七十五話 それぞれの想い
あまりにも真っ直ぐな愛の言葉を口にしたサグアス王子。
その体はクロエを向いているのに、目はエンジェラをまっすぐに見据えている。
エンジェラが、ひゅっと息を吸い込んで、両手で自分の口を押えた。
「レイヴン嬢。そなたには、心から詫びねばならぬ。そなたは私と婚約してから、およそ八年もの間、いつか妃となる者として、絶えず己を律し、努力を重ねていた。その献身を決して軽んじてはおらぬ。しかし、此度のことが起こらずとも、いずれ私はそなたに婚約解消を申し入れるつもりでいたのだ。たとえ、その結果、平民に落ちようとも」
「……」
クロエは絶句していた。エンジェラは顔を真っ赤にして、喜びのあまりか目に涙をにじませている。
「私はかつて、この世に面白いことなど存在せぬと思っていた。だが違った。この世は興味深いことや美しいもので溢れている。そう気づかせてくれたのだ、エンジェラが」
初めてなのだ、と掠れた声でサグアス王子は言葉を募らせる。
「初めて、欲しいと願う存在ができた。私には、エンジェラなき人生がもはや想像できぬ。謝って許されるとは思っておらぬ、この命と、エンジェラを手放す以外であらば、いかなる代償であろうと支払おう。必要であらば、他の王子に嫁げるよう、掛け合おう。……この通りだ」
熱烈な愛の言葉を述べた末に、サグアス王子は頭を下げた。
「……っ、そんなもの! 私は求めていませんわっ!」
耐えかねたように、クロエの悲痛な叫びが響き渡った。
「何のために、私がこれまで頑張っていたと思っていらして? サグアス様、貴方の隣に立つためですのよ! 貴方がいなければ、王子妃の立場など無に等しいわ! 侮らないでくださる!?」
勢いで言い放ったクロエは、喉を震わせたまま、息を吸って、大きくゆっくり息を吐く。それは、必死に自分を落ち着けているようだった。
「……サグアス様、貴方の気持ちはよく分かりましたわ」
声はまだ少し、震えている。
「私に入る隙は欠片も存在しないということですわよね。結構、おおいに結構ですわ。私のことなどお気になさらず。お幸せに、私は失礼いたしますわ」
言い終わるや否や、淑女らしくもなく、クロエは颯爽と歩きだして──もはや走り出しそうな勢いだ──教室を出て行く。
その後姿が、少し前の自分の姿に重なって。
「……サグアス殿下。彼女を、追いかけてもよろしいでしょうか」
サグアス王子は、私がエンジェラの護衛役と知っているから。この場だけエンジェラのことをお願いしてもいいかを尋ねると、うむ、と頷かれた。
「……エンジェラに出会えてようやく、彼女の抱いていた思いを理解した。もはや、私には何もできぬ。レイヴン嬢を頼んだ。そなたが戻るまで、エンジェラとともに待っている」
「感謝します」
軽く頭を下げて、私は教室を出た。
*
教室を飛び出したクロエは、案外近い所にいた。廊下を進んで、曲がった先。人気が少なく、ひんやりと暗い空間が広がっていた。
こちらに背を向け、立ち尽くしている。その背中は、落ち着きを取り戻そうとしているのか、震えながら大きく深呼吸を繰り返していた。
「クロエ様」
「どうして来たのよ。笑いにいらしたの」
「いえ」
「どうせ私は負け犬よ。いいえ、当て馬とでも言うべきかしら? 馬鹿みたいね、一方通行の想いでこうも感情を荒げてしまうだなんて」
クロエの後ろ姿に、自分を重ねてしまった理由が分かった。いつだって感情を隠そうとするところ。本当は素直になりたいのに、なれないところ。自分とは真逆な素直な女の子に、好きな人を搔っ攫われてしまったところ。
「私の場合、当て馬にすらなれませんでした」
こんなの、ただの傷の舐め合いだ。けど、何も言わずには居られなかった。
クロエが振り向く。目元が赤く染まっていた。
「……あなたもなの?」
「……」
自分から言いだしたけど、そうですとは正直言いたくなかった。口をつぐんだ私に、察したのかクロエはふっと笑う。
「ふ、ふふ。そうなの。おかしい。私、あなたは勝ち組だと思っていたのよ、ふふふっ」
こぽこぽと泡がわいてくるように、クロエが笑いを零す。同時に、ぽろりとその紅葉色の瞳から涙がこぼれた。あとから、あとから。ぽろぽろと、流れ続ける。
「ふふ、馬鹿みたい、何が悪かったのかしら」
「悪い所があるとしたら、可愛げがない所、でしょうか」
「うふふ、それ、自分の事を言ってらっしゃるの?」
「クロエ様、私達って似ていると思いませんか」
「ふ、本当、ひどいわ、リラさんったら、ふふっ」
笑いながら涙を流すクロエは、歪に見えた。
目が真っ赤なのに笑い続けて、感情がちぐはぐ。見ていて痛々しかった。けれど、泣いている姿は美しくて。
私の言葉と裏腹に可愛げに溢れていて、少し羨ましいと感じてしまった。
***
春休みが終わって約二週間、笑ってしまうほど平穏な日々が続いていた。
あの日傷ついていたクロエも元通り、エンジェラは相変わらず毎日楽しそうだ。ただ、あの日の対話で、クロエに対して思うことはあったようだ。
