01.始まりは牢の中
重い何かが硬い場所にぶつかった鈍い音が響き、後頭部から背中にかけて走り抜けた強い衝撃に一瞬呼吸が止まった。
文字通り目の前に火花が散り、悲鳴の代わりに「ヒュウッ」という音が口から洩れる。
衝撃に遅れてやって来た痛みで叫び声を上げたはずなのに、数回口を開閉させるのだけで力尽きて声にはなってくれない。
飛び散った火花が消えると、襲ってきた眩暈によって視界が暗転していった。
(頭が、背中が痛い! 目の前が真っ暗だわ。わたくし、わたくしはこのまま意識を失うのね。あの方々の思い通りになってしまう……誰か! 助けて!)
痛みと体の感覚が急速に薄れていく中、硬い床の上に仰向けに倒れた女性は冷静に自分の状態を受け入れていた。
ガタンッ!
電車が大きく揺れて手摺に肩がぶつかる。
手摺に寄りかかり、座席に座っていたパンツスーツ姿の女性の目蓋は、勢いよく開いた。
(あれ? 私、寝ちゃってた?)
周囲を見渡すと、電車に乗っているのは自分と若い男性二人組と中年男性だけ。
欠伸を堪えて扉の上に表示される駅名を確認すれば、次の停車駅は最寄り駅だった。
下車の準備をしようと、膝の上に乗せて半分落ちかけていた通勤バッグを抱えなおす。
顔を上げて目に入ったのは、向かいの硝子に映る自分の顔。
肩までの黒髪に黒目、薄い化粧をした顔は自分の顔なのに、どこか違和感を覚えた。
マスクをして顔半分が隠れているといえ、濃い目の下の隈と肌荒れのせいで疲れ切っていると分かる酷い顔をしていて、マスクをしていて良かったと心底思った。
『次は、●●駅~。お乗り換えのお客様は……』
最寄り駅に到着するアナウンスが流れ、停車した電車の扉からホームへ降りる。
軽快な音楽と共に扉は閉まり、電車は終着駅を目指して動き出した。
肩にかけた通勤バックに片手を入れ、パスケースとスマートフォンを取り出した女性は、改札口へ向かって階段を上り出す。
(あーもう、遅くなっちゃった。0時になったらシークレットイベントが解禁になるのにー!)
週末の今日は定時退社を目指していたのに、後輩がパソコン操作を間違えて重要なデータを消してしまった上にバックアップを取っていなかったため、残業することになったのだ。
仕事を増やしてくれた後輩が「体調が悪い」と言って先に帰ったと知ったのは、終業時間から一時間以上たった後だった。
彼氏とデートだと楽しそうに話していた気もしたが、そんなことを気にしたら負けだと自分に言い聞かせてどうにか終わらせた。
どうにか作業を終えて退社した女性は、駆け足で電車へ飛び乗ったのだ。
(日付変更までに家に帰って、シークレットキャラとの期間限定イベントを朝までやるんだ)
左手に持つスマートフォンのアプリを起動して、画面に表示されたのは可憐なヒロインと美形揃いの男子達が並ぶイラスト。
親指を動かして、女性はシミュレーションゲームの情報を配信しているSNSの画面を見ながら、駆け足で階段を上る。
(へぇー条件を満たせばシークレットヒロインを……え?)
上の段にかけたはずの右足がズルリと滑り、体が下方へ傾いていく。
スマートフォンの画面を注視して階段を上っていたため、階段に落ちていたチラシに気が付けなかった。
「きゃあああー!?」
右手に持っていたパスケースが宙を舞い、目と口を大きく開いた驚愕の表情で女性は階段の下へと吸い込まれていった。
何処からか男性の悲鳴が聞こえた直後、女性の聴覚と触覚は消えていき……
最後に見えたのはスマートフォンの画面、銀髪赤目の青年が彼女に向けて手を差し伸ばしているイラストだった。
(落ちるー!? 嫌だ! まだ私は隠しキャラのノーマルエンドしか見ていないわ! トゥルーエンドもハッピーエンドもバッドエンドも見ていない! 楽しみにしていた期間限定シークレットイベントをやっていない! こんなに悔いが残る最後なんて)
「嘘よっ!」
閉じていた目蓋を勢いよく開くと同時に、聞こえた自分の叫び声で混濁していた意識が覚醒する。
早鐘を打つ心臓の鼓動がはっきりと感じて、息苦しさで胸元を押さえた手の感触から今の自分が着ている服は、ブラウスではなく胸元が開いてレースが付いている服を着ていることに気が付いた。
「此処は……」
口から出た声も全く違う他人の声。
自分の声はもっと低くなかったか。
不思議に感じて、唇に触れれば荒れてかさついていた唇とは違った、潤いと張りのある唇の感触がした。
「わたくしは、何をしていたの?」
“私”ではなく“わたくし”と、違和感なく言った唇が震える。
(わたくし、どうして床の上に倒れていたの? 此処は何処? 電車から降りて改札口に向かっている途中、階段から落ちたのに……あれ? 電車って、改札口って何?)
