捨てられても呑気、慕われたら幸せ
森の中に城壁があった。この城壁の物見台は部屋のようになっている。そこに縦長の窓がある。城壁の下から、柔らかそうな亜麻色の巻き毛を靡かせた少年が呼びかけた。
「こんにちはー!誰かいますかー!」
少年は、春の陽射しの如く伸びやかな声でゆったりと言う。森の木陰に咲く花のような、長閑な瞳は菫色。彼の足元には、その瞳と同じ色の小さな花が城壁に沿って溢れていた。
上等なリネンの胴着に膨らんだ瓜のような裾長のズボンを穿き、白い靴下を履いている。魔獣と呼ばれる凶暴な魔法生物のうろつく森で、シミひとつない姿である。
おかしな点はまだあった。彼は靴を履いていない。荷物の一つも持っていない。武器らしきものも見当たらない。供もなく、たった独りで立っている。
季節は今、半睡を誘う春の盛り。細長い窓から夕焼け色の渦巻きが覗く。苔色の瞳はさながら古木のように、興味なさそうな様子である。
※※※
高い天井には金銀の梁と極彩色で描かれた神話の世界。キラキラと反射も眩しい虹色水晶の魔法灯が、花綱を模して垂れ下がっている。虹色水晶はここローゼンブリューテン王国の特産品だ。暗闇でも虹色に輝く不思議な水晶である。魔法灯は、最新魔法技術の粋を集めたローゼンブリューテン自慢の逸品である。
そんな豪華な大広間に、所狭しと王侯貴族が集まっている。宝石を散りばめた重そうなドレスのご令嬢がたは、羽やレースの扇子で口元を隠して何事か囁き合う。
鳥の巣と揶揄される奇抜な鬘の貴婦人と、毛先をカールした銀色の鬘に金粉をまぶした当主たちが連れ立って眉を顰めている。ヒールの高いビロードの靴を履いた紳士たちは、厳しい顔で大広間の中央を睨む。
「まあ、婚約破棄ですって」
「あらぁ、凄いのね」
「やっぱりねぇ」
「短慮ねぇ」
その視線の中央には、亜麻色の巻き毛を揺らす王子様が独り。この国の長子であるグラース君だ。当年取って17歳。すらりと伸びた四肢も若々しく、程よく筋肉のついた身体は適度に高身長。穏やかな菫色の瞳をした、自他共に気付かない不遇の天才児である。
対峙するかのように並ぶ数人の貴族子女たち。真ん中には、美しい銀髪を結い上げた花のような少女がいる。その隣には、冷たい目付きの美青年が守るように寄り添っている。
人々は憎らしそうにヒソヒソ話を繰り返す。
「あの方は頼りないと思っていたよ」
「いつもヘラヘラとして不愉快だ」
「見ろよ、いい気味だな」
王子の背後では不満そうに口を歪めた金髪の少女が、逃げ出す隙を伺う。少し離れて赤いマントの国王夫妻が大臣と騎士団長を引き連れて成り行きを見守っている。
「カール、君が俺にディアナさんをエスコートするようにってあんまり頼むからこうなったんじゃないか」
「まあ見苦しい」
声を尖らせる乙女に、グラース王子は食い下がる。
「貴女も、どうしても離れられない魔法変化の観察があるから、今日行われる俺の17回目の誕生日は欠席なさる、と仰ってらしたでしょう?」
「ふん、そんな事」
抵抗を試みる哀れな王子に、銀髪の乙女はピシャリと跳ね除ける。カールと呼ばれた美青年は黙って殺気を放つ。周囲の人々がバタバタと倒れる中、グラース王子は平然としている。背後のご令嬢は、更に後ろにいた体格の良い少年に寄りかかる。
「貴方が婚約破棄を宣言なされたのでしょう」
「言ってないよ!」
乙女の言葉に驚いて、王子様は思わず砕けた口調になる。お陰で評価は更に下がる。しかし、グラース王子はハッと晴れやかな顔になり、
「あ、そっか。なあんだ。ドッキリか!」
と明るく笑う。背後のディアナ嬢は、不快そうに口を曲げてそそくさと離れてしまう。先程の体格の良い青年が守るように抱き抱えている。側に控えていた、細身の眼鏡少年やサラサラ髪の陰気な魔術師も周囲を固める。
