00.プロローグは婚約破棄から
よろしくお願いします。
休日の昼下がり、貴族の邸宅が建ち並ぶ区画から王宮へ続く通りへ、一台の馬車が出て来た。
装飾も無く地味な馬車は、物理魔法による襲撃を受けても破損しないように強化され、揺れもほとんどない乗り心地の良い特別仕様。
馬車の座席に座った若い女性は、あえて裏道ではなく人々で賑わう大通りを通らせて、窓から王都の街並みを眺めていた。
「アデライン、緊張しているのか?」
向かいの席に座る、黒色スーツを着た黒髪赤目の青年からの問いにアデラインと呼ばれた女性は、視線は窓から動かさずに首を横に振った。
身じろぐとコルセットが胃を圧迫して、久し振りに着たドレスが窮屈で早く脱ぎたくなり息を吐く。
窓から射し込む陽光を受けて輝く銀髪を編み込みにしてサイドに下ろし、派手に着飾ることが好きではなくても今日は勝負服となるドレスを着て、昨夜寝られずにできてしまった目の下の隈を隠すためにしっかりと化粧もしてもらった。
「いいえ。何があっても反撃できるよう準備万端にしたし、貴方が一緒にいるのにどうして緊張することがあるの?」
「フッ、それもそうだな」
アデラインの答えに満足した男性は、口角を上げた不敵な笑みを浮かべる。
嗤った時に上下した喉ぼとけが妙に艶めかしくて、アデラインの心臓がドキリと跳ねた。
(何もしていなくても絵になるというか、彼の存在全てに色気があるというか仕草からして、とにかくこの人は卑猥なのよ)
この数日でこの危険人物への耐性がついたとはいえ、狭い馬車の中で二人っきりでいると妙に彼のことを意識してしまう。
この男は誰よりも危険だと、分かっていても彼の醸し出す色気に負けそうになる。
「どうした?」
「何でもないわ」
まさか、見惚れていたなんて言えずに、慌ててアデラインは横を向いた。
大通りを行き交う人々や荷車を避けるため速度を落として走行させ、目的地である離宮へは予定時刻から十分以上遅れて到着した。
「お待ちしておりました」
黒髪の男性に手を引かれて馬車から降りた女性を出迎えたのは、冷たい視線を向ける使用人達だった。
無表情な使用人に案内されて向かったのは、お茶会の会場となっている庭園。
庭園にはテーブルと椅子が並べられ、テーブルには色とりどりのケーキと焼き菓子が並ぶ。
中央の席に座り、若い男性達に囲まれて楽しそうに笑っていた黒髪の少女は顔を上げ、使用人に先導されてやって来たアデラインに気が付くと話を止める。
笑顔から緊張の面持ちになる少女に耳打ちして、椅子から立ち上がった青年は笑みを消してアデラインの前へと向かった。
「遅かったなアデライン」
「申し訳ありません。ヒューバード殿下」
庭園に足を踏み入れたアデラインを出迎えたのは、レストレンジ王国の王太子ヒューバード・アル・レストレンジ。
まだ少し幼さが残るものの、赤みがかった金色の髪と緑色の瞳を持ち端正な顔立ちをした彼は、外見だけは女子が想い描く理想の王子様そのものだった。
「身支度に時間がかかってしまったのと、お父様からの火急の連絡が来たので返信を書いていて遅くなりました。でも、わたくしが遅れても楽しんでいらしたようで、安心しましたわ。もう少し遅く来た方が良かったようですね」
「なんだと?」
言葉に含まれた嫌味に気が付いたヒューバードは、眉を寄せて不快感を露わにした表情で舌打ちをする。
返答はせずにヒューバードの横をすり抜けたアデラインは、椅子に座っている少女と青年へ向けて頭を下げた。
「皆様、大変お待たせして申し訳ありませんでした」
「……アデラインはリナの隣の席に座るように」
「嫌です。お断りします」
微笑みを崩さないアデラインがきっぱりと断れば、ヒューバードとリナと呼ばれた少女は驚きに目を丸くした。
「何だと? 俺の言うことが聞けないのか?」
「ええ。お互い、苦手意識を抱いている相手の隣に座ることは苦痛で、せっかくのお茶会も楽しめませんでしょう。まさか殿下は、この機会にリナさんと仲良くなれと、わたくしにご命令するつもりだったのですか?」
目を細めて口元だけの笑みを浮かべて言えば、ヒューバードのこめかみがぴくぴくと痙攣する。
「勘違いするな!」
ガタンッ!
