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ウィスティ編最終話です。
「はじめ」
ライラックの合図で、アキレギアが動き出す。ヴィヴェカの目には、驚くほどにその姿がゆっくり動いているように映った。
手加減のない、力任せの攻撃。しっかり見極めたら、避けられる。
信じられないほどに、体が軽かった。なんだか行けそうな気がした。
しゃがんだヴィヴェカの頭の上を、ぶんっ、とアキレギアの腕が空を切る。その瞬間、ヴィヴェカは、魔力を伸ばした。藤色の光は素早く空気中を走り、アキレギアの片足に絡みつく。
バランスを崩したアキレギアは、咄嗟に手を床に着こうと伸ばす。その先に、床についたヴィヴェカの長い髪があった。
それに気づかずヴィヴェカは、アキレギアが倒れてくる先から逃げ出そうと立ち上がる。
その瞬間、くんっ、と髪を引っ張られる感触があった。
途端、体が固まる。見れば、床に広がるヴィヴェカの長い髪の上から、アキレギアの手が押さえつけていた。
アキレギアはあからさまにヴィヴェカの動きが鈍ったのに気づくと、ニヤリと笑った。
躊躇いなく掴まれる髪。それを思い切り引っ張られる。勢いよく、体ごと引っ張られる方向に倒れ込んだ。アキレギアは髪を離さない。頭に尋常じゃない痛みが走る。
痛い痛いいたいいたいいたいいたいいたいいたい。怖い。ごめんなさい。ごめんなさい。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ」
悲鳴が聞こえる。うるさい。
「そこまで」
ライラックの声が聞こえた。
悲鳴はやまない。うるさい、いやだ、いたい、こわい、ごめんなさい。
「──ステリア、ウィステリア!! 大丈夫だ、落ち着け!」
揺さぶられる。覗き込んでくる躑躅色の瞳が、焦ったように光っている。
ルピナスだ。
悲鳴がやんだ。それが、自分の口から出ていたものだと、ようやく気づく。
「ウィステリア、聞こえるか? 大丈夫だからな。ゆっくり息をしろ」
言われた通り、ゆっくりと息を吸い、吐く。また息を吸い、吐く。
なんだか、もう疲れた。視界が暗くなっていく。
そのまま、ヴィヴェカは意識を失った。
*
目を開くと、見慣れた天井が目に入る。
意識を失う前の記憶が蘇り、ヴィヴェカは泣きたくなった。
どうして、上手くできないのだろう。普段の訓練のときより、良く見えていた。体も軽かった。なのに、髪を引っ張られた途端、あのザマだ。もう、過去に引きずられたくなんかないのに。
ぎゅっと、かかっていた毛布を引っ張り、頭までかぶる。
「ウィステリア? 起きたのか」
ルピナスの声がした。驚いてヴィヴェカが顔を出すと、ルピナスはヴィヴェカのベッドの端に座り、半身をひねるようにしてヴィヴェカの顔をのぞきこんでいた。
「調子はどうだ?」
「……」
大丈夫の意を込め頷くと、ルピナスはほっとしたように笑った。
「そうか、よかった。怪我はしてないはずだけど、痛いところとかあればすぐに言えよな」
なんでもないようにルピナスが言う。
ヴィヴェカは、気になっていたことを尋ねた。
「……わたし、どれくらい」
「気を失っていたかって? 三時間くらいかな。そんな長くねぇよ、大丈夫。俺達、まだ訓練の途中なんだ。休憩ついでにお前の様子見に来ただけ」
「訓練って……まだ、アキレギアと?」
ヴィヴェカの質問に、ルピナスはあー……と言いづらそうに頬をかいた。
「いや、普通の訓練。アキレギアはな……あの後、ライラックによって再起不能にされた」
「……?」
意味がわからず首を傾げたヴィヴェカに、ルピナスは説明する。
「いつもだったら、秒速で意識を刈り取るだけなんだよ。今日はライラックの奴、結構怒ってたみたいでよぉ……昏倒させることなく、瞬速でアキレギアの両手足の骨を折って、アキレギアは痛みで失神してた」
「……は」
正直意味が分からなかった。
その言葉の裏は何を指すのか──考えても分からないならばそれはつまり、言葉の裏でもなんでもなく、言葉通りの意味ということ。
「骨……を、折った……?」
「そう、両手両足のな。お前が意識を失ったあと、アキレギアの奴、所詮はガキだなとか、こんな弱ったらしいとすぐ死ぬぞとかって、お前のこと馬鹿にしてたから怒ったんだと思うぞ」
くすくすと、イタズラが成功したような顔でルピナスが笑う。
自分を馬鹿にしたから、ライラックが怒った……? にわかには信じられなかった。
けれどそれを否定するのも何となく憚られて、ヴィヴェカは黙ったままルピナスを言葉を聞く。
「今日はもうこのまま休んどけってライラックが言ってた。さっきのアキレギアとの対決、結果はあんなだったけど、最初はすげぇ良かったぞ」