──謝ったりするのは……流石に失礼だよね。
そう聞かれて、全力で頷いておいた。そんなことをしたらクロエのプライドはズタボロだ。関わらない方が良いよとしか言えなかった。
今日も変わらず授業終わり、エンジェラの教室に顔を出すと、エンジェラとイザーク・ドランケンスが話しながら歩いて教室を出てくるところだった。
「あっ、リラ!」
「モーガンスさん。こんにちは」
「どうも」
「あのね、今日イザーク様に課題を教えてもらいたくて、この後一緒に生徒会室に行きたいんだけど。リラも来る?」
「んー……お邪魔するのは気が引けるし、そこまで送るよ」
「分かった!」
そのままエンジェラの隣について歩き出すと、イザークがちらりとこっちに目線をよこしたのを感じた。
実はイザークはエンジェラの事情を何一つ知らされていないらしく、なのにこうしてエンジェラを毎日朝は送り届け、授業終わりに迎えに来る私に何も言及してきたことはない。実際のところは何か勘づいていたりするんだろうか。
そのまま、別棟まで並んで歩いて、階段で曲がろうとしたとき、上から来た誰かとぶつかりそうになった。
「きゃっ」
「あっ、ごめんなさいっ……って、レイヴン様?」
クロエだった。謝ってきたのがエンジェラだと気づくと、クロエはさっと顔を強張らせる。
目線をイザーク、エンジェラ、私へと順に滑らすと、普段の彼女らしくなくチッと小さく舌打ちをした。
「リラさん。あなた、性懲りもなくこの泥棒猫のお付きをしてらっしゃるのね。見上げた根性だわ、こんな奔放な小娘にずっとついて回るだなんて」
皮肉にまみれた物言いだけど、本心ではないだろう。仕事とまでは知らなくとも、私がエンジェラのことを頼まれているというのは知っているし、エンジェラのことを悪く言っているのも聞いたことがない。……嫌ってはいるようだけど。
イザークのことも気に入らないようだし、気軽に声をかけられる私に鬱憤を晴らすべく軽口を投げてきた、という所だろうか。
愛想笑いで済ませてそのまますれ違おうと思ったけれど、そこにはクロエの言動を見逃せない人が一人いた。
「クロエ嬢。発言の訂正を願います」
「……は?」
「クラインさんは泥棒猫ではありませんし、舌打ちも今の物言いも、理想の淑女と言われる貴女らしくありません。サグアス殿下の婚約者ともあろう方ならば、皆の手本になるような言動を心がけないと」
メガネを指で押し上げながら、至極真面目にイザークは言う。……それも、今のクロエにとっては地雷でしかないであろうことを。
エンジェラも流石に今のがクロエの神経を逆なでることに違いないと思ったようだ。イザークとクロエの顔を交互に見てはアワアワしている。
「殿下の婚約者、ですって?」
冷たい声でクロエが言った。イザークは、その反応に眉を寄せた。
「何か間違ったことでも言いましたか?」
「貴方、何も知らされていないの。いつも仲良しの皆様の中で、一人だけじゃなくって? 可哀そうね」
「何を……」
哀れだと思ってしまった。
クロエの言う仲良しの皆はきっと、リュメル、サグアス王子、ハインリッヒを含めた四人のことだろう。その中でイザークが唯一知らされていないのは、偶然にすぎない。たまたまリュメルは現場に居合わせて、サグアス王子はエンジェラの婚約者となって、ハインリッヒはサグアス王子の最側近として知る権利を得ただけなのだから。
クロエが、ふん、と鼻を鳴らした。
「イザーク様も健気ですこと。貴方が想いを寄せて、ずっと着いて回っていらっしゃるそこの小娘は、どうせ貴方の気持ちには気づいてもいないのでしょう?」
「はっ!?」
「えっ」
イザークが顔をさっと青くする。驚きの声を漏らしたのはエンジェラだった。
やっぱり、イザークはエンジェラが好きだったのか。原作でそうだったから、そんな気は少ししていた。
「なぜ、それを……」
「見てたら誰だって分かるわよ。けれど残念、彼女はもう、サグアス殿下のものになったのよ。本当、馬鹿みたいだわ。貴方だって、所詮利用されているだけなんだから」
ぐっと拳を握りしめて、イザークはクロエを睨みつけた。
「利用なんて、クラインさんはそのような人ではありません! 私の思いが叶わないのは元より分かっています。それでも、一緒に居たら明るい気持ちにさせてくれるような人なんです、クラインさんは! 貴方みたいに下の人を見下す人とは違います。彼女に謝ってください」
クロエがくっと歯を食いしばるのが見えた。止めるべきだろうか。迷っている隙に、クロエは自分を落ち着けるためか大きく息を吐きだす。
「どちらかというと、謝られるべきは私の方だと思いますの。謝罪なんて聞きたくはないですけれどね。それじゃあ、失礼いたしますわ」
言うが否や、クロエは私たちに背を向け、階段を下りて行ってしまった。
明言はしてないけどナチュラルに暴露するクロエ様。




