35.現れたのは、救世主か。それとも……
力を入れてドアノブを動かそうとしても、固定されたかのように全く動かない。
「誰か! 誰か来て!」
(ラザリーはまだ戻っていなくても、ガルバムが警戒してくれていた。叫び声を聞きつけて駆けつけてくれるはずだわ!)
期待を込めて声を張り上げて叫んでも、アデラインの声に応える者はいなかった。
それどころか、部屋の外から使用人達の気配も、物音一つもしない。
「お嬢様」
レザードの手がアデラインの肩を掴み、ゆっくりと振り向かされる。
恐怖で上げかけた悲鳴は、何とか口から出るのを堪えた。
「叫んでも無駄ですよ。屋敷全体を覆っていた結界をこの部屋のみに集中させました。これで並大抵の者は部屋に入ることも、お嬢様がこの部屋から出ることも出来ません」
「そんなこと」
「屋敷の構造を熟知した私なら可能です。それから、この結界の中でお嬢様は魔法を使えません」
状況を理解して青褪めるアデラインの顔を見下ろし、目を細めたレザードの唇が愉悦で吊り上がった。
「ああ、こんなに震えて可哀そうなお嬢様。王太子に邪険にされて、周囲の者達から冷たくされておつらかったでしょう? これからは私が貴女を守ります」
「いやっ! 放して!」
肩を掴む手を振りほどこうと、アデラインはレザードの腕を押すがびくともしない。
逃れようとすればするほど肩を掴む手に力が入っていき、アデラインは痛みで顔を顰めた。
「美しく成長した貴女を見る、男子生徒達の邪な目付きに気付いていましたか? 幼く愚かな王太子がわざとお嬢様を邪険に扱い、気を引こうとしていたのを気付いていましたか? エリック様も、お嬢様に姉以上の感情を抱くようになっていましたよ」
言葉を切ったレザードは俯くと溜息を吐く。
「私の可愛いお嬢様に近付く男達を、何度この手で八つ裂きにしてやりたかったことか」
「あ、貴方はリナさんのことが好きだったのではないの? だから、わたくしを裏切ったのでしょう?」
「違う」
顔を上げたレザードはアデラインと視線を合わせる。
レザードの瞳の奥に宿る狂気の光に気付いてしまい、アデラインの全身に鳥肌が立った。
「違うなら、どうして食事に毒を混ぜたの。どうして、わたくしに敵意を向けたの?」
精神に作用する毒薬を食事に混入させ、心身を害する魔石を装身具に使用してアデラインを害そうとしたのは、リナのためではなかったのか。
「リナ嬢に惹かれたのは、今思えば一時の気の迷いでしょうかね。王太子と結託したエリック様の命で、お嬢様の心を乱そうとしたのは認めます。しかし、専属を外された時に間違った行いだったと、私が必要としているのはアデラインお嬢様だけだと再確認しました」
「やはり、エリックと殿下がわたくしを害そうとしたのね」
レザードの独断ではなく王太子とエリックの指示だったという自白を聞き、アデラインの内に恐怖以外の怒りの感情が湧き上がってくる。
左手人差し指にはまっている指輪をチラリと見た。
(魔石がこの会話を録音していれば、王太子が邪魔なわたくしを暗殺しようとしていた証拠になるわ)
指輪には報告書の収納以外の機能として、物理魔法耐性向上と音声記録があった。
レザードが肩を掴んだ時、咄嗟に指輪に触れて音声録音機能を発動させたのだ。
(でも、気の迷いってなに? それに、この目付きがおかしくなったレザードは、どこかで見たことがあるわ。どこで? はっ!? 嘘、そんなことってある?)
“私”が楽しみにしていたアプリゲームの期間限定イベントの一つ。
執事が抱いていた悪役令嬢への歪んだ想いを爆発させる、ヤンデレモードシナリオのサンプルスチルと同じ表情を目の前のレザードはしていた。
(わたくしのせいなの? あの時、私がヤンデレシナリオに応募してしまったから、ゲームの強制力でレザードを歪めてしまったの?)
アデラインの体が小刻みに震え出し、両目は涙で潤んでいく。
「怖いですか? 可哀想に。貴女を害する者など誰一人居ない、安全な場所を用意します。さぁ、私と一緒に行きましょう」
ニヤーと嗤ったレザードの顔が近付き、頬に吐息がかかった。
(いやぁああー!)
限界を突破した嫌悪感によって、アデラインの全身から震えが止まる。
キッと目を吊り上げて、両手両足に力を入れた。
「嫌よ! 放しなさい! ヤンデレが許されるのは創作だけだわ! 現実でヤンデレルートなんて絶対に無理ー!」
バチバチバチッ!
「くっ!?」
叫びに呼応するように、左手人差し指の指輪から発生した大量の火花がレザードへ向かって散り、驚いた彼の手がアデラインの肩から外れた。
「一方的な歪んだ愛なんて現実ではいらないー! 心を壊そうとする男なんて大嫌いだわ!」
くるりと背を向けたアデラインは、バルコニーへ続く窓に向かって駆け出した。
(あと少し! 窓まで行けば結界があっても外から室内が見えるはずだわ! 外にはガルバムさんがいるはずよ!)