もう1人、鼻筋の通った長身の青年が横からスッと出てきて、銀色の綾織も豪華な上着を翻す。随分と華やかな一団だが、彼等はいつの間にやら人混みに紛れた。
「最低だな」
「この後に及んで言い逃れか」
大広間の意見は一致した。美青年が掲げる音声記録装置が冷たく光る。装置からグラースの呑気な声が流れた。
「ステラー公爵シュタイン家御息女ミステル・エレーナ、こんやくはきする」
ステラー公爵シュタイン家御息女は銀髪乙女の名前である。ちゃんと「御」息女、と敬称を用いている。だが会場は聞き逃す。
「なんと野蛮な」
「証拠が出たな」
「恥知らず」
悪戯仔猫を捕まえた少年のように破顔して、グラースは片目を瞑る。
「それさあ、劣化した空砲の破棄を決めた時の音声だよね?」
王子様はニコニコとネタバラシを行う。
「呼びかけの声と別の時だし、バレバレだよねー」
グラースは無邪気にふふっと笑う。
「今夜、劣化空砲、破棄、する」
「まあ、呆れてしまいますわ」
銀髪乙女の侮蔑にも、王子は面白そうに軽く笑い声を立てる。
「ドッキリも本格的だね!少しイントネーションが変なのを調整しなかったのも、ワザとだよね!」
杜撰な証拠で追い詰めるなど、グラース王子には想像もつかなかった。しかし、いつも楽しそうに過ごしているこの王子様は、皆にボンクラだと思われている。捏造音声の些細なイントネーションなど、解りたくない者達の耳には判別出来ない。
「まだ言い逃れを」
「嫌ぁねえ」
「怖いわねぇ」
グラース王子の指摘は続く。
「上手に編集してあるけど、良く聞けば声に含まれる魔法紋がブツブツ切れてるよね」
そんなことが聞き分けられるのは、この王子様だけである。当然、グラース王子様は皆ができると思っていたので、今まで誰かにこの能力を話したことがない。
「は?」
「何を仰るのかしら?」
「なんだよ、マホウモンって」
「また始まった」
「頭大丈夫ですかー」
貴族たちが嘲笑う。聞き分けどころか、多くの人々は魔法紋の存在すら知らない。
「あの笑った顔が嫌い」
「ほんと、気持ち悪い」
「市井の民はダルいと申しますそうですわよ」
「まあ、ぴったりですわね」
「ほんに、ダルぅござぁますこと」
いつも笑顔のグラース王子は、誠実ではないと嫌われていた。飛び抜けたイケメンなので、却って浮ついた愚か者に見られてしまう。この王子は多くのことを軽々とこなすため、時間が余ってのんびり過ごす。だから、怠け者だと叩かれてもいた。その場に王子様の味方は一人もいなかった。
「グラース」
王様が怖い声を出して近づく。
「父上まで!」
王子は嬉しそうだ。
「皆様が全力で騙しに来てくださって、忘れられない誕生日になりそうです!」
「貴様、前々からおかしな事を口走るやつだったが、聞き流しておれば良い気になりおって。魔法紋を聞く?勉学を疎かにするから、そのような出鱈目を申すのだ」
王子様はくすくす笑う。
「もう充分ですって、父上。早く乾杯いたしましょうよ」
王妃様が気絶した。
「母上?」
妹姫達が金切り声を上げた。
「おまえたち?」
弟王子達が王妃様と姫君たちに駆け寄る。
王の怒りが赤黒いオーラとなって立ち昇る。流石の能天気王子も冷や汗をかく。何かがおかしいと、遂に理解する。王の怒声が魔法灯の虹色水晶を揺るがす。シャラシャラとぶつかり合う音で大広間が満たされた。
「貴様は勘当だ!気のふれた者など、王国の恥!貴様などもとより存在せぬわ!衛兵、直ちにラオプの大森林に捨てて来い!」
※※※
もうすぐ14になるリーリエ・シュヴェートは、只今婚活崖っぷち。波打つ赤毛に苔色の瞳で、小柄ながらに丸みを帯び始めたなかなかの美少女である。
