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ウィスティのお話になります。
「ほらよ。約束の金だ」
差し出された麻袋を、母が抱きつくようにして受け取る。大して重くもなさそうな普通の袋だ。
母は慌てたようにその袋の口を開けると、中身を覗き込み、そのあと手を突っ込んだ。ちゃり、ちゃりと響く金属音。
そんな母の様子をぼんやりと眺めていると、母に袋を差し出した男がチッと大きく舌打ちした。
「用が済んだらガキだけ置いてとっとと失せやがれ」
その威圧感に震え上がって、母は慌てたように袋の口を閉め、大事そうにそれを抱き抱えた。
「──ママ」
本当に、小さな声だった。いつも母は、少し声を出しただけで怒鳴り、手を上げる。それでも、母は母だった。だから呼びかけた。
けれど母は忌々しげに、こちらを睨みつけただけだった。
母の手が頭の上から降りてくる。──たたかれる。
一瞬で恐怖が体を支配し、びくりと首をすくめる。ごめんなさいごめんなさい、と念仏のように唱えた時、母の手はすっとやさしく頭を撫でてきた。
「いい子にしてるのよ、ヴィヴェカちゃん」
優しい声だった。こんな優しい声を聞くのは、初めてだった。──そして、最後でもあった。
驚いて立ちつくす少女にそれ以上声をかけることはなく、母は立ち去っていく。
「おい、ガキ。ついてこい。のろのろしていたら置いてくぞ」
ドスの効いた声を投げつけられ、少女は震え上がる。じわりと目に涙が浮かんだ。
歩き出した男の姿を目で追いかける。着いてこないことに気づいた男が立ち止まり、チィッ! と大きく舌打ちした。
「っ、ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめ」
「うるせぇ。だまりやがれ」
その瞬間、髪を掴まれた。長く伸ばした、濃い紫の髪。引っ張られて、頭皮に刺すような鋭い痛みが走る。
ぎゅっと目を瞑る。脳裏に、意地悪そうに笑う数人の子供の顔が浮かんだ。途端に、心を恐怖が支配する。
──ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
高い悲鳴が耳をつんざくように響き渡る。それが自分のものだと気づいた瞬間、耳の後ろに衝撃を感じ、少女は気を失った。
こうして、少女──ヴィヴェカ・ダールベルクは、実の母親に売られたのだった。
***
「ライラック、ルピナス。お前らの部屋にもう一人入ることになった。体は小さいが、ライラックの一つ年下らしい。今まで通り任務に関しての指示は俺がするから、その他の訓練とかはそれなりに面倒を見てやってくれ」
シグムンドがルピナスとなって、約一年ほど。
その日ダチュラが連れてきたのは、腰よりも長く伸ばされた濃紫の髪が目を引く、小柄な少女だった。
その日の訓練を終え、部屋でストレッチをしていた二人を呼ぶと、ダチュラはその半歩後ろで隠れるようにして立つ幼い少女を、背中を押すようにして前に押し出した。
少女は、フラフラした足取りで前に出る。その顔は強ばっていて、目には不安げな色が滲んでいた。
「コードネームは、ウィステリアだ。ウィステリア、こいつらは、ライラックとルピナスだ。こいつらがお前の面倒を見てくれる。分からないことがあればなんでもこいつらに聞け」
いいか? と、ダチュラが少女の前にしゃがみ、目を合わせて言う。ウィステリアと呼ばれた彼女はちらりとルピナスとライラックの方に目をやった後、うろうろと視線を落ち着かないように彷徨わせた。
「じゃあ、そういうことだ。ルピナス、ライラック。よろしくな」
ダチュラがぽん、と軽く手を小さな頭に乗せた瞬間、ウィステリアの体が小さく強ばったのを、ルピナスは見逃さなかった。
そのまま、ダチュラは部屋を出ていき、ばたんとドアがしまった。
残された三人の間に、沈黙が落ちる。
新入りのウィステリアは、よく見れば、とても可愛かった。ぱっちりとした大きな藤色の目に、つんととがった鼻や小さな口。長く伸ばした濃紫の髪も綺麗で、貴族令嬢が好きそうなお人形さんになれそうだった。──その子が、不自然に痩せていなければ。
こけた頬、棒のように細い手足。ライラックより一つ年下とダチュラは言ったが、正直二、三個下ぐらいと言われた方が納得するほどに体も小柄だ。おそらく、栄養失調だろう。あまり気持ちのいい話ではないが、貧困のための栄養失調は何も珍しいことはない。ただ──そのやせ細った体と、綺麗に伸ばされた長い髪がやけにアンバランスだった。
一番に沈黙を破ったのは、ライラックだった。
「ウィステリア。あれが、ウィステリアのベッド」
ライラックが指を指した先を、のろのろとウィステリアの視線が追う。
「特別なルールは、ない。でも、私達の言うことは、絶対」
そう、ライラックが言い放った瞬間、ウィステリアの目にはっきりと恐怖の色が浮かんだ。