ルピナスはくしゃっとヴィヴェカの髪をかき混ぜると、立ち上がって「じゃあな」と言った。
「俺、そろそろ行くから。ウィステリアはゆっくりしてろよ」
ヴィヴェカが頷きを返すと、ルピナスは目を細め、部屋を去っていった。
***
次の日はいつも通りの訓練だった。ライラックとルピナスの様子は、いつもと何ら変わりはない。けれど、ヴィヴェカはつい、気になってライラックの方をチラ見してしまった。
それに気づいてか、気づかずか。その日の訓練の終わりに、もうかなり疲れてきているヴィヴェカの前に立ち、ライラックは言い放ったのだ。
「ウィステリア。手合わせして」
「……え」
今から? もう、体力だって、ほとんど残っていないのに。
「ライラック、今からはないだろう。もうウィステリア疲れてんだから、明日にしろよ」
「だまって」
ぴしゃりとライラックが言った。
「いざという時、疲れは言い訳にならない」
──いざと言う時。ヴィヴェカはまだないが、ライラックとルピナスのように『任務』に出た時、ということだろうか。
何にせよ、ヴィヴェカに拒否権はないらしかった。
渋々、ライラックと向かい合って立ったヴィヴェカに、ライラックがルールを説明する。
「魔術、体術、両方可。一度でも攻撃を通せば、ウィステリアの勝ち」
随分と甘いルールだ。けれど、ライラックに一撃をくらわすのがどれほど難しいことか、知っている。
ライラックは自分の勝利条件を言わなかった。それはつまり。
(わたしが勝つまで、終わらない)
気遣わしげにしていたルピナスが、諦めたように溜息をつき、手合わせの始まりを告げた。
「はじめ」
ライラックは動く様子がない。
ヴィヴェカは、キッとライラックを見据えて走った。
単純に攻撃したって、かわされて、隙をついて攻撃されるだけ。ライラックはいつも、どうやって動いていたっけ。考えろ。
攻撃直前まで、動作は見せない。なるべく魔術と体術は同時使用し、少しでも相手が隙を見せたところをつく。攻撃は受け流す、もしくはかわす。
正直、魔力での攻撃が通用するとは思わない。だけど、撹乱のためなら使える。
生身の魔力の、一番効果的な使い方は、体の動きを封じることだ。
ライラックの足を絡め取ろうと、魔力を伸ばす。しっかりと絡みついた感触を認識しながら、勢いよく飛び上がり回し蹴りを放つ。
ライラックの脇腹に当たるはずだった脚はしかし、見事に空を切る。絡めとったはずのものはライラックが実体化した棒切れだった。ヴィヴェカの向かう正反対の方向に、ライラックは立っている。
一瞬動揺するも、想定範囲内だ。次の動きを考えながら着陸した時だった。
ぎゅっと、髪を引っ張られる感じ。
ライラックが、ヴィヴェカの長い髪を握りしめていた。
──ああ。どうしよう。
引っ張られてもいない。大して痛くはない。なのに、恐怖で体が竦む。動けない。怖い。ごめんなさい。
「自分の弱点が分かっているなら、捨てればいい」
不意に、ライラックが口を開いた。
「絡まって動けないなら、切る。それだけ」
──え?
それは、一瞬の事だった。
ライラックに髪を引っ張られている感覚が、フワッと消え失せる。
ライラックが髪を離した──訳では、なかった。ライラックの手にはまだ残っている、濃紫の髪。
代わりに、頭が軽い。物心ついたときからずっと感じていた重みが、ない。
ぶるぶるっと犬のように首を振ってみれば、顔に当たる、短い毛先。手で触れてみれば、髪は顎より下でバッサリ短く切られてしまっていた。
「弱点を捨てれば、強くなる」
そう言ったライラックの手の中にあるヴィヴェカの髪に火がつく。燃えてゆく。
切られた。──髪を、切られた。
「──おいっ、ライラック!! おまえっ、なんてことを──」
憤慨したようなルピナスの声も、耳に入らない。
──わたしの、髪を。大切に伸ばした髪を。ママが、大切に伸ばしていた髪を。
切られた。
かっと頭の中が、一瞬で燃え上がるように熱くなる。
「うぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛」
獣の唸り声のような声を上げながら、ヴィヴェカはライラックに向かって突進した。
何も考えられない。ただ、怒りに突き動かされ、我武者羅に攻撃をした。気づけば、手の中に短剣があった。無意識のうちに実体化した剣だった。実体化に成功したのは、初めてでもあった。
しかし短剣があったとて、我武者羅に振り回しても攻撃が通るものでもない。同じく短剣を実体化して応戦してきたライラックの一振で、手の中から武器は弾き飛ばされてしまう。
ヴィヴェカはぎゅっと目を瞑り、下からライラックの顎目掛けて頭を振り上げた。
ガンっと頭頂部に伝わる、鈍い痛み。勢いを殺しきれずライラックの方に倒れ込めば、ライラックとヴィヴェカは二人もつれ合って地面に倒れた。