森の小国ラオプ大公国は、そもそも国民が少ない。この小国はローゼンブリューテン王国の飛地でもあり、魔獣と呼ばれる凶悪な魔法生物が蔓延るラオプ大森林の中にある。
つまり、旅人も滅多に来ない。婚姻相手はほぼ公国民同士だ。この国では毎年、全公国人口の6割程度が死亡している。死因は主に魔獣被害である。そのため、男性も財力を上げる前から家庭を持つことが慣習として定着していた。
「リーリエ、あんた、またダメだったの?」
赤ん坊を背負い幼児を膝に乗せた17、8の婦人たちが鼻で笑う。
「もう諦めたら?」
「あんたの魔力なら、独り身でも後ろ指さされないでしょ」
「そりゃそうだけど」
リーリエと同じ年頃の娘たちは、婚約の証である、魔法水晶で作られた花飾りを見せびらかす。ある者は琥珀の百合を美しい栗毛に添え、ある者は銀色の薔薇を骨太な首に飾る。
ラオプの大森林にある水晶窟では、様々な魔法の力を持つ水晶が採れるのだ。ローゼンブリューテン王国名産の虹色水晶を始めとし、色ごとに違う効果を持つ水晶が数多く煌めいている。
しかし、水晶窟には魔法水晶を主食とする水晶竜どもが住んでいる。卵から孵ったばかりの幼竜でも人間の5歳児程度の大きさであり、歯は鋭く好戦的だ。
この危険な洞窟から、互いに相手の求める条件を満たす魔法水晶を採ってきて、自分で加工する。それを交換すれば、婚約が成立だ。婚約後、一年ほどで婚姻が結ばれる。
ラオプ大公国では血族結婚による遺伝病も手伝って、人口は減少の一途を辿る。現在の平均寿命は36歳。国はそろそろ本気で人口問題に取り組まなければならない、と誰もが思い始めていた。
そんなわけで、だいたい12、3歳迄に結婚相手が決まってしまうラオプ大公国。大抵男性が歳上なので、女性は実質11歳くらいまでに決まらないと後がない。かと言って男性が適齢期を過ぎても不審者扱いなので、どの家庭でも早々に相手を決める。
「もう少し魔力が弱ければなあ」
父親が溜息を吐く。魔獣と戦う国故に、強い者がモテる。男も女も勇敢なことを求められる。しかし、桁外れの魔力をその身に宿すリーリエには、宝物レベルの防護服を着なければ誰も近づけない。魔力酔いを起こすからだ。そんなものを用意してまで娶りたいと思ってくれる相手は見つからなかった。
家族との食事や友人達とのたまのお喋りには、大公どのから借り受けた魔力遮蔽の指輪をリーリエが嵌める。しかしこれには副作用がある。身につけた人は、数時間で酷い頭痛を起こす。それを常に使うわけにもいかない。
そこでリーリエは、国を囲う城壁にある物見台で独り暮らしているのである。親しい人が訪ねてくる以外、交流もなく。弱い魔獣ならリーリエから漏れ出る魔力で気絶してしまう。リーリエは陰で、独り防衛システムと呼ばれていた。
ラオプ大公ヘルツォク一族の血を引くものの、一介の騎士家息女であるリーリエには縁談が少ない。しかも、魔力が多すぎるせいで婚約を断られ続けている。
大公国で子供がいないと肩身が狭い。しかし、何事にも例外はあるものだ。子孫を育てる国民を独りで守れる程の力があれば、誰も文句は言わないのである。
その優秀な血を残したい、と始めはお相手探しに積極的だったラオプ大公どのも、幾度も縁組が失敗して諦め気味だ。そうなると親しい人までが、リーリエは防衛システムとして生涯を送ればよいと言い出す始末。
「頼りにしてるよー」
「リーリエがいれば死亡率下がるもんね」
「みんな安心して子供産めるよ」
リーリエは泣きたかった。信頼を得ていることは知っている。皆が信じて頼ってくれる。尊敬してくれる。親しい人は気安く軽口も叩いてくれる。それは確かに嬉しいことだ。けれども、自分が人として何か大きく欠けているような気がする。皆と同じでありたかった。家族と触れ合いたかった。