“わたくし”の記憶には無い改札口、スマートフォンという単語。
馬車とは違う乗り物、電車という名の乗り物には乗ったことは無いはずなのに。
硬い石の階段を駆け上がるなんて、幼い頃以外はしたことはなかったのに。
(これはいったい? 気持ち悪い!)
突然、脳内に夢の中に出て来た黒髪黒目の女性、今の“わたくし”以外の生々しい記憶が混じり合っていき、視界がぐにゃりと歪む。
流れ込んで来るもう一人の自分の記憶、その情報量の多さに耐え切れず目蓋を閉じれば、後頭部と全身に鈍痛が走った。
「い、痛い」
痛むこめかみに手を当てて閉じた目蓋を開き、薄暗い部屋の不自然なくらい高い天井を見上げた。
「私は、誰? 私は、わたくしの名は、アデライン……アデライン・ベリサリオ?」
がばっ!
「うぐっ」
床に手をついて勢いよく上半身を起こしたアデラインは、眩暈と後頭部から腰に向かって走り抜けた痛みで呻いた。
震える両足を踏ん張らせて立ち上がり、部屋の隅に置かれたドレッサーの鏡を覗き込む。
「この顔は……君恋の意地悪な令嬢アデラインと一緒だわ」
鏡に映っているのは、薄暗い部屋の唯一ある窓、天井近くにある小窓から射し込む月明かりを反射して輝く光の加減で藤色が混じったように見える銀色の髪、瑠璃色の瞳を持つ整った顔立ちの女性だった。
震える両手を両頬に当てて鏡を見詰め、ハッとしたアデラインは大きく肩を揺らした。
身に纏っている水色のドレスにも見覚えがあったのだ。
「嘘よ! 何てことなの!」
悲鳴に近い声を上げたアデラインの表情は、電車の改札口に向かう階段を駆け上がっていた“私”が夢中になっていた、アプリゲーム“君と紡ぐ恋の魔法”のヒロインを虐める意地悪な公爵令嬢、アデライン・ベリサリオが驚いた時と同じ顔。
婚約者の王太子に近付くヒロインを虐め、毒入りのお茶を飲ませようとしたアデラインが断罪される場、離宮で開かれたお茶会で彼女が着ていたドレスと同じものだった。
“君と紡ぐ恋の魔法”
黒髪黒目の女性だった“私”が楽しんでいた携帯端末で楽しめるアプリゲーム。
君と紡ぐ恋の魔法は、一人の少女が剣と魔法のファンタジーな世界へ、レストレンジ王国に異世界転移した場面から始まる。
国境沿いの森を彷徨っていた少女は異世界の迷い人として辺境伯に保護され、自分の生まれ育った世界へ戻る手がかりを探るため、この世界の知識と魔法を学ぶことにした。
それから半年後、辺境伯の長男と一緒にレストレンジ王国王都にある学園へ入学したヒロインは、王太子や貴族子息といったやたらと顔面偏差値が高い男子生徒と知り合い、親しくなっていくという内容だった。
ヒロイン育成と甘酸っぱい恋愛を楽しみ、意地悪令嬢達からの妨害という名のミニゲームをしたり、実技訓練では魔物と戦ったりと、恋愛アプリゲームとしては王道なストーリーだ。
攻略対象となるのは、アデラインの婚約者だった王太子ヒューバート、宰相子息ブライアン、騎士団長子息カルロス、この世界での保護者となった辺境伯子息サミュエル、そしてアデラインの義弟エリックと執事のレザードの六人。
さらに、全ての攻略対象キャラとハッピーエンドを迎えた後に解禁されると噂のあった、まだ公式から発表されていない隠しキャラを入れたら七人いる。
「これは所謂異世界転生? 憑依ってやつ? どうせならヒロインならよかったのに。何でよりによってアデラインになんて、きゃあっ」
呟いたアデラインは一歩後退り、床に敷かれた古い絨毯にヒールが引っ掛かってよろける。
「そうか……今のアデラインは、王太子殿下に捕らえられた後なのね。もうアデラインの未来は決まったようなものじゃない!」
着ているドレスと混乱する記憶を探ったアデラインは、自身が置かれている状況とこの部屋が何処なのかようやく理解した。
目覚めたばかりの“私”の意識は混乱中です。