テーブルに手をついて立ち上がった青年が声を荒げ、大きく揺れた椅子が音を立てた。
「勘違いですって? リナさんも同意見だと思いますよ。リナさん、そうでしょう?」
「えっ、わ、私は……」
アデラインと視線が合ったリナは、胸に手を当てて視線を左右に揺らした。
「くっ、これだから君のことが嫌いなんだ。いつも俺を見下したような目で、生意気なことばかり言ってくれる。リナのことが無ければ、君と顔を合わせなければならないこんな場など用意しなかった! もう限界だ!」
握り締めていた手を開き、足を踏み鳴らしたヒューバードは勢いよくアデラインを指差す。
「アデライン・ベリサリオ! この場をもって、俺は君との婚約を破棄させてもらう!」
庭園中にヒューバードの大声が響き渡り、お茶の準備をしていた使用人達の動きが止まる。
椅子に座る前に婚約破棄を宣言されてしまい、ヒューバードを挑発した自覚のあるアデラインも僅かに眉を顰めた。
「婚約破棄、ですか」
「不服があると言うのなら、理由を教えてやろうか?」
勝ち誇った表情のヒューバードへ向けて溜息を吐きたくなるが、表情筋に力を入れてどうにか唇を動かしたアデラインは笑みを作った。
「いえ、不服などありません。殿下がお決めになったのならば、わたくしは受け入れましょう。ですが、理由だけは教えていただけますか?」
「いいだろう。リナ」
「はいっ」
隣に座る辺境伯子息と手を繋いで立ち上がったリナは、フリルと真珠で装飾されたピンク色のドレスの裾を揺らして、ヒューバードの横へやって来る。
「渡り人のリナは、我が国に平和をもたらしてくれる聖女。リナのことが気に入らないと、他の者達を操って嫌がらせを繰り返したと聞いている。持ち物を隠し、泥水を掛けて服を汚し、集団で取り囲み罵倒したらしいな。何て酷い女だ! 俺はリナと出逢い、真実の愛とは何か知ったのだ。高慢で立場を利用し好き勝手をしている君とは違う、純粋無垢で聖女になりうる才能を持つリナこそ俺の婚約者に相応しい!」
「ヒューバード様」
頬を赤く染めたリナは、うっとりとした表情で腰を抱くヒューバードを見上げた。
今年度から貴族子息子女、富裕層の平民が通う王立学園へ入学した一学年下のリナ・キムラは、異世界からの渡り人として辺境伯に保護され、生徒会役員のアデラインも彼女の存在は気にかけていた。
貴族子女とは違い天真爛漫な振る舞いをする彼女は、入学してから一年にも満たない期間で多くの貴族令息や、貴族子女へ反発心を持つ平民女子の心を虜にしていった。
そして遂には、王太子ヒューバードの心をも虜にしたのだった。
「リナさんのことが気に入らないも何も、わたくし達の婚約は殿下が王太子に選ばれるため、政略上必要で決められたものです。殿下の隣に立つ方は、言動に気を付けていただきたいと思い注意しただけです。ですが、殿下は国益とご自身の評価を下げてでも、真実の愛を選ばれるのですね。真実の愛で結ばれたお二人ならば、どんな苦難も乗り越えられますね。愛する方と結ばれて、本当におめでとうございます」
両手を合わせて祝福したアデラインは、にっこりと満面の笑みを作る。
「……何だと?」
「殿下が婚約破棄を望まれるのでしたら従いましょう。というか、破棄して下さってありがとうございます。わたくしも視野が狭く自己中心的で、実力以上に自尊心だけは高い貴方の手伝いはもうやりたくなかったので、婚約者ではなくなるのは心の底から嬉しいです。国王陛下には、殿下の学園でのご様子を伝えてあります。予定を切り上げて帰国されるそうです。成績不振と浪費について、陛下への言い訳を頑張って考えてくださいね」
婚約者でもない相手に気を遣う気など無いと、辛辣な本音を言い放ったアデラインに対して、勝ち誇った表情から口を開けて唖然としていたヒューバードの顔色は、一気に赤くなっていった。
「視野が狭く、自己中心的で……婚約破棄が嬉しいだと!?」
「きゃっ」
耳元で叫ばれたリナは肩を揺らしてヒューバードを見上げ、アデラインはこめかみに指を当てた。
(はぁー、俺様で短気な王太子殿下。少し挑発しただけでこれでは愛しのリナさんが怯えているわよ。しかし、予想通りの反応をしてくれるわね。今度は、貴方達の計画通りの展開にさせてやるもんですか!)
今日、ヒューバードから婚約破棄宣言をされるのは分かっていた。
処刑数時間前という崖っぷちで前世の記憶が蘇ったあの時以来、アデラインはありとあらゆる手を使って破滅フラグを叩き折る準備をしていたのだから、今さら婚約破棄宣言など怖くはない。
(王太子なんかよりも怖いのは……わたくしのすぐ側に控えているのだから)
「アデライン」
背後から聞こえた低音の男性の声に、苛立ちが混じっているのを感じ取ったアデラインの背中に冷たいものが走り抜けて行き、肌が粟立っていく。
「そろそろお終いにしろ。阿呆共と話すのは時間の無駄だ」
隣へ移動した黒髪の青年の指が、扇を持つアデラインの手を掠めていく。
それだけで緊張で強張っていた体がほぐれていく気がした
「そうね。真実の愛を貫いていただくためにも、こんな茶番は早く終わらせましょう。強制力も、自分勝手なハッピーエンドなんて無いと、教えてあげなければならないわ」
作り笑顔でない笑みを浮かべ、アデラインはゆっくりと周囲を見渡した。
もう一話、21時過ぎに更新予定です。