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「……切れば?」


 いつもは無言でさっさとヴィヴェカを置いて行ってしまうライラックが、珍しくヴィヴェカに話しかけた。

 二日に一回、入浴の時間。浴室と水桶は存在するが蛇口などはなく、自分で魔術で水を作り出さなければ体一つ洗えない仕様。今でこそそれくらい出来るようにはなったが、最初何も出来なかったヴィヴェカのために、ライラックは入浴を共にし、水を用意してくれていた。今でもなんとなく入浴は共にしているが、これまでライラックが話しかけてくることなど、ほとんどなかったのに。

 驚いたヴィヴェカが顔を上げると、ライラックはヴィヴェカを見下ろして、自分の髪を指した。


「長いの、邪魔でしょ」


 洗っている最中で泡まみれの長い髪をはっと抑えて、ヴィヴェカはじりじりと後ずさった。


「洗うにも、時間かかるし、動きも、制限される」


 切る? 髪を? どうして。

 確かにアイーマに来て、当たり前だが母が使っていたような髪に良い石鹸などはないため、髪質は悪くなった。艶は失われてきて、毛もパサパサするようになって来た。

 けど、だからって、それを切ってしまったら。


『いい、ヴィヴェカ。長く、美しく伸ばしなさい。あなたの髪は、あなたの存在意義よ』


 母の言葉が耳の奥で響く。どんどんそれは大きくなって、ヴィヴェカは耳を押さえてうずくまった。

 ごめんなさい。キレイに保てなくって、ごめんなさい。ぼろぼろになっちゃってごめんなさい。こんなところでも、もっとキレイに出来るように頑張るから。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。


 ライラックの言葉は、もう耳に届かない。それを察したライラックが、何も言わずに去って行ったことにも、ヴィヴェカは気づかなかった。


 *


 結果として家族に捨てられてしまった今、この長い髪に何の価値もないことは、ヴィヴェカにだって分かっている。それでもこの髪を捨ててしまえるかどうかは、ヴィヴェカにとって全くの別の話だった。

 冷静になってみれば、ライラックが言ってきたことは全くもってその通りだ。そんなことも分からないくらいに、髪を短く切るという案に頭が真っ白になるのは、一重にヴィヴェカが母の言葉に縛られているから。自分で分かっていても、何とかなるようなものではなかった。

 次の日の訓練の時も、ライラックに何か言われるんじゃないかと、必要以上にビクビクしてしまう。ライラックはいつもと同じ、何を考えているのか分からない無感情な眼差しで見つめてくるだけだった。


 正直、ヴィヴェカはライラックのことが苦手だった。兄姉達とは違って理不尽に暴力を奮ったりはしないけれど、訓練はとにかく容赦がないし、ルピナスみたいに優しく笑ったりしない。

 それどころか、怒っていたり悲しんでいたりしても多分分からない。そう思うほどにライラックはいつも無表情で、何を考えているのか分からず得体がしれなかった。

 ルピナスは、ライラックは良い奴だと言うが、ヴィヴェカはそれに頷くことは出来なかった。ルピナスがヴィヴェカに優しい声をかけて色々面倒を見てくれている時、ライラックはじっとこちらを見ている。そして、十回に一回くらいは声をかけてくるのだ。


「甘やかしても、意味無い」

「いつまで、そうやって馴れ合うつもり?」


 そう言われると、ルピナスも仕方なさそうな顔で離れていく。

 本当は、ライラックは二人を見ながら毎回そう言いたいんじゃないかと、ヴィヴェカは思う。ライラックはきっと、ルピナスに纏わりつくヴィヴェカのことが気に入らないに違いない。そう思っていた。


 *


 浴場でライラックに声をかけられた日から数日。その日の訓練は、いつもとは大きく違った。


「今日はアキレギアとの、合同訓練」


 ぼそっと呟くようにライラックが告げたそれに、ルピナスはあからさまに嫌そうな顔をした。


「合同訓練って名の、決闘か」


 ライラックはこくりと頷く。

 意味がわからず戸惑うヴィヴェカに、ルピナスが教えてくれた。


「こういうの、たまにあるんだ。俺たちは子供だけど、ダチュラに色々面倒見てもらってるだろ? ダチュラ、ああ見えて偉いやつだからさ、組織の構成員の中にはダチュラに目をかけてもらってる俺たちが気に食わないって思う奴がいるわけ。どうせ子供だから大したことできないくせに、ってな」

「……」


 なるほど、とヴィヴェカは頷く。自分より下の立場の人間が自分より高待遇を受けるのが気に食わない、みたいなことだろう。


「だから、合同訓練ってかこつけて、俺たちに決闘みたいなのを挑んで、ボコボコにしてスッキリしたい脳みそガキの奴らがいんだよ。あ、決闘は分かるか? 魔術も体術もなんでもありの戦いな」


