六十話 追憶
「お前にとって、価値のある人間、価値のない人間がいるだろう。お前の中でその二つに分けられるのだとしても、その価値観は人によって違うんだ。お前が簡単に殺してしまえる命は、相手にとっちゃぁ、それはそれは大事なものだ。だから抵抗する。お前を殺すことで守れるなら、お前を殺そうとする。な、お前だって死にたくないだろう? 殺されそうになったら反撃するだろう?」
尋ねられて、私は小さく頷いた。
「同じだ。だから、お前が誰かの命を操ろうとするとき、相手も同じつもりだと心しておけ。相手が自分を殺そうとしているのに、油断なんて出来るわけがねぇよな?」
覚悟が足りない。本当に、そうだった。私が精神操作をしてアイーマから追い出すだけのつもりだったことを、アコニツムが分かるはずがない。私が彼を殺すつもりと考えて、彼は私を迎え撃ったのだ。
「人に殺意を向ければ向けるほど、それは回り回って自分に返ってくる。だから、無闇に殺すなと言ったんだ。お前は今でも強いし、これからもっと強くなる。だがな、ライラック。驕るなよ。お前が他人の命を握っている時、そいつも同様にお前の命を握っていると考えろ」
ダチュラはまっすぐに私を見つめてきていた。黒ずんだ血のような、朱殷の瞳。鋭い光と気迫を宿したそれから目を離せず、私は頷いた。
「分かったか?」
「わかった」
素直に返事した私に満足したように、ダチュラは笑った。
「そーか。じゃあ、一つ成長した証にこれをやる」
そうしてダチュラが差し出したのは、ダガーだった。魔力で強化しなければまだまだ弱い子供の腕でも、十分振りやすい細身の短剣。鍔にはめられた、青紫の透き通った小さな石が輝いていた。
鞘から抜くと、傷一つ無い真っ直ぐな刀身が現れた。
「お前、普段ほとんど武器は使わねえだろ。一つ持っておけ、お守り代わりにもな。これくらいの軽さなら、常に携帯してても邪魔にはならねぇだろうよ」
ダチュラが言った。
その柄を握ったときの感情は、自分でもよく分からなかった。訓練で誰かを負かした時とも、任務で期待以上の成果を得られた時とも違う。ただ、ダチュラによくやったと頭を撫でられる時と似たような感じがした。
今なら分かる、本当に嬉しかったのだ。ダチュラが、知識や技術以外に永く使い続けられる物をくれたことなんて、後にも先にもそれきりだったから。
それ以降、私はいつもそのダガーを持ち歩いた。ダガーを携帯するようになってから、なんとなく自分が強くなった気がした。
実際にダガーを使ったことは、実は両手足の指で数えられるほどだ。けれど常に身につけ、何かある度に柄を握り、気がつけば何よりも手に馴染む存在になっていた。
そのダガーは今、学院の寮のクローゼットで眠っている。
鍔にはまった石は、暗闇でも菫青色の光を放つ。そう、まさに今日私が作った核石のように。
電気を消した夜の部屋は、ほとんど真っ暗だ。同じ部屋で眠るウィスティの寝息だけがらかすかに聞こえる。
その中で、先程魔力で一部溶かし穴を開けた核石は、暗闇で光る蛍のように淡く柔らかく光を放っている。穴にはエルマに貰った編み紐を通した。紐部分を持って空に吊るすようにすれば、ゆらゆらと淡い光が揺れる。
ぼーっとそれを眺めていたら、無性に久しぶりにダガーが触りたくなってきた。
音を立てないように気をつけながらベッドを抜け出した。
部屋のクローゼットの前に立ち、開ける。ダガーは、一番奥にしまいこんだ。探せばすぐに出てくるそれを持って、ベッドに再び潜り込む。
学院に編入してから、およそ半年。その間、一度も触らなかった。手入れすらしていない。
時間が立つのは早い、と思いながら半年ぶりに触るそれの鞘に指を滑らせると、呼応するように鍔にはまった菫青色の石が煌めいた。その輝きはやっぱり、核石と似ている。けれどこっちの方がもっと色が深く、光は強い。それと、これに触れていると魔力が増えるような気がなんとなくするのだ。この感触は、昔から変わらない。
ダガーを握ったまま、目を閉じる。
なんだかとても落ち着く気がした。
*
「入れこみすぎるなよ」
