26.周囲と自分の変化に気付いた四日目
“私”の意識がアデラインの中に蘇り、時間を逆行して断罪イベントを回避してから四日目。
委員会の仕事があると言って、早い時間に朝食を済ませて登校したエリックとレザードとは全く顔を合わせず、アデラインはラザリーに見送られて登校した。
教室のある階まで上がってすぐに、違和感を覚えてアデラインは足を止める。
何が変わっているのかと問われても答えられないが、昨日までと明らかに校舎内の雰囲気が違うのだ。
(気のせいではないわ。換気不足の部屋の窓を開けて淀んだ空気を入れ替えた、という感じ? それに明らかに周囲の生徒達がわたくしに向ける目が違う。よそよそしさは残っていても、刺々しさが消えて敵意が薄らいでいるわ)
昨日は何があったのかと考えて、学年合同実技演習のことを思い出した。
「おはようございます」
「おはよう……」
教室へ向かうとクラスメイトから挨拶をされて、アデラインは昨日までとの違いに戸惑う。
「アデライン、おはよう!」
机に寄りかかって男子生徒と談笑していたディオンが、教室の入口で立ち止まっていたアデラインに手を振った。
「おはよう、ございます」
ぎこちなく挨拶を返すアデラインの側まで駆け寄ったディオンは、彼女の耳元に顔を近付けた。
「潰してから変わっただろ? 明日はもっと変わるよ」
「え? あっ!」
顔を上げたアデラインの手から鞄を奪うと、ディオンは自分の席へと戻って行った。
(潰してって、実技演習でのこと? どうなっているの?)
言われた言葉の意味が分からず、悶々としたまま授業を受けることになった。
「昨日、何かしたの?」
「さぁ? カルロスを叩き潰しただけだよ」
休み時間に、ディオンに聞いてもはぐらかされてしまい問うのは諦めた。
金狼のメンバーが裏で何かしていても、ディオンはマスターの許可が無ければ教えてくれない。
クラスの雰囲気が良くなることは、アデラインにとっても良いことなのだから、気にしないことにした。
午前中の授業が終わり、生徒達は昼食を食べるため教室の外へ向かう。
「アデライン様、よろしければ一緒に食べませんか?」
「ご迷惑でなければ、そのディオ様もご一緒にどうでしょう?」
声をかけてきたのは、昨日の実技演習で一緒に観戦をしようと誘ってくれた二人の女子生徒だった。
女子生徒の一人が落ち着かない様子でディオンを見ていることから、彼女の気になるモノが何かを覚ったアデラインは微笑んだ。
「ありがとう。ぜひご一緒したいわ。ディオさんはいいですか?」
「アデラインがよければいいよ」
聞いた者が勘違いしそうなことを言ってくれたディオンは、女子生徒からの熱い視線を無視して「席の確保をする」と先に食堂へ向かった。
話しかけて来る女子生徒との会話にまだ慣れず、聞き役に徹してアデラインは食堂へ向かった。
食堂へ向かう途中の渡り廊下でエリックとすれちがっても、彼は何も言わず目も合わせなかった。
混雑する食堂では、生徒達の隙間から手を振るディオンの姿が見えて、彼の確保しておいてくれたテーブル席へ向かう。
ディオンの隣には背の高い男子生徒の姿があり、アデラインと女子生徒達は顔を見合わせてしまった。
「カルロスも一緒に食べていいか?」
歯を見せて笑うディオンとは違い、カルロスは諦めたような顔でアデラインと女子生徒達を見る。
「俺と関わって、アデライン嬢に迷惑をかけるわけにはいかないと言ってんだが……ディオに押し負けてしまった」
「お前もあっちで食べるより一緒に食べた方が楽だろ」
「ぐっ」
バンッと音が鳴るほどディオンに背中を叩かれ、体を揺らしたカルロスは呻く。
(カルロス様がヒューバード様の側から離れた? そうか、昨日ディオンさんに負けたことで側近から外されたのね)
食堂内を見渡してもヒューバードとリナの姿はない。
金狼の調査結果に書かれていた密会場所、生徒会長室か図書館前のベンチにいるのだろう。
(カルロス様は今後を考えたら喜べないだろうけど、金狼の報告書を読んだかぎりでは真面目な彼は授業をサボることはせず、お茶会に参加することは無かった。今は落ち込んでいても、ヒューバード様達から離れられて良かったと、後々思えるはずだわ)
持っていたバスケットを置き、アデラインは首を動かして後ろを振り向く。
「わたくしは迷惑ではありませんけど、貴女達はどうでしょうか?」
「私達はかまいません」
「カルロス様とディオ様とご一緒できて嬉しいです」
瞳を輝かせて、カルロスとディオンを交互に見た女子生徒達は声を弾ませた。
***
タンッ!