「っご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
ぎゅっと手を握りしめ、うつむいて、肩を恐怖で震わせながら呪詛のように小さく呟かれているのは、謝罪の言葉だった。
ルピナスが驚いてライラックを見遣れば、ライラックも無表情ながら、困惑しているような空気を出している。
「っだ、大丈夫! こいつ、別に怒ってねぇから。いつも無表情だから怒ってるように見えるけど、これが普通だから。な? そんな謝んなくていいんだよ」
とりあえず、ルピナスは慌ててウィステリアの傍により、しゃがんで肩を撫でた。
「ウィステリアはなんも悪いことしてねぇから。ライラックも別に怒ってないから、大丈夫。大丈夫だよ、ほら。な?」
必死に声をかけて、ようやくウィステリアは謝るのをやめた。
「……ほんとう、に?」
「うん、本当に。悪くない。悪いのは、怒ってるみたいに見えたライラックの方」
ルピナスは未だ自分の後方で突っ立っているライラックを振り返った。
「おいライラック、お前、言い方きついんだから、気をつけろよ。自分より小さい子を怖がらせて、どうする」
そう咎めてから、ライラックの目の光がふっと消えた気がして、自分が間違えたことをルピナスは悟った。
「言い方一つで傷つく弱い人間は、生き残れない。勝手にして」
そう言い放つや否や、ライラックは二人にくるりと背を向けた。そして自分のベッドのそばの荷物を取り上げると、「夕食」と言い残して部屋を出ていく。なんだか、妙に既視感のある状況だ。
ウィステリアはというと、せっかく落ち着いたようだったのに、ライラックの対応で再びがたがた震えだし、今にも謝りだしそうだ。訳ありではあるだろうけど、確かに、見るからにライラックと相性が悪そうな感じの子だ。
いきなり連れてこられて面倒をみろと言われて、ライラックがちゃんとできるわけが無い。
大丈夫だから、と再度ウィステリアの背中を撫でながら、ダチュラってこういう所本当に無責任だよなぁ、とルピナスは頭を抱えた。
*
「まぁ、お前がいるから任せられるってのはあるぜ、ルピナス。当たり前だがな」
そうダチュラが笑って言った時には、本当に殴ってやろうかと一瞬考えた。が、まぁ、ダチュラに自分が勝てるはずもないので、すぐに考え直す。
「そうは言っても、やる気がなきゃ訓練なんて到底ついていけねぇじゃん。それをあのウィステリアにやらせようってったって、無理があるだろ」
その日の任務後、単独でルピナスはダチュラに会いに行った。勿論、文句を言うためである。ついでに、少しウィステリアについて詳しく聞きたかった。
ルピナスの言葉に、いつもの隅の小さな食堂でいつものように酒の入ったグラスを揺らしながら、ダチュラは肩をすくめる。
「まぁな。だが訓練へのやる気があるかどうかは別として、あいつが俺に助けを求めたんだ」
「助け?」
「大方口減らしのためだろうけど、実の親に売られたらしいぜ。そんで、人売りに雑な扱いで連れられていたところに通りかかったんだ。俺を見た子供が助けを求めて、魔力量もかなり多そうだった。だから買ったんだよ。それだけだ」
ウィステリア本人が望んだことだ。そう言われて、ルピナスは沈黙した。
「そう高かったわけでもねぇが、金を出して引き取った以上は、頑張ってもらいてぇ……が、それもまぁ、本人次第だしな。俺は生きる機会をあいつにやっただけだ。そうでなければ、今頃奴隷まっしぐらだったろうな」
「……それは、わかる」
なんとも言えない顔になったルピナスを見て、ダチュラはカラカラと笑う。
「だろ? そいでルピナス、文句は言い終わったか」
「……まぁ」
今夜の訪問の一番の目的が文句を言うためだということまで見抜かれ、ルピナスは苦虫をかみ潰したような顔になった。
「じゃあ、俺、行くわ」
「おう。ガキはとっとと寝ろ」
「深夜の任務させといて何今更ガキ扱いすんだよ」
舌打ちをしてダチュラに背を向けてから、ルピナスはふと足を止めた。
「ダチュラ……あいつ、ウィステリアの親ってさ、あいつのこと……」
振り返ると、ダチュラはルピナスの言わんとすることを正確に理解したようで、すっと目を細めた。
「あぁ、ありゃぁ、虐待してたろうなぁ」
「……だよな」
相当厳しい、行き過ぎた躾をされていたのだろう。
呪詛のように謝罪の言葉を途切れず唱える、少女の狂気じみた姿を思い返し、ルピナスはため息をついた。
「ま、お前が面倒見良いのはいいことだけどなぁ、そう気負うこたぁねぇよ」
軽く頭に乗せられた手とともに、やけに優しげな声で言われ、ルピナスは目を丸くした。
「ライラックと上手くやれたらこの世界でも上手く生きられるさ。それに、女の子同士なんだから、ほっといても気づいたらうまくやってんだろうよ。お前は、その時期が来るまでいい感じに緩衝材やっときゃいいんだよ」
「おい、結局それが一番の難関じゃねぇか!」
思わず叫んでしまったルピナスの背を、ダチュラは笑いながら叩いてきた。




