39.望んでいた和解
荒れた室内を片付けていたラザリーは、空間を揺らす魔力の流れを感じ取り手にしていた箒を投げ出した。
パアアアー!
部屋の床に転移魔法陣が描かれていき、魔法陣の中央から案じていたアデラインの姿を見付けたラザリーは胸を撫で下ろす。
「お嬢様、お帰りなさい」
「ラザリー? あれ? クラウスさんは?」
転移魔法陣から発せられる光に包まれる前まで、隣にくっついていたはずのクラウスの姿は見当たらず、アデラインは首を傾げる。
「マスターは、あっ!」
転移魔法陣の光が消えた床から視線を移したラザリーは、アデラインのある部位を凝視して目付きを険しくしていった。
「どうかしたの?」
無言のままアデラインの首に手を近付け、ラザリーは眉間に皺を寄せて眉を吊り上げた。
「お嬢様の首に、マスターが付けた痕が……これは、消せないようにしてありますね」
「く、首にっ!?」
渋面になったラザリーが指摘したのは、隠れ家で何度もクラウスに吸い付かれた首筋。
唇と舌先の生々しい感触が蘇ってきて、赤面するアデラインの全身から汗が吹き出した。
「違うの! クラウスさんを止めるために抱き付いただけで、その後は私から何もしていないわ!」
(はっ!? 私からしていないって、クラウスさんから何かされたって言っているようなものじゃない!?)
羞恥で涙目になったアデラインは、勘違いさせたラザリーにどう説明すればいいのか頭を抱えるのだった。
首に付けられたキスマークは、クラウスの魔力を帯びているらしく回復魔法をかけても消えてくれず、仕方なくスカーフを巻いて隠した。
渋面になったラザリーに消す方法を聞いたが、「魔力によって付けられたマーキングみたいなもの」でクラウス本人か、彼よりも強い魔力の持ち主しか消せないという。
冷酷非情なラスボス様から、一気に激重な存在へと変貌したクラウスのことを考えると頭痛がしてくる。
(クラウスさんがレザードと王太子を潰しに行っていないと信じたいわ……)
姿を消したクラウスがどこで何をしているのか、彼の付けたキスマークを消す方法をどうするかは、後ほど考えることにした。
「では、誰も怪我はしていないのね」
「はい」
廊下を歩きながらアデラインは、レザードが侵入した際の状況報告をラザリーから受けていた。
屋敷全体に張り巡らされていた結界の消失、アデラインの部屋が破壊された以外の被害は無く、幸いにも使用人達に怪我人はいなかった。
消失した結界は金狼所属の魔術師達が迅速に動き、以前よりも強固なものに張り直されたという。
「お嬢様が転移した後、元執事は警備が厳重な地下収容施設へ送られました」
「……そう」
地下収容施設は凶悪犯罪者が収容される場所だ。アデラインの声が少しだけ沈む。
「ディオンとガルバムが取り押さえた元執事は、金狼に所属している錬金術師が作った魔力を封じ、体を拘束出来る特別な枷をはめられていました。もう二度と逃走は出来ないでしょう。元執事が殺めた者は血の気の多い金狼の中でも気のいい方でしたから、彼は牢獄に居た方が安全に過ごせるかもしれません」
「亡くなられた方々を丁重に弔って差し上げなければならないわね」
廊下を歩いてくるアデラインに気付き、扉の前に立っていた父親直属の護衛は頭を下げて横に動いた。
「エリック、入るわよ」
扉越しにかけた言葉に返事は無く、ドアノブに手をかけてアデラインはゆっくりと扉を開いた。
ランプが灯されているとはいえ薄暗く、重たい空気が充満していた。
無言のまま室内を進み、目的の人物を見付けたアデラインは足を止める。
「……義姉様」
ソファーに腰掛けて俯いていたエリックは、アデラインが近づいて来ると顔を上げた。
「僕を笑いに来たのですか?」
疲れ切った表情と暗い瞳をしたエリックの問いに、アデラインは首を横に振る。
「いいえ。エリックのことが心配になって様子を見に来ただけよ」
「心配?」
「ええ。レザードが収容所から脱走して屋敷に侵入したの。この部屋にはお父様の結界が張られているから、外の音に気が付かなかったのね」
「ええ?」
ガタンッ!