そんな時、婚約破棄騒動で国外追放された、ローゼンブリューテン王国の元第一王子グラースが流れてきた。身包み剥がされる一歩手前でようやく抵抗したらしく、丸裸はかろうじて免れた程度の服装で。それにしては、シミも破れもないのだが。
「こんにちはー、誰かいますかー」
呑気らしく呼びかける声が魔法の風に乗って、物見台に造られた岩の小部屋に届く。リーリエは、聞いたことのない声に新手の魔獣かと警戒する。魔獣の中には、旅人や女性の言葉を無意味に鳴き声とする奴もいるから。
人間らしき魔法の波動を感じつつ、リーリエが気は緩めずに窓から覗く。岩壁を縦長にくり抜いただけの窓だ。雨風も吹き込むし、羽のある魔獣や小虫は飛び込んでくる。しかしリーリエは気にしなかった。
この物見台に押し込められたばかりの頃は、魔法で窓を塞いだものだ。しかしそのうち面倒くさくなったのである。そもそも、リーリエから漏れる魔力にやられずに小部屋の中まで入ってくる生き物は少ない。
飛び込む魔力耐性が高い虫や鳥の魔獣は、リーリエにとっては貴重な仲間だ。相手は別にそんな事を感じてはいないのだけれども。
魔獣蔓延るラオプ大森林を抜けて外の人間が来たなどと言う大イベントは期待せず、リーリエは燃える夕陽を映した巻き毛を突き出す。
「はいどうもー」
壁下の生き物が人間であると判断したので、挨拶を返す。身に纏う魔法の波動が生む形、溢れでる魔力の質、眼に見える姿形。総合的な評価で、この少年は人間であると結論付けた。
「ここはラオプ大公国の物見台でーす」
リーリエは、気のない様子で説明する。
「こんにちはー!私はグラースです」
「何やら訳がおありのご様子」
「ローゼンブリューテン国王命令でこの森に捨てられてしまいました」
悪びれずに公言する元王子様。リーリエは、まさか元お世継ぎ候補の第一王子様だとは気が付かない。
「ずいぶんとお元気そうでご到着ですねー」
「はい、お陰様で」
グラースは、その異常性を知らない。剣や魔法、体術に至るまで、自分の実力が優れていることは流石に知っている。しかし、格別好きでもなかったので、高みへと駆け昇るまでには至らなかった。課題をこなして、終了である。その態度が周囲に傲慢だと思われていたのだが、本人としては至ってまじめに、謙虚に取り組んでいた。
「そんなにお強いのに、なんで捨てられちゃったんですかー?」
「ちょっと誤解があったみたいなんですよ」
あくまでも呑気な少年である。その穏やかな佇まいに、ひらひらと蝶々が寄ってきた。リーリエは少し羨ましい。
「いいなあ。私には魔獣と魔力の強い毒虫しか寄ってこない」
「そんなに可愛いのに?」
素である。造形として可愛らしいと言っているだけである。可愛いものには蝶や小鳥が集まると言う迷信を信じているグラース王子であった。リーリエも、同じようなことを何度も言われてきたので、照れることもなく返答する。
「気を遣ってくれてありがとう!」
「気は遣ってないですよ」
グラースはニコニコと話す。
「ねえ、お国に入れてくれませんか?」
「大公どのにお伺いを立てますね」
「わかりました」
リーリエは魔法の文字を飛ばして大公どのに来訪者を告げる。
「きっと驚きます。旅人なんて初めて見ました」
「そうなんですか」
グラース元王子は、なぜ旅人が少ないか何となくは察する。しかし正解ではない。
この森が危険であり、その割には水晶窟しか資源がないこと。虹色水晶の産地の内では最上級の水晶窟があるが、そこは凶暴な水晶竜の巣であること。その二つが理由だろうと見当はつけた。
「わざわざ魔獣の森を越えてまで見に来るものも無い国ですし」
「森の奥にある水晶窟は見事だと聞きました」
「水晶竜の棲家ですけどね」
