けた依頼の報酬分は確実に遂行する。それが金狼でしょう?」
裏切られる可能性もある相手よりも、報酬を渡して動いてくれる相手の方が分かりやすく、信用できた。
信頼関係を築いたと思っていた相手、義弟や執事までも簡単に離れて行ったのはゲームの強制力だとしたら、目に見えない絆など強制力の前には勝てないのだろうから。
「フッ、その通りだ。だが、依頼を引き受けるかどうかは報酬しだいになる。公女様の護衛となると、それなりの力を持つ者が必要だろう。急な依頼になると、今取りかかっている依頼を至急終わらせなければならない。そのために高価な魔道具を使用するため、とにかく莫大な金が必要になる。味方が少ないと嘆く公女様に、公爵家の金を動かせるのか?」
闇ギルド金狼の構成員は、実力者揃いで引き受けた依頼の達成率は他のギルドに比べて高いが、法外の依頼料を払わないと引き受けてもらえない。だが、彼等の求める通りの依頼料を渡せば、確実に金狼は味方になってくれる。
(金狼の依頼料は、わたくしの一存で動かせる金額で支払えるか分からないほどの、とんでもない金額だってことは分かっている。でも、破滅回避のためには、ゲームをやり込んでいた“私”の知識を活用してクラウスと交渉するしかない! さあ、どうする? どう言えば、彼は動いてくれる?)
暫時、目蓋を伏せて思案したアデラインはゆっくりと顔を上げた。
「依頼料については、わたくしが動かせる金額でしたら用意します。それでも足りない分は、貴方が長年探しているモノを手に入れる機会を得る、というものでどうでしょうか?」
緊張で冷たくなっていた手をゆっくり開閉させて、アデラインはクラウスの顔を見上げた。
発せられる圧力に屈することもせず、真っすぐ自分を見下ろすクラウスの赤い瞳と視線を合わせてアデラインは報酬について提案した。
言い終わるや否やアデラインは寒気を感じて、少し開いていた唇をきつく閉じる。
(くっ、交渉を失敗した?)
すぐ側に立っているクラウスの周囲が歪み、彼から発せられた冷気によって室内の空気が凍り付いていく。
「……俺が長年探しているモノか」
低音の声がさらに低くなり、口角を上げたクラウスの喉がクツリと鳴る。
「それが何なのか、公女様は知っていると言うのか」
赤い目に暗い光を宿したクラウスから発せられている圧力が、殺気だと理解したアデラインの体は緊張と強張り恐怖で口腔内が乾いていく。
「推測でしかありませんが、貴方が探しているモノは……古の帝国が神の力と崇めていたモノの欠片、でしょう」
動かしにくくなった舌を動かし、どうにか平静を装った声を発した。
「何故、そうだと思った?」
「貴方達が今まで活動拠点としてきた国と、関わったと言われている戦争の情報を調べて、わたくしなりに推測してみました。数年前から、貴方達が暗躍した国や組織の多くは主君が代わり、必ずあるモノが失われていた」
国王が代わったのは公になっていても、彼等、クラウスが探し求めているモノが失われたという情報は、国家機密のためアデラインが調べても知ることはできない。
もちろんこれは、ゲームの公式サイトだけでなく有料ファンボックスにも登録して情報を得ていた“私”の記憶からだった。
「それを、お前が持っていると?」
ようやく殺気を抑えたクラウスに問われ、アデラインは首を横に振った。
「いいえ。わたくしは持っていません。ですが、何処にあるのかは分かります」
「ほう、ソレは何処にあるんだ?」
「王家が所有し、宝物庫のさらに奥で厳重な結界に囲まれて保管されています。複雑な結界ですから、マスターの貴方でも解くのは難しいでしょう。さらに、王家所有の欠片は王家の血筋の者しか触れられません。直系以外の傍系で結界を解けるのは、ベルサリオ公爵家の者、くらいです」
強気にアデラインが言い切れば、針で刺すような痛みを与えられていた殺気は完全に消えた。
ラスボスとの交渉はまだ続きます。