唐突にそう言われて、びくりとする。見上げると、バーカウンターに座り、酒の入ったグラスを手に、ダチュラが私を見下ろしていた。
「上手くやれてるのは、良いことだがな。反りが合わない人間と同室で過ごしても、ストレスにしかならねぇからな」
少し考えてから、私は首を傾げる。
「入れこみすぎる? なぜ」
「気に入ってんだろ、ルピナスのこと」
ダチュラが、私の額を軽く小突く。とっさに額を手で押さえるけれど、痛くなかった。
あれ、夢だ、と気づく。
そうだ、これは夢だ。だって、このダチュラの言葉、覚えがある。ルゥーがアイーマに来てしばらくした頃に言われた。まだ、ウィスティに会うよりも前。
ダチュラが自分の膝をぽんと軽く叩いたから、私は高めの椅子に座るダチュラの膝によじ登った。ダチュラの胸に背を預けるようにして、膝の上に座る。この体勢は、小さい頃によくしてくれていた。大きくなるとその頻度は減って、けれどダチュラがたまに許してくれると喜んで乗っていた。
「ライラック、お前は、大切な人を作んなよ……」
小さく、呟くようにダチュラは言う。
頭の上に重みがかかった。ダチュラが、顎を乗せてきたのだ。
「どうして」
「失くしたくねぇもんを持つと、人は弱くなるのさ。それは言っちまえば、弱点だからなぁ」
「……弱くなる、なら、欲しくない」
変な気分だ。意識は大きくなった今の自分なのに、体は記憶の通りに動く。それだけでなく、当時の感情まで蘇ってくるようだった。
大切なものが弱点になるとは、命に代えてでもそれを持っていたいということか。いやだ、そんなものは持ちたくない。生きることの優先順位を下げてしまうような、そんな愚か者にはなりたくない。
そんな思いで言った言葉に、後ろでふ、とダチュラが笑った。
「そーだな、俺もお前には作ってもらいたくねぇ。お前が弱くなって死んじまったら困るからな」
その口調は、「作るな」と言う割には柔らかくて。その存在を疎ましく思っているようには到底思えなくて、私はダチュラの顔を見ようと振り向いた。
「ダチュラは、あるの」
「そうだな」
ダチュラは微笑む。私の頭に手を乗せて。
「昔は、んなもの無くても生きていけると思ってたのに、今はもうそれが無い人生なんて考えらんねぇな」
「……必要なもの? いらないもの?」
「生きていく上で必ず必要かってことなら、要らねぇよ、別にな。けど……そういう存在ができると、多分価値観が変わる。その変化が嫌か嬉しいかはそいつ次第だろうよ」
「ダチュラは、どっち?」
「さぁ、どうだろうな」
ダチュラは小さく鼻を鳴らし、答えなかった。私が来てから手をつけていなかったグラスに手を伸ばし、一気に呷る。
なんとなく、ご機嫌だなと感じた。ダチュラにとってその変化は、きっと良いものだったのだろうと思う。
けれど腑に落ちないことがあってダチュラの顔を眺めていると、彼は眉を上げた。
「不満そうだな?」
ダチュラにとって良かったことを、どうして私の場合は止めるのだろう。そんな疑問が、顔に出ていたに違いない。
ルゥーたちに散々、前世の記憶を思い出す前の私は無表情だったと言われてきたけど、ダチュラは私の思ったことを読むのが本当に上手だった。
「ダチュラの良かったこと、なんで私は止めるの」
ダチュラは困ったように、小さく笑った。
「……全部、俺のわがままだな。お前に、大切なもんを作んなって言うのはな。俺自身が、作っちまった故のな」
私を見下ろすダチュラの眼差しは、優しい。なんだか無性に気になって、焦れたように尋ねた。
「ダチュラは、私のこと、大切?」
ダチュラはまた、小さく笑う。そして、口を開く。
──聞こえない。
ダチュラがなんと言ってるのか、分からない。
これは私の記憶だ。ダチュラはなんと答えたんだっけ? ──思い出せない。
視界がぼやけていく。ダチュラの姿が、霞んで見えなくなる。
──ぱっと目を開く。
見慣れた、学院の寮の部屋の天井だ。
まだ部屋は暗く、ウィスティの静かな寝息が聞こえる。
寝落ちする前にクローゼットから出してきたダガーは、しっかりとまだ握りしめていた。
鍔の石をなぞる。
──決めた。
ダチュラに、会いに行こう。