グラースは自分の力を過小評価していた。だから、もし水晶採取に来るならば国家規模の大遠征になる、ということには気が付かなかったのだ。30年前、魔法剣が開発された時に採取隊が派遣された事実も、グラースが誤解する一因だった。
一方、リーリエたちラオプ大公国の人々は、数人の小部隊で水晶窟の入り口辺りで魔法水晶を採取する実力を持つ。奥で採れる高級品を持ち帰れる程の猛者も、100年に一度くらいは現れる。水晶窟に着いてしまえば何とかなるのだ。
だが、リーリエが生まれる前には大量の魔獣が城壁に押し寄せたので、自国防衛も婚約記念品の準備も、命懸けであった。
「大変そうですけど、見てみたいなあ」
「水晶窟の見学にいらしたのですか?」
「いえ、そうでは無いのですが」
「では、ご婚約の証を作る為?」
リーリエは、魔法水晶細工の交換がラオプ大公国特有の習慣だとは知らない。
「え?いえ?何故です?」
「魔法水晶細工の材料を採りにいらしたのかと」
「そういえば、文化史の授業で聞いた気がするなあ」
グラース元王子は記憶を探る。
「たしか、ラオプ大公国では、婚約の時、自分で採取した魔法水晶を花の形にして交換するとか」
「ローゼンブリューテン王国本土では違いますか?」
「はい、我が国では石のない魔法銀細工の指輪を交換します」
リーリエはグラースの手をチラリと眺める。
「私は、婚約者も国も失いました」
視線に気づいた元第一王子があっけらかんと打ち明ける。
「行き違いが重なってしまって」
「それで、お一人でラオプ大森林に?」
「はい、文字通り捨てられました」
「それは災難でしたねえ」
リーリエは同情する。
「仕方ないですよ」
グラースは朗らかな笑顔を見せる。リーリエは、そんなおおらかさを羨ましく思った。
「私は婚約者がいたことさえありません」
グラースの開けっ広げな性格に、思わず愚痴ってしまい、リーリエはハッと口をつぐむ。周囲に人がいないとはいえ、城壁の上と下で魔法の風を介して会話を交わしているのだ。もし誰かが通りかかれば、丸聞こえである。
「私は王子でしたから、人より婚約は早かったんですよ」
「王子様?えっ、王子様なのに捨てられちゃったんですか」
驚きの余り、リーリエは失言をする。グラースは全く気にしない。ラオプ大公国の結婚適齢期はローゼンブリューテン王国本土よりも若いが、そこは流される。
「そうなんですよ」
「でも、行き違いなんでしょう?」
心配そうなリーリエに、グラースは意外そうな顔をする。彼は、心配されたことがないのだ。体も丈夫で、熱を出しても数時間で下がる。好き嫌いもない。苦手分野でも平均以上の力はすぐに身につく。気さくなので、表面上のトラブルもない。
自分のことを心配してくれる人が現れようとは、予想だにしなかったのだ。はじめての反応に、グラースは、自分はもしかして気の毒な状況にあるのかも知れないと気がついた。
「はい、ドッキリかと思ったら、わざわざ偽の証拠や噂を使って追放するくらい憎まれてたってわかったんです。そんなになるまで気づかなかったなんて、間抜けですよねえ」
本心から恨んでいない様子に、リーリエはますます驚いた。
「偽の証拠?え?それ、行き違いとか誤解とかじゃないですよね?冤罪ですよね?」
「ん?まあ、そうなるかな?」
グラースは相変わらず呑気に答える。
「えっ?偽の証拠でラオプ大森林に捨てられるとか!ええっ?大公どのに相談しませんか?」
「うーん、いや、もう終わったことだし」
「いや、終わってないですよね?証拠も嘘だし、嘘の噂まで流されたんですよね?」
リーリエは義憤にかられた。
「今更いいんですよ。この森の生き物も面白かったし」
「は?面白い?魔獣がですか?」
「はい。人間の言葉みたいな鳴き声を出す蜘蛛とか、全身猛毒の棘がある鳥とか」
「会ったんですか?」
「ん?はい。初めて見ました」
