36.現れたのは、救世主か。それとも……②
振り返ったクラウスは、涙を流すアデラインを見て大きく目を開き、次いで目つきを険しくした。
「アデライン……傷付けられたのか」
床に片膝をついて身を屈めると、眉間にシワを寄せて額とこめかみの傷を確認したクラウスは、アデラインの額に右手のひらを向けた。
フワリッ。
無詠唱で発動した回復魔法のやわらかな黄緑の光がアデラインを包み込み、こめかみの傷と全身の打撲が癒やされていく。
緊張で強張っていた体から力が抜けて、アデラインの両目からとめどなく涙が零れ落ちた。
「こわ、かった」
昨日逮捕され、取り調べを受けていると思っていたレザードが現れた恐怖。
結界の中に閉じ込められ、逃げられないかもしれないという絶望。
お仕置きとやらで心と体を壊されるかもしれない恐怖。
恐怖と嫌悪感で押し潰されそうになっていた時に、助けに来てくれたクラウスのあたたかさに触れて、涙するアデラインの口から嗚咽が漏れた。
「クラウス、さん、ありがとう」
怪我が癒えて動かしやすくなった手で、血と涙で濡れる目元を拭う。
「こうなったのは、俺が執事を軽く見ていたせいだ。監視で置いていた者が、まさか倒されるとは想定していなかった」
目を伏せたクラウスは、コートのポケットからハンカチを取り出して手では拭いきれなかった、アデラインの目元から顎にかけての血を拭う。
「でも、約束通り助けに来てくれたわ」
目蓋を閉じたアデラインは、頬に添えられたクラウスの手のひらの上から自分の手を重ねた。
「お前は」
ガタンッ!
クラウスの声に重なるように、吹き飛ばされて壁に激突したレザードが衝撃で落下した絵画を動かし、起き上がった。
「ハァハァ、なん、なんだと。ぐぅ、結界が破られるはずは、ないのに」
割れた眼鏡を投げ捨て、立ち上がったレザードは背中を向けるクラウスを睨んだ。
「しぶといな」
優しい表情を消し、アデラインの頬へ添えていた手を離したクラウスは、立ち上がったレザードへ殺気すら感じさせる冷笑を向けた。
バンッ!
壁に手をついて立っていたレザードは、近くにあった扉が勢いよく開いた際の揺れによってよろめき、転倒しかけて床に手をついた。
「お嬢様ー!」
開いた扉から部屋へ飛び込んで来たのは、血相を変えたラザリーだった。
室内を見て状況を把握すると、ラザリーはアデラインの側へ駆け寄る。
「ラザリー?」
初めて見る、今にも泣き出しそうに目を真っ赤にして、髪を乱したラザリーの姿にアデラインは目を丸くした。
「私が離れていたから、お嬢様を危険な目に遭わせてしまいしまいました。お嬢様、マスター、申し訳ありません」
床に両膝をついたラザリーは、アデラインの拭いきれていない血で汚れた手を握る。
「メイドが私のお嬢様に触るな!」
変形した左肩を右手で押さえたレザードが叫び、ビクリと体を揺らしたアデラインはラザリーの腕にしがみ付いた。
「……私のお嬢様、だと?」
クツリと喉を鳴らしてクラウスは嗤う。
「今から死ぬ貴様に手足など不要だろう。全て切り落としてやるよ」
物騒なことを言ったクラウスの髪が風も無いのに揺れ、彼の周囲から漆黒の魔力が立ち上っていく。
ジャラララー!
漆黒の魔力は鎖となり、音を立てて真っすぐにレザードへ向かって伸びて行った。
防御魔法を展開する間を与えず、魔力でできた漆黒の鎖はレザードの全身に巻き付き、彼の動きを止める。
「ぐあああ!?」
四肢に巻き付いた鎖は電撃を放ち、室内には焼け焦げた布と肉の匂いとレザードの絶叫が響いた。
「止めて!」
握られていたラザリーの手を振り払い、立ち上がったアデラインはクラウスのコートを掴む。
「殺さないで」
「何故、止める?」
制止される理由が分からず、戸惑いの表情を浮かべたクラウスはコートを掴んでいるアデラインを見下ろした。
「彼には、犯した罪を償ってもらいます。罪を償うために、生かしてください。優しかった時のレザードと今の彼は違うって、信じていたいから。お願い、殺さないで」
くしゃりと顔を歪めたアデラインの目から、涙が再びぽろぽろと零れ落ちてコートを掴む手に落ちた。
「何故、お前は……ちっ」
言いかけて止めたクラウスは舌打ちをすると、パチンッと指を鳴らす。
発動途中だった魔法は解除され、レザードを拘束していた漆黒の鎖は粒子となり空気に溶けるように消えた。
ドサッ!