 嫌そうに吐き捨てるルピナス。いつも自分に優しくしてくれるルピナスが見せるその態度に、ヴィヴェカは驚いた。


「アキレギアって奴も、とにかくいたぶるのが好きだから。ウィステリアはまだ勝てねぇと思うけど、とにかく怪我はしねえよう気をつけろよ」


 不安を抱きながらも小さく頷くヴィヴェカを見てどう思ったか、ライラックが小さくため息をついた。


「ルピナスが一番、ウィステリア二番、私、最後。アキレギア、魔術はそこそこ、戦い方は単純……だから、動きを、見極めて」


 それは明確にヴィヴェカに宛てた助言だった。少し目を見開いてから、自分を見下ろすライラックの目を見て、ヴィヴェカはこくんと頷いて見せた。


 *


 アキレギアは片目に眼帯をつけた、屈強な男だった。

 ルピナスが男と繰り広げる対戦を、ヴィヴェカは言われた通りじっと観察する。

 魔術はそこそこ、戦い方は単純。ライラックの言ったことは確かにそうだった。もちろん、まだまだ魔術を習いたてのヴィヴェカよりは当たり前に上手い。が、ルピナス相手だと、多分いい勝負。魔術の使用よりも力任せの攻撃が多く、ルピナスは繰り出される攻撃を身軽に避けては反撃を繰り返していた。

 長く続く対戦。先に疲れを見せたのはルピナスだ。集中力を切らしたようで、攻撃を避けようとした瞬間、体がぐらついた。その隙を狙い、アキレギアはルピナスの鳩尾に重い拳を叩き込む。ひっ、とヴィヴェカは息を飲んだ。

 ぐっと呻き声を漏らしたルピナスはその場で崩れ落ち、膝を着いた。


「!」


 ヴィヴェカは思わず、ルピナスへと駆け寄る。腹を押さえ悶絶するルピナスの傍にしゃがみこんでから、気づく。アキレギアはまだ、ルピナスを見ていた。異様にギラついた目。固く握られているその拳は、男がまだ終わった気でなんかいないことを告げていた。

 振り上げられる拳がスローモーションのように思える。殴られる。アキレギアの狙いはルピナスだ。だから、ヴィヴェカがルピナスの傍から離れれば、殴られない──はずなのに。

 からだが、うごかない。


「そこまで」


 鋭い声が響く。アキレギアが動きを止めた。


「アキレギアの、勝ち。ウィステリア、試合中の割り込みは、反則。次はしないで」


 淡々と、ライラックが告げる。へへっとアキレギアが下品な笑い声を上げた。


「ルピナス、お前、前絶対勝ってやるとか調子いいこと言ってたくせによぉ。大したことねぇな、やっぱり。俺様に勝とうなんざ、百年はえぇんだよ」


 どくどく、と心臓が嫌に早くなっている。はっはっ、と息が浅くなる。


「ウィステリア。大丈夫か? 次、お前だけど」


 肩に手を乗せられて、顔をのぞき込まれて。びくりとヴィヴェカは肩をふるわせた。


「具合悪いなら、やめておくか?」


 心配げな顔で、ルピナスが言う。さっきまで浮かべていた苦悶の表情はどこに行ったのか。なんともなさそうな顔のルピナスを見て、ヴィヴェカはようやく息ができる気がした。


「おい、やめるって、そいつぁねぇだろう? 訓練の一部なんだからよぉ、嫌でもやんねぇと。ルピナス、てめぇに決定権はねぇんだから、黙ってろ」


 アキレギアが口を挟んできた。チッ、とルピナスは苛立ったように舌打ちをする。


「本当に、無理はしなくていいんだからな。嫌なら言えよ。ライラックがなんとかしてくれる」

「そいつぁねぇだろう、ルピナス。実力主義のライラックが、そんな弱そうなガキの味方をするわけねぇだろうがよ」

「あいつの言うことになんて耳を貸さなくていいからな。ウィステリア、どうしたい?」


 ルピナスが聞いてくる。アキレギアが意地悪そうに笑う。どうしたい? 分からない。わからない。

 ライラックの顔を見る。いつも通り、無表情で静かにこちらを見てくる。もし嫌だと言えば、ルピナスの言う通り、ほんとに味方になってくれる? わからない。もし、それで断られたら。甘えたこと言うな、と怒られたら。


「新入りちゃん、ウィステリアだったよな。アイーマに入ってからの成果、俺様が見てやるよ。優しいお兄さんに鍛えてもらってさぞ強いんだろうな?」


 ニヤニヤと、アキレギアが言い募った。その瞬間、ごちゃごちゃと考えていた頭の中がすっと静かになる。込み上げるのは、怒り。

 この男は、ルピナスを侮辱した。初めて、自分に優しくしてくれた、ルピナスを。

 ルピナスは、悔しそうにアキレギアを睨んでいる。

 ヴィヴェカは心を決めた。

 勝つ見込みなんて、一切ない。けれど。


「やる」


 短く言い切ったヴィヴェカに、ルピナスが目を丸くしたのが見えた。アキレギアが口の端をつり上げる。


「なら、用意して」


 ライラックが言う。ヴィヴェカは立ち上がり、アキレギアを睨みつけた。


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