「ナゲキグモにモウドクハリガネドリじゃないですか!この森屈指の危険生物ですよ?」
「そうなんですか?ラオプ大森林て、案外安全なんですねえ」
「え、いや、それは」
グラース王子にとっては、ラオプ大森林の魔獣も単なる珍しい生き物に過ぎないらしい。リーリエは言葉を詰まらせる。
「あ、大公どのからお返事が」
「なんて?」
「特徴を伝えたんですけど、グラース王子様ではないか、ラオプ大森林送りの大罪人だから危ないって」
リーリエは、グラース王子の度はずれの善良さを感じ取っていた。ラオプ大公どのは大森林に罪人が送られる時には、ローゼンブリューテン王国本土から連絡を受ける。通常は森の外縁で魔獣に食われるため、ラオプ大公国への影響は皆無だ。
大公どのとしては、魔獣の森を越えて城壁にまで至る程の実力者であるため、余計に警戒していた。罪人でありながら、騎士や衛兵たちの目を盗み、なんらかの国宝を隠し持っている極悪人なのだろう、と。まして、近づくだけで具合が悪くなる筈のリーリエと会話までしている。怪しいことこの上ない。
「大罪人かあ、そうですよねえ。ラオプ大森林送りですもんねえ、森が楽しくてすっかり忘れてました」
「グラース殿下」
リーリエが呆れると、グラースは訂正する。
「殿下じゃないです。ただのグラースですよ」
「いやまあ、そうでしょうけど。冤罪ですし」
「そうだ、死んだことになりませんかねえ?」
「え?」
グラースはさも良いことを思いついたというような様子で発言する。
「ほら、この森屈指の危険生物に出会ったんでしょう?私は。だったら死んでてもおかしくないですよね?」
「そりゃあ、まあ」
リーリエは飲み込めない。
「私はここには来なかったってことで」
「え、無理がありますよね?」
「森で適当に暮らします」
「何を言い出すんですか」
リーリエは眉間に皺を寄せた。
「もう大公どのに知らせちゃいましたよ」
「そこは、ほら、夢ですって。夢を見たんですよ」
「ええー?」
「時々お喋りに来てもいいですか?」
グラースは話を進める。
「流石にずっと一人だと退屈しそうですから」
「あの、森に住むのは決定ですか?」
「洞窟が良さそうならそっちにしますけど」
リーリエは声にならない音を発した。
「何です?」
「え、洞窟。水晶窟ですか?」
「はい。雨露が凌げそうですし」
「いや、水晶竜がたくさんいますけど?」
リーリエはなんだか自分の方がおかしいような気がしてきた。
「魔法水晶の洞窟、見たいですし」
「そりゃあまあ、綺麗だそうですけど」
「ご覧になったことは、ない?」
グラースは予想外だった。リーリエの強さは肌で感じていたので、水晶竜など相手にならないだろうと思っていたのだ。そもそも小国とはいえ一国の見張りを単身引き受けるなど、正気の沙汰ではない。それくらいのことが解る常識はグラースにもある。
「無いですよ。婚約出来ないんで」
リーリエは少し拗ねた。グラースはその姿を可愛らしいな、と思う。
「じゃあ、ご一緒しましょうよ」
「嫌ですよ、城壁が留守になる」
「交代要員はいないのですか?」
「私がここを離れると魔獣が押し寄せるんです」
「え?」
グラースは目の前が暗くなるような気がした。
「ずっと、たった一人で?」
「たまには家族や友達が来ますよ」
「それ、あなたはそこから出られないってこと?」
グラースは、軟禁状態の少女に心が痛む。見たところ自分よりも年若い少女が、大公国防衛のためにたった一人で閉じ込められているのだ。人間というより、装置のような扱いだと思った。
「時々なら壁の周りは歩けますよ」
「ねえ、私、何とかします、ずっとは無理ですけど」
「何とかって、何をですか」
「ここの守りです。やっぱり水晶窟を見に行きましょう」