大きく目を開いて声を上げたエリックは、勢いよくソファーから立ち上がった。
「ラザリー大丈夫よ。エリックも座りなさい」
動こうとしたラザリーを制止したアデラインは、エリックにソファーに座るよう手で指示する。
「レザードが何故……まさか義姉様に危害を加えようとしたのですか!?」
「すでに護衛によって捕らえられたわ。わたくしのことを心配してくれるの?」
今のエリックからはアデラインへの敵意は感じられず、目元を腫らした彼は仲が良かった頃の“可愛い義弟”に戻っている気がした。
素直にソファーに座ったエリックの様子から、レザードの屋敷への侵入を手引きしたわけではないと分かり、アデラインは安堵の息を吐いた。
「レザードは義姉様に対して良からぬ感情を抱いていました。義姉様を見る目付きが気持ち悪くて、ずっと警戒していたのに……」
声を震わせるエリックの唇は震え、今にも泣き出しそうな表情でアデラインを見上げる。
「僕はどうしてそのことを忘れていたのか。どうしてレザードの提案を受け入れたのか。どうして義姉様を邪魔だと、敵意を抱いていたのか……どれだけ考えても分からないのです」
「貴方はレザードからどんなことを提案されたの?」
「僕が学園に入学して、王太子が義姉様に冷たくしていると憤慨していたら、レザードが近寄って来て……このまま王太子と結婚したら義姉様が不幸になる。だから王太子から婚約破棄させるように仕向けようと言われたんです。王太子がリナに興味を持ち出した頃、僕は二人が仲良くなれるように取り持ちました。良くないことだと分かっていて、どうして僕は義姉様を傷付けることをしたのか……」
両手で頭を抱えたエリックの全身が震え出す。
「ごめんなさい、ごめんなさい! 義姉様!」
謝罪の言葉を口に出したエリックの両目から涙が溢れ出る。
身を屈めたアデラインは涙を流すエリックに手を伸ばし、震える彼の体をそっと抱き締めた。
「ずっと、悩んでいたのね。もっと早くエリックの異変に気付いてあげられたらよかった。わたくしこそ、ごめんね」
「義姉様……」
両親を亡くしベルサリオ公爵家に引き取られ、毎晩部屋で泣いていたエリックを慰めた時を思い出し、アデラインは震える背中を優しく撫でる。
(今のエリックは、やはりわたくしに敵意を向けていたエリックではないわ。エリックがおかしくなったのはゲームの強制力が働いたから? それともレザードが使用した魔石と薬物の影響なの? あら、これは?)
アデラインに縋って泣くエリックの背中と首に、十数本の銀糸が見えた気がして手を伸ばす。
「お嬢様」
アデラインが触れる前に手を伸ばしたラザリーが銀糸に触れると、空気に溶けるように消えていった。
「エリック様に絡みついていた糸は、すでに切れています」
「糸?」
「もう大丈夫ですよ」
縋りつくエリックが居るため、どういうことか問うことが出来ずにアデラインは目を瞬かせた。
ひとしきり泣いた後、落ち着きを取り戻したエリックを護衛に託して、アデラインは部屋を後にした。
廊下を歩き、自室まであと少しというところでアデラインは足を止める。
「ねぇ、ラザリー。さっきの糸って、どういうこと? もしかして、エリックが変になっていたことに関係している?」
エリックの背中に絡み付いていた銀糸は、アデラインが欠席した茶会から戻って来たレザードの肩にも付いていた気がする。
絡み付いていた銀糸が、エリックとレザードに何らかの影響を与えていたとしたら、ゲームの強制力が可視化したのだろうか。
(あの糸がゲームの影響力だったら、どうしてラザリーが触れたら消えたの?)
「あれは……」
言葉を濁して口を閉じたラザリーは視線を逸らす。
「マスターから許可されていないため答えられませんが……金狼がお嬢様と、エリック様を守ります。ですから、今夜はゆっくりとお休みください」
「クラウスさんか。じゃあ仕方ないわね。わかったわ」
組織に関係することはマスターの許可が無ければ話せないと、以前、雑談の中でディオンが話していた。
糸のことは気になるとはいえ、危険を及ぼすものでなければラザリーを困らせてまで知る必要は無いと判断して、アデラインは自室へ向かった。
扉の前でラザリーを下がらせて、自室へ戻ったアデラインはベッドに腰掛ける。
左手人差し指の指輪を撫でて、魔石の中から取り出した紙を両手で持ち、アデラインは書かれている文字を睨んだ。
思い起こすのは、隠れ家でのクラウスとのやり取り。
『これは?』
『追加の報告書だ』
転移魔法で屋敷に戻る前、「思い出した」と言いながらクラウスがアジトから取り寄せたのは、赤字で『機密』と書かれた報告書。
手渡された報告書を読むにつれて、アデラインの手に力が入り眉間に皺が寄っていく。
『俺の独断でお前の父親、ベルサリオ公爵に接触して同じ物を渡しておいた。これが国王に伝われば面白いだろう?』
凶悪な表情になったクラウスは、クツクツと喉を鳴らして嗤う。
『お父様はすぐに動くと言っていましたか?』
『どうするかまでは言っていなかったな。これを知って、アデラインはどうしたい?』
目を細めたクラウスの言動から、望めば彼は全力で報告書に書かれた者達を潰しに動くのだと、アデラインは感じ取った。
『クラウスさん、お願いがあります。もしも……』
アデラインからのお願いを聞き、クラウスは報告書を持つ彼女の手を包み込むように握り、自分の方へ引き寄せる。
『いいだろう。ただし、お願いの報酬は頂く』
『ちょっ、待って。報酬は、明日を乗り越えてから払います!』
首を動かして近付いて来る端正な顔と、甘い吐息を感じてアデラインは自由になる手で唇を覆って防御した。
目蓋を閉じたアデラインは報告書を指輪の魔石へ戻す。
首に巻いていたスカーフを外して、クラウスに何度も吸い付かれた首筋を撫でた。
(報酬って嫌な予感しかしないけど、これは金狼に、クラウスさんに任すしかないわ)
明日のことを考えたいのに、目蓋を閉じるとひたすら甘い雰囲気を放っていたクラウスの笑みが浮かんできて、アデラインの頬に熱が集中する。
熱い両頬に両手のひらを当てて、アデラインは仰向けでベッドに転がった。
義弟と和解しました。




