3
「もう一回」
青紫の瞳が、色が滲むように光っている。見下ろすのは、ルピナスでは無い方の同室の子供、ライラックだ。
「立って」
温度のない声で言われ、ヴィヴェカはゆっくりと立ち上がった。足が、ぶるぶると震える。
時間の感覚は正直無いけれど、アイーマに来ておそらく数ヶ月はたった気がする。ようやく少しずつ慣れてきた、魔術の練習。ライラック曰く、今している結界を作る魔術は、初歩中の初歩らしい。ライラックの教え方は意外にも分かりやすく、何も無い状態だと案外すぐに結界を作ることが出来た。
けれど、いざ攻撃を前にすると、結界を作れない。恐怖が勝り、魔力が動かないのだ。結界を作ったとしても、ライラックの攻撃によってすぐに消え去ってしまう。ただの魔力が当たるだけの攻撃なのに。体に当たったところで、痛くも痒くもない。なのに、怖い。
講師役のライラックは、容赦がなかった。出来るまで、何度だってやらせる。ヴィヴェカはもうフラフラで、もう一度やったってできっこないと思った。
「結界作って。早く」
言われるがままに、魔力を出す。自分を覆うような、ドーム型の結界を形作っていく。
薄く、魔力を固めていく。強く、誰にも壊せない結界をイメージしながら。藤色の半透明の壁ができた時、壁越しに魔力を放ってくるライラックの姿が見えた。
青紫の光。飛んでくる。ヴィヴェカの方へ。
──怖い。
ぎゅっと目を瞑ったその瞬間、ライラックの魔力が結界に当たり、瞬く間にヴィヴェカの結界は消え去る。衝撃波のようなものが伝わってくる。
足から力が抜けて、ぺたりとヴィヴェカは座り込んだ。
「もう一回」
また、ライラックが言う。
もう無理だ。魔力だってもう動かない。立てる気だってしない。
嫌だと、もう無理だと言いたかった。でも、口答えしたらどうなることか。力の入らない足を動かそうとした時だった。
「もうそれぐらいにしとけよ、ライラック」
そう言ったのはルピナスだった。自身の訓練を中断して近寄ってくるルピナスに、ライラックは無言で目をやる。
「俺と同じ感覚ですんなよ。慣れてきたってったって、お前の思ってるより何倍もウィステリアにとっちゃ過酷な練習だ。限界を見誤んなよ」
「……」
ルピナスの言葉にライラックは座り込むヴィヴェカを見下ろしてきた。無感情な視線に、ヴィヴェカは息を詰める。
少しの沈黙の後、ライラックはくるりと無言で踵を返し、去っていった。
その背中を見ながら、ルピナスはふぅ……とホッとしたようにため息を漏らす。
「大丈夫か、ウィステリア」
振り返って聞かれ、ヴィヴェカは小さく頷いた。
「めげずに頑張るのはいい事だけどな、無理をしすぎるとろくな事にならないからな。自分の限界を見極めることは大事だぞ。あと、もう無理と思ったならきちんと言うこと」
「……」
……もう無理だと、思った。けれど、それを口に出すことがはたして許されるのだろうか。それでより一層ライラックの指導が厳しくなったら?
頷くことも、返事をすることも出来ずにいるヴィヴェカを見て、ルピナスは困ったような笑みを浮かべる。
「……大丈夫だよ、ウィステリア」
ヴィヴェカが何を考えているかも、分からないはずなのに。大丈夫って、一体何が大丈夫なのだろう。
ぐるぐると考えるヴィヴェカに、ルピナスが言う。
「さぁ、ウィステリア。お前の鍛錬は今日はこれで終わりだよ。着替えて、飯食いに行きな」
言い残して、そのまま去っていく。まだ、ヴィヴェカは何も分かっていないのに。
行ってしまう。
「る……ルピ、ナス」
恐る恐る、初めて口にするその言葉を声に乗せる。呼ばれた藍色の髪の少年は振り向き、ヴィヴェカが呼んだことに気づくと、目を丸くしてから嬉しそうに笑った。
「どうした、ウィステリア」
怒られなかった。名前を呼んでも、叩かれなかった。それどころか、笑って答えてくれた。それは初めての体験で、なんだかとても不思議な感じだった。
「魔術……どうやったら、上手にできる、の」
質問なんてすれば、チビの穀潰しは調子に乗るなと、即座に叱られた。でもルピナスは、ヴィヴェカが呼んだ時も笑ってくれた。だから、大丈夫かもしれない。
小さなことでも、大きな勇気の一歩。
ルピナスはヴィヴェカの質問に少し顔を顰める。びくりとするけれど、ルピナスは気づかず、顎に手を当てて口を開いた。
「んー……悪いけど、練習あるのみだと思う。俺だってまだまだ下手だから、コツとかねぇのかなって思うけど……ライラックに聞いたことあるけど、あいつ、物心ついた時からここにいて、魔術を使ってきたらしい。あいつは本当に強いけど、何年も前から魔術練習してきたんだと思うと納得だろ。俺だって、一年でけっこう魔術上手くなったし、ウィステリアも最初は魔力を動かすことすらできなかったんだから、すげぇ進歩だよ。この調子で一緒に頑張ろうぜ、な? 俺たちもライラックぐらい強くなれるよ、きっと」
ルピナスはヴィヴェカの顔を覗き込んで、にかっと笑った。明るい光を浮かべるその躑躅色を見つめながら、ヴィヴェカは不思議な気持ちだった。
自分に優しくしてくれる人がいる。何か話しても怒られないだなんて。それだけの事実が慣れなくて、逆になんだか怖いような気もする。
不意に、ルピナスの手が伸びてきた。頭上にきたその手に思わず身をこわばらせるものの、ルピナスの手はぽんとヴィヴェカの頭に乗っただけだった。
「怖くないよ」
ルピナスが言う。目を見開いて何も言えずにいるヴィヴェカの目を見つめて、ルピナスはまた笑う。
「これから辛いことはいっぱいあるだろうし、痛いことや怖いこともあるかもしれない。けど、俺は何があってもウィステリアの味方だから。なんかあったら頼ればいいし、俺もウィステリアのこと気にかけてるからな」
いいな? とルピナスが首を傾げる。ヴィヴェカは、パチリと瞬きを繰り返した。
ルピナスはじっと、自分を見つめてくる。叩かなかった人。怒らなかった人。優しくしてくれた人。質問に答えてくれた人。自分に向かって笑ってくれた人。
本当に、言う通りに頼っても、怒らない? ──きっと怒らない。信じたい。信じてみたい。頼って、みたい。
ヴィヴェカは小さく、こくりと頷いた。ルピナスの目が柔らかく細められる。
──自分の反応にルピナスが喜んでいる。
ほわりと、胸が温かくなる。どうしてか、くすぐったい感じがした。
「よし、よく頷いた、ウィステリア。大丈夫だからな、俺がいるから。それに、多分ライラックとダチュラも、お前の味方をしてくれると思うよ」
頭に置かれたルピナスの手が、ヴィヴェカの髪を梳くようにやさしく撫でてくる。
痛くない──むしろ、心地良い。
その手に身を任せながら、ヴィヴェカは初めて、人の手を好きだと思った。
ライラックは無言でヴィヴェカを見つめている時、「これでも手加減してるんだけどな……」と考えています。