「見てどうするんです?用もないのに?私、婚約出来ないんですよ?言いましたよね?」
「水晶窟じゃなくてもいいです、森の散歩でも」
グラース以外にとっては、ここが危険地帯だということがすっぽり頭から抜け落ちているようだ。
「あの、同情は無用です。役に立ってるんですし。婚約は出来ないんですけども」
「じゃあ、婚約しましょう、私、死人ですけど」
「はっ?えっ?何?」
リーリエは理解が追いつかなかった。グラースのほうは、単なる思いつきである。何かしてあげたいという同情心と、自分はもう死んだことにするので、何をしても大差ないという気楽な考えから出た提案だった。
グラースは、結婚について軽々しく考えていたわけではないが、さりとて重々しく熟考した訳でもない。死ぬと決まった追放刑を課された人間である。もう政略結婚はしなくて良いし、運命の恋を夢見るタイプでもなかった。リーリエのくちぶりから結婚したそうだと思ったので、協力を申し出たのである。
「嫌ですか?」
リーリエはキョトンとしている。虚を突かれて、拒否出来なかった。うっかり真面目に考えてしまう。
「どうでしょう?嫌と言うほどではないような?」
「では、試しに水晶窟に行ってみましょうよ。守りはどうにでもなるので」
グラースの自信はハッタリではない。ラオプ大公国を丸ごと守る壁か、迎撃システムかを設置する算段はついている。
「私の今の実力ですと、たぶん10年しか持たないんですけども」
「10年って何が?」
驚かされ続けたリーリエは、ついに敬語が消えてしまう。
「ラオプ大公国まるごとあらゆる攻撃から守る魔法が持続する期間がです」
「えー、いや、はあ、凄すぎてわからない」
「え?貴女ならもっと長く保てますよね?そもそもなんで軟禁されてるんですか?そこに居る必要ないですよね?」
リーリエは簡単なことを見落としていたのだ。自分に人が近づけないことにばかり気を取られていた。自分から人に近づく、つまり、自分が動くことを発想出来なかったのである。近づけば相手が倒れる。幼児期に体験した事実により、自分が動くということ自体を選択肢から外していたのだ。
「あの、わたしにも攻撃を防ぐ魔法が出来るんでしょうか」
リーリエは恐る恐る聞いてみる。
「もしご存じないならお教えしますよ!私も、上級防衛魔法までしか知らないんですが、それでよければ」
「充分です!わたし、魔力を垂れ流すくらいしか能がないので、国防級魔法はきっと無理ですし」
魔法には難易度があり、同じ系統でも入門級から伝説級まで細かく分かれている。上級魔法は、実務に使える最低限のレベルだ。国防級魔法は、その名の通り国防の専門家が使うレベルである。
ただしリーリエは、正確なレベルを理解しているのではなく、国を守るという字面から、なんとなく言っただけだった。
「えっ、ずいぶん高度な伝達魔法をなさってましたよね?」
「高度?そうなんですか?」
「魔力が少ないと、飛ばせる文字数は少なくなりますよ。沢山の文字を正確に速く飛ばせるのは高度な魔法技術です」
グラースはにっこりと笑う。
「自信持って」
リーリエは心が温かくなった。この元王子様は色々とトンチンカンだけれども、心優しい人のようだと感じた。リーリエは、グラースの笑顔が好きだな、と思った。リーリエも思わず笑顔になる。
お忘れかもしれないが、2人は城壁の上と下にいる。恐ろしい魔獣が徘徊する地域のため、城壁は頑丈で見上げれば首が痛くなるような高さ。2人が互いの表情をはっきりと認識できたのは、その高い魔法能力のお陰である。2人ともそのことは、あんまり解っていなかったが。
「ありがとう。では、教えてください」
「はい!じゃ、先ずこの国の全体像を思い浮かべてください」
「待って、もう始まってるの?」