「おい、大丈夫か!」
ルピナスが、駆け寄ってくる。
下に倒れたライラックが上体を起こし、ヴィヴェカはその上に座り込むような体勢になった。
ライラックはじっと、ヴィヴェカを見つめてくる。ヴィヴェカは、ライラックを睨みつけた。
頭が軽い。髪が短くなった。母が伸ばしていた髪が。ヴィヴェカの全てであった髪が。
どうしてくれる。
ライラックが、手を伸ばしてきた。負けるものかとヴィヴェカはぐっと唇を引き結び、いつでも反撃できるようにと手を構えた。
しかし、ライラックは、さらりと短くなったヴィヴェカの髪に触れるだけだった。そして、ふ、と小さく息を漏らす。
「やるじゃん」
ふわりと体が持ち上がり、気づけば立っていた。それがライラックの魔術によるものと気づいたときにはもう、ライラックは立ち上がってこちらに背を向けている。
「訓練終わり。じゃあ」
音もなく去っていくライラックの背中を見つめながら、ヴィヴェカは戸惑っていた。
ライラックの反応に拍子抜けして、怒りはとうに消え失せていた。
そばに立ったルピナスを見上げると、彼も目を丸くしている。
「今、笑ってたな、あいつ」
「……」
どう反応したらいいか分からず、ただただ頷くだけのヴィヴェカに、ルピナスはほっと安堵のため息を漏らした。
「ライラックがいきなりウィステリアの髪を切った時は、なんてことすんだって思ったけど……短い髪も似合ってんぞ、ウィステリア」
そう言って、ルピナスはライラックと同じように髪にそっと触れたあと、優しく頭を撫でてくる。ヴィヴェカは何も言わず、そっとはにかんだ。
***
「あー……ウィスティの髪、ほんと気持ちい……代わってよ、羨ましい」
「無理」
リラの言葉をすげなく断ると、はぁ〜とリラは本気で落胆したようなため息をついた。
ソファに座るリラの真ん前、ソファに背を預けて床に座るヴィヴェカは、髪を触ってくるリラの手の動きに身を任せて後ろにもたれかかった。梳くように、髪を何度も通っていく指の感覚が心地よくて、目を閉じる。
梳くだけに飽きたのか、リラが勝手に髪を編み始めた。緩く引っ張られる髪。強くしないように、細心の注意を払っているのが分かる。リラがヴィヴェカの髪を触ってくる時は、いつもそうだ。
別に、少し痛くても、もう全然平気なのに。そんなことを思えど、口にはしない。たまに意地悪なときもある姉貴分に大切にされているのを実感するからだ。やたら可愛い可愛いと、鬱陶しく絡んでくる時とは違い、ヴィヴェカはむしろこの時間が好きだった。
昔──出会ってすぐの頃のリラは、当たり前ながら今とは全く違ったな、と思い出す。
彼女の口からぽんぽんと軽快に言葉が飛び出すことも、へらりと取り繕うように浮かべられる笑みも、あの頃はなかった。そして、何よりも──多分あの頃のリラは、ヴィヴェカの事が嫌いだった。いつも無表情で何を考えているのか分からないなりに、リラのシグムンドとヴィヴェカの扱いの違いに拒絶を感じていた。ヴィヴェカこそ、優しくしてくれるシグムンドから引き離そうとするリラは怖くて嫌いだったけれど。
リラが嫌っていたのはヴィヴェカの弱さなのだと気づいたのはいつだったろうか。強がりだけど優しくて臆病な性格。弱いものが淘汰される世界で幼い頃から生きてきたリラは、大切なものを失うことを酷く恐れているのだろう。だからこそ、失われやすい弱いものを大切にすることを厭い、弱さを嫌う。
リラのそういうところに幼いヴィヴェカは救われたし、今も変わっていないところだ。
リラがあの時無理やり髪を切ってくれたからこそ、ヴィヴェカは縛られていた過去から、絡みつくトラウマから逃れられた。
そんなことは全然考えず、単に弱点を代わりに切り落とすことしか考えてなかった、と後々リラは笑っていたけれど。
母が金になるからと伸ばしていた髪。ヴィヴェカを売る前に切ればよかったものを、そうしなかった訳を、ヴィヴェカは知らない。けれど、あの長い髪がなければ、今のヴィヴェカは無かっただろう。
ヴィヴェカが売られて程なくして、ダールベルク男爵家は取り潰されたらしい。今、あの家族がどうしているのかは知りようもないけれど、母の行動に感謝するくらいには、今の自分が気に入っている。
「ウィスティはさ、髪伸ばさないの? 昔からずっとこれぐらいの長さでしょ。なんか理由でもあんの?」
ふいに、リラが尋ねた。単純に疑問に思ったような口調に、ヴィヴェカは小さく笑う。
「別に。楽だから」
ライラが、この長さに切ってくれたから、ずっとこの長さで維持している──なんてことは、一生言うつもりはなかった。
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