拘束していた鎖が全て無くなると、意識を失ったレザードの体は傾いでいき、床へうつ伏せに倒れた。
破れた服の隙間から見える四肢の火傷は痛々しいが、致命傷までにはなっていないようだ。
「あっ」
倒れたレザードに気を取られていたアデラインの手の上に、クラウスの手が重なりコートを握っていた彼女の指を外す。
触れ合ったのはほんの僅かな時間で、すぐにクラウスはアデラインの手を離した。
「ディオン、ガルバムいるな」
「はい」
「はっ」
扉から顔を覗かせたディオンは、アデラインの方を見て安堵の息を吐いた。
ディオンに続いて入室したガルバムは、クラウスに会釈してから意識を失っているレザードに近付き状態を確認する。
「お嬢様、私達は別室へ移動しましょう」
「ええ」
ラザリーに促されて頷くも、アデラインはディオンの方へ歩いていくクラウスの背中を追っていた。
「ディオン。執事を、連れて行け」
息を吐き出したクラウスは片手で顔を覆う。
「了解」
回復魔法を発動させたディオンは、レザードの四肢の火傷の応急処置をして彼の首に魔封じの首輪をはめた。
意識を失い脱力したレザードの肩に手を入れ、持ち上げたガルバムは彼の体を背負う。
「で、執事の引き渡し先はどこに、マスター? まさか!?」
クラウスの方を向いたディオンは、ギョッと目を見開いた。
異変に気付いたガルバムも全身を強張らせ、アデラインの傍らにいたラザリーもハッと息を飲む。
両手で顔を覆うクラウスの全身から、漆黒と紫紺の強い魔力が溢れ出していたのだ。
しゅうしゅうと、クラウスの体から溢れた魔力に触れた絨毯が、音を立てて溶けだす。
「マスター! 魔力を抑えてください! ここいら一帯を吹き飛ばす気ですか!」
焦るディオンの声に応えることなく、クラウスから溢れ出る魔力の量はみるみるうちに増していった。
「お嬢様、屋敷から逃げます。ここに居るのは危険です」
ラザリーの表情と声にも焦りが混じり、アデラインの手を握る力が強くなる。
「危険って? クラウスさんはどうしたの?」
両手で顔を覆ったクラウスから漏れ出た魔力が障壁となり、ディオンの声は届いていないようだ。
「感情の昂りによって、抑えきれなくなったマスターの魔力が暴走しかけています。以前も暴走はありましたが、戦闘中以外では初めてです」
「ええっ!? クラウスさんっ!」
驚くアデラインの声に反応して、クラウスの肩がピクリと揺れる。
「ぐぅ、俺は、くっ……出てくるな」
苦し気な呼吸を繰り返すクラウスの背中に、幾重にもなった魔力が漆黒色の翼のようなものを形成していく。
強大な魔力が発する圧力により、耐えきれなくなってきた部屋全体がミシミシと軋み音を立て出す。
「ガルバム、アレを止められるか?」
「無理だな」
「だよな。じゃあ仕方ないか」
苦笑いしたディオンはすぅーっと思いっきり息を吸った。
「アデライン! マスターに抱き付け!」
「え?」
言われた言葉の意味が分からず、アデラインは目を丸くする。
「聞こえたか? 思いっきりマスターに抱き付くんだ!」
「えええっ!?」
目を白黒させたアデラインの前へ出たラザリーは眉を吊り上げた。
「私達でも無理なのに、お嬢様がマスターを抑えられるわけないでしょう!」
「マスターは、アデラインが怪我して切れていたんだろう? それなのにアデラインが執事を庇うもんだから、感情が抑えきれなくなったんだよ。多分。だから、マスターを止められるかもしれないのはアデラインだけだろ」
「……え? クラウスさんが? どうして?」
目を瞬かせたアデラインは、元の姿が分からないほど漆黒の魔力に覆われたクラウスを見詰めた。
「マスターが魔力を爆発させたらここら一帯が吹っ飛ぶ。一か八かでも頼むアデライン!」
「ああなったマスターを止めるのは私達でも無理です! 近付くのも危険です!」
制御不可能となった魔力が渦巻くごうごうという音に邪魔され、ディオンとラザリーの二人の声はアデラインにははっきりと聞こえない。
(魔力の隙間から見えたクラウスさんは、凄く苦しそうだった。わたくしのせいなら、止めなきゃ!)
深呼吸をしてアデラインは一歩前へ出る。
「よく分からないけど、クラウスさんがああなったのはわたくしが原因なのね。だったら、分かったわ」
手を握るラザリーに笑いかけ、アデラインは左手人差し指の指輪を撫でた。
「金狼の皆さんは、契約通りわたくしを守ってくれるのでしょう?」
「くっ、お嬢様のことは、全力でお守りします」
目を伏せてラザリーが頷き、答えに満足したアデラインはクラウスへ向かって歩き出した。
アデラインが傷付けられて、クラウスさんはブチ切れてたみたいです。