その場で突然始まったレクチャーに慌てて、リーリエの敬語がまたどこかへ消え去ってしまう。グラースは、慌てるリーリエが愛らしいと思った。
「はい、思い浮かべて」
「え、はい」
その時、自ら様子を見に来た大公どのが精鋭部隊を率いてやってきた。
「リーリエ!無事かぁぁ!」
「あっ、大公どの。グラースさま、少しお待ちを」
「死人だから様もいらないよー」
「その件も後で」
リーリエは、城壁内に向かった窓へと移動する。
「大公どの、こんにちは」
「大罪人はどうなった?」
ラオプ大公ヘルツォクどのと精鋭部隊の面々は、壁からかなり離れた位置に留まっている。会話は魔法の風を使う。その位置からなら魔力酔いにならずに済む。
「冤罪なんですよ」
「騙されるな」
「大公どのも話せば解ります」
大公どのは、リーリエの目を覚まさせようと気を揉んだ。
「相手はラオプ大森林送りの大罪人だぞ」
「偽の証拠で陥れられたんです」
「なぜ偽だと解る?」
「直接お話になられては」
大公どのは、国を守る為にも真実は明らかにする方が良いと思った。
「うむ、では私が門を出よう。大罪人を入国させるのは危険だからな」
リーリエは、城壁の防衛魔法装置を起動し、魔力遮蔽の指輪を身につける。城壁の防衛魔法はリーリエよりは弱いが、ある程度の魔獣を遠避ける効果は持つ。この寂しい物見台に訪ねてくる人がある時には、いつもこうするのだった。
「そんなわけで、死んだことにしてくださいませんか」
グラースは大公どのに頼み込む。
「しかしだな、リーリエと婚姻を結ぶなら死人は不味かろうぞ?」
至極真っ当な意見である。
「それはそうですが」
「我が国はすぐ人口が減るから、まあ、一人ぐらいどうとでもなるけれども」
「なるんですね?」
「名前は変わるかも知れないですぞ?」
「はい」
リーリエは蚊帳の外である。
「ちょっと勝手に決めないでください」
「リーリエ、お前に近づける人間など他にいないだろ」
「そうですけど」
「私は大歓迎ですよ。可愛いし。才能あるし。強いし」
リーリエは困惑する。
「さっき会ったばかりでしょう」
「王族の婚姻なんて、結婚式当日に初めて会うことだって普通ですよ」
「いやわたし、王族じゃないですし」
「私なんか死人ですよ」
リーリエはため息をつく。
「それじゃ、練習を再開しますか」
「何です、それじゃって」
「先ずは城壁を離れられるようになりましょうよ」
「そうだな、では他のことは後日。書類は準備しておこう」
ラオプ大公どのは、すっかりグラースと意気投合したようだ。
「ちょっと!他のことって何ですか?何一つ決まってないですよね?」
「いや、私が王子としては死んで、ラオプ大公国民になることは決定ですよ?」
「はあ、そうでしたか」
リーリエはだんだん疲れてどうでもよくなって来た。
「ほら、大公国の全貌を思い浮かべて」
グラースは何事も無かったかのように指導を続ける。
夕方、リーリエは防壁魔法を成功させた。
「うん、完璧」
「ありがとう」
いつの間にか2人は気軽な言葉遣いでやり取りをするようになっていた。
「じゃ、行こうか」
「どこへ?」
「え?水晶窟だよね?婚約の証をつくんないと」
グラースはいそいそと森の方へ向かう。
「押し付けがましいよね」
リーリエは口を尖らせながらも着いて行く。
「やっぱりやめとく?」
「別に行ってもいいけど」
春の月は朧に、枝の隙間から覗く。亜麻色と夕焼け色の巻き毛は暗緑色の葉蔭を漂う。絡み合う蔓花には牙があり、枝に香る小花は耳障りな音を立てる。2人は森を賑わす魔法植物には目もくれず、時に前後し、時に並んで水晶窟を目指す。
菫や野薔薇も香りを強め、森の小川は宵闇の中で冷たく光る。襲いくる魔獣を蹴散らしながら、微笑み交わす若い2人は、涼しい顔で夜のラオプ大森林を進んで行った。