両手で籐製バスケットバッグの持ち手を持ったラザリーは、廊下の曲がり角から小走りで飛び出してきた男子生徒と当たる寸前、軽い動きで横に飛び退いて衝突を免れた。
「大丈夫か?」
「大丈夫です。私の前方不注意でした」
衝突を回避したラザリーの動きに全く気付いていない男子生徒は、メイド用のエプロンを着けた彼女を一瞥して怪訝そうに眉を寄せた。
顔を動かした際、銀縁眼鏡にかかった前髪を指で除ける。
「どうしてメイドが校舎内にいるんだ? 名札も着けていないことから、貴女は入校申請をしていないな。学則で、事務所で校舎内へ入る申請をした者以外は、放課後まで立ち入ってはいけないことになっている」
「お嬢様の忘れ物を届けに来ました」
背の高い男子生徒に見下ろされても、ラザリーは表情を変えずに淡々と答える。
「忘れ物は事務所で渡せば済むだろう。悪いが風紀委員長として見逃せない。貴女の仕えている生徒のクラスと名前を教えてもらおう」
周囲の気配を探り、ラザリーは一瞬だけ口角を上げた。
「二年生のアデライン・ベルサリオ様でございます。今すぐに必要な物ですから、申請をしないで来てしまいました。申し訳ございません」
男子生徒の眉間に皺が寄り、彼は眼鏡のフレームを押し上げる。
「アデライン嬢のメイド……? では、なおさら行かせられない。アデライン嬢は、学園の規律を乱すことばかりしているからな」
溜息を吐いた男子生徒は、ブレザーのポケットから手帳を取り出しラザリーの方を向いて、大きく目を開いた。
「やはり、貴方はお嬢様に害ある方のようですね。糸に気が付いていないようですから、見逃してあげようと思ったのですが……邪魔をするのでしたら排除します」
瞬間移動したのかと思うほど、瞬く間に距離を縮めたラザリーに驚き、男子生徒は後退る。
「は? 何を言っている。問題を起こそうとするなら、警備員を呼んでアデライン嬢にも罰則を与えて貰うぞ」
男子生徒はラザリーから視線を離さず壁に手を伸ばす。指先が目指す先にあるのは、緊急時通報用の釦だった。
「ふふっ、怖がることはありません」
「何を、うっ!?」
フッと笑ったラザリーは素早く腕を動かし、男子生徒が通報釦を押すよりも早く彼の顎を掴んだ。
「ぐっ、ぅう!?」
強い力で掴まれて呻く男子生徒の顔を引き寄せ、噛み付くようにラザリーは唇に口付けた。
「ふぅ、んっ」
口付けられた勢いで、体を仰け反らせ壁に背中を打ち付けた男子生徒は、大きく目を見開いた。
背中を打ち付けた痛みで開いた唇の隙間から、ラザリーの舌が彼の口腔内へ入り込む。
「あぁ」
口腔内を撫でる舌先の感触によって、男子生徒の顔は驚愕の表情から頬を赤く染めた、恍惚としたものへと変わっていった。
男子生徒の全身から力が抜けていき、ラザリーは掴んでいた顎から手を放す。
「……はぁ」
離れていく唇から伸びた唾液の糸が切れて、互いの唇の端に垂れ落ちた。
「学園での魔法は禁止されているため貴方の体内へ口移しで魔力を吹き込み、魔力回路を少々弄らせていただきました」
淡々と言うラザリーは唇を手の甲で拭う。
「魔力回路の回復には時間がかかりますが、元に戻りますのでご安心ください。この国の宰相御子息である貴方をどうにかしてしまったら、色々と面倒ですものね。ブライアン・ベイロン様」
脱力した両足が体重を支えきれず、崩れ落ちるように男子生徒こと、ブライアンは床に座り込んだ。
「ついでに糸を切っておきました。魔力回路が乱れているうちは、糸は絡み付けないでしょう。今後、どうされるかは貴方自身の意思で考えて決めてください」
肩を震わせたブライアンは口元を手で覆い、真っ赤に染まった顔を上げた。
「貴女は、なん、なんてことを……口の中に舌を入れるなんて」
動揺で上擦った声になったブライアンは、ずれ落ちた眼鏡を直すこともせず潤んだ瞳でラザリーを見上げた。
「あら、もしかして初めてでしたか? ふふっ、それは失礼しました」
下唇を舐めるラザリーの赤い舌先を凝視するブライアンは、何も言えず全身を真っ赤に染める。
呆然自失状態のブライアンを見下ろして、ラザリーは愉しそうに目を細めた。
***
混雑する食堂へ着くと、気配を薄くしたラザリーは生徒達の間をすり抜けて、アデラインのいるテーブルに近付いた。
「お嬢様」
「はいっ?」
突然かけられた声に驚き、振り向いたアデラインは目を丸くする。
「ラザリー? どうしてここに?」
「デザートをお渡しするのを忘れてしまいました」
持っていたバスケットバッグをテーブルに置き、ラザリーは留め具を外して開口部を開く。
「おー! 美味そうっ」
ラズベリーパイを見て声を上げたディオンをラザリーは睨む。
「貴方のために持ってきたのではありません。お嬢様と御友人方で食べてください」
「ラザリー、ありがとう。皆さんと食べるわね」
「はい」
冷たい表情をやわらかなものへと一変させ、ラザリーは嬉しそうに微笑んだ。
「アデラインの前だと別人だな」
ギルドに居る時とアデラインの前ではラザリーの顔が違いすぎて、彼女の本性を知るディオンは寒気を感じて身震いした。
色々な意味で手練れなラザリーによって、宰相息子ブライアンをちょっと歪めてしまったかもしれないです。
 