屋敷に張り巡らされていたのは、防衛に特化した結界で幻視の力は無かったはずだ。
窓までの距離を縮めようと、アデラインは右手を伸ばした。
どんっ!
「きゃあ!」
あと少しで窓まで辿り着くというところで背中に衝撃が走り抜け、アデラインの体は前のめりに傾いでいく。
ガターン!
伸ばしていた右腕がドレッサーの椅子に当たり、椅子ごと床へ倒れた。
「うぅ、痛っ」
床に打ち付けた上半身と座面の角が当たった額の痛みで、アデラインは顔を歪めて呻いた。
起き上がろうとして力を入れると、痛みと目眩と視界が揺れる。
揺れる視界の中、レザードが近づいて来る足音が聞こえて歯を食いしばって痛みを堪え、顔を上げた。
「私のことをいらない? 大嫌い? ふっ、お嬢様にはお仕置きと躾が必要ですね」
加虐することへの愉悦、欲していたアデラインを手に入れたという高揚感で、ほんのりと頬を赤く染めたレザードは息を荒げた。
「仕置きだなんて、お断りだわ」
痺れる両腕を動かしてアデラインは上半身を起こす。
体を起こした勢いで、椅子の角で切った右こめかみの傷からの出血が右のこめかみから頬を伝い、顎から床へと落ちていく。
「ああ、綺麗な顔に傷がついてしまいましたね。すぐに治してあげます」
「触らないで」
ぱんっ。
身を屈めてこめかみの傷に触れようとしたレザードの手を叩き、拒絶したアデラインは彼を睨み付ける。
「ふふ、貴女が私のモノだという証に傷を残しておくのもいいか」
「傷が残ったとして、わたくしは貴方のモノにはならないわ! 人をモノ扱いする男なんて嫌い!」
「生意気なお嬢様を、どうやって躾けて差し上げようかと考えるだけで、興奮してしまいます」
ハァーと、息を吐いたレザードは笑みを深くする。
「ひっ」
恐怖よりも嫌悪感から、アデラインの全身に悪寒が走り鳥肌が立つ。
(気持ち悪い! どうにかしたくても、結界のせいで魔法は使えない。戦おうにも、打ち身で体が痛くて動くのもままならない上に、わたくしの護衛も兼ねていたレザードに体術で勝てるわけないわ。どうやってこの場を切り抜けたらいいの!?)
ヤンデレに捕らえられ、調教されるよりもマシな展開になる打開策は無いかと、アデラインは思考を巡らす。
『助けが必要になったら俺の名前を呼べ。どこであろうと駆け付けてやる』
昨夜、夢現で聞こえた優しい声。
コクリと頷けば、大きな手のひらが頭を撫でててくれた。
拒否したくなるレザードの手とは違って、恐怖の対象だったはずの彼の手は触れられると安心できる手だった。
「クラウスさん……」
名前を口にしてしまうと、ジワリと滲み出た涙が目尻から零れ落ちそうになり、右の目元を流れ落ちる血液で歪んでいた視界がさらに歪んでいく。
「助けて、クラウスさん! いっ」
笑みを消したレザードは一変して真顔になり、アデラインの髪を掴んで彼女の顔を引っ張り上げた。
こめかみの傷から流れる血で赤く染まる顎を掴み、レザードは無理やりアデラインと視線を合わせる。
「私以外の男の名前を叫ぶなど、お嬢様はお仕置きを望んでいるようですね」
「くぅ、望んでなんかいない。放しなさいよっ!」
パキンッ!
アデラインの叫びに呼応するように、硝子が割れるような音が響いた。
部屋を覆っていた結界に生じた一か所のヒビは、全体へ一気に割れ広がっていく。
バキバキバキッ! バリーン!
広がったヒビは派手な音を立てて勢いよく砕け散り、破片は床に落ちる前に消えていった。
ゴオオー!
結界が砕けた衝撃で起きた突風はレザードだけを襲い、アデラインの髪を掴んでいた彼の手が離れる。
悲鳴を上げる間もなく、レザードの体は真横に吹き飛んだ。
ダンッ!
突風によって吹き飛ばされたレザードは、めり込むように壁に激突して床に落ちる。
何が起きたのか、理解しきれていないアデラインの目の前で魔法陣が描かれ、魔法陣の中央から現れた漆黒が視界を遮った。
「触るな」
底冷えする冷たさと圧力を感じさせる声が、魔法陣から現れた漆黒を纏った彼の口から発せられ、アデラインの唇が震え出す。
「お前は求められていない。アデラインが求めたのは、俺だ」
「クラウス、さん……」
震える唇を動かして名前を口にすると、零れ落ちるのを堪えていた涙がぽろりと目尻から零れ落ちた。
クラウスさん登場!
 




