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五十一話 情緒不安定

 競技場の入口の扉には、まだかろうじてヒューロンが張った結界が残っていた。少しの魔力をもって触れれば、すぐに消え去るほどに弱まったもの。

 サァーっと崩れ落ちるように結界が消えた瞬間、ガタン! と音を立てて勢い良く内向きに扉が開いた。


「ライラ!」

「うわっ」


 倒れ込むように飛び込んできたのは濃紫の髪の少女──ウィスティ。驚いて小さく仰け反った私に縋り付くように、ウィスティは私の手を握りしめ、上目遣いで私を見つめた。随分と温かいウィスティの手に、まだ自分が濡れていたことに気づく。

 ウィスティは潤んだ藤色の瞳に、今にも泣き出しそうな顔をしている。なぜここにいるのかは分からないけれど、彼女らしからぬ大声と慌てた様子で、外からヒューロンとの会話を聞いていたのだと察した。


「ライラ」

「ヒューロンなら縛り上げて魔力も封じた、今中にいるよ。吸魂具もあったけど全部壊したからもう入っても大丈夫。そっちは? ここにいるってことは吸魂具は全部処分したんだよね。ルゥーはもう来た?」

「ライラ」

「……なに」


 ウィスティは私の手を握り、もう一度私を呼んだ。その瞬間暖かい空気が私を包み、濡れていた体が乾いた。それをしてくれた本人は、眉をへにょりと下げ、心配でたまらない、という顔をしている。

 私は小さくため息をついた。


「ありがと……。……で、いつから聞いてたの」

「……ヒューロンが、ライラに『ライラックでしょ』って、言ったとこくらいから」

「……」


 全部じゃん。つまり、最後のも聞かれてたということか。くらりと目眩がする。


「モーガンス……君が、アイオライトの魔術師って、本当?」


 突如、静かな声がそう尋ねた。嫌なほど聞き覚えのあるその声にえっと思った時、ウィスティの後ろからリュメルが顔をのぞかせた。蜂蜜色の瞳は真剣な色を宿して、こちらを射抜いてくる。

 うそでしょ、なんでここにいんの。というかこの人にも全部聞かれたのか。

 思わずウィスティを睨む。


「なんでいんの」


 自分でも驚くほど、苛立った声が出た。ウィスティは目を見開き、バツの悪そうな顔になる。


「……ごめん」


 小さく謝られて、はっとする。

 ああ、違う。ウィスティに謝らせたかったんじゃない。リュメルがいるのは、元はと言えば私のせいだ。私がリュメルに、ウィスティについて行けって言ったのに。


「ううん、ごめん、違う、今のなし。ただの八つ当たりだった、ウィスティのせいじゃないから。ウィスティ、ヒューロン連れてくの、お願いしていい? ルゥーはもう、来てるよね。報告しなきゃ」 

「ライラ」


 再度、名前が呼ばれた。ぎゅっと、手を握られる。


「ライラ、怪我してる」

「大丈夫。かすり傷だから」

「大丈夫じゃない。報告、わたしがする。ライラは、医務室行って」

「後で行くから」

「だめ。今すぐ」


 ウィスティは怒った顔で言う。その顔が二重に見えて、私は瞬きをした。


「僕が連れていくよ」


 思案げに私達のやり取りを見ていたかと思うと、リュメルがそう言う。


「え、いや、いいです」


 断った瞬間、ぐらりと視界が傾いた。目に入る競技場の天井、至近距離で私の顔を覗き込むリュメルの顔。


「えっ、あ、ちょっ」


 背中と膝の下を支える腕の感触に、ようやくリュメルに横抱きにされたのだと思考が追いつく。思わず逃れようとジタバタするけれど、リュメルの腕は意外に強く、離してくれない。


「キースリング様、下ろしてくださいっ」

「大人しくしてなよ。自分で降りられないほど弱ってるくせに」

「じゃあせめて、浮かせて運んでもらえませんか?」

「逆さ吊りを希望するというならそれでも良いよ」


 そう言われて、抵抗をやめた。最後の希望、とウィスティを見るも、彼女は無言で首を振る。


「すみません、キースリング先輩。リラのこと、よろしくお願いします」

「任せて」


 無慈悲にも見放され、リュメルは私を抱えたまま競技場を出た。


 この状況をどうにかしたかったけれど、今の自分じゃどうしようも出来ない。諦めて、身を任せることにした。

 リュメルは、さっきからずっと真顔だ。いつものニコニコとした笑みはなりを潜めているからか、静かすぎてなんだか変な感じがする。まず私が他人に抱えられているこの状況が変すぎるのだけれど。

 それにしても流石騎士団を目指してるだけあって、軽々と私のことを抱えてるなぁ、なんて場違いなことを考えていると、リュメルの制服に血が付いているのが目に入った。あ、と声が出る。私を抱えているせいだ。服が乾いても、血はまだ止まっていなかったらしい。


「……すみません」

「何が?」

「制服、血、ついてしまいました」


 ああ、とリュメルは自分の服を見下ろした。


「いいよ、気にしないで」

「……すみません」


 視界がグラグラする。運ばれているせいかと思ったけど、それにしたって周りが白んで見える。

 さっきと比べ物にならないほど、自分の調子が悪化しているのを実感する。いや、多分ずっと悪かったのだけれど。緊張状態が解けたからだろうか。それにしたって、リュメルに運ばれている、この状況で?

 けれど、この状況が妙に心地よく感じてしまっているのも、また事実だった。近くに感じる彼の体温と、彼が歩くことで伝わってくる振動。それらに安心感を覚えてしまっていることが、逆に無性に居心地が悪い。


「寝てもいいよ」


 リュメルが言った。その声色が、なんだか泣きたくなるような優しいもので。

 涙が滲んで視界がぼやける。急激に眠気が襲ってくる。

 これほどまでに無防備な自分の状態を他人に晒していることが、自分でも信じられない。

 だって、そもそも人に抱えられたのが何年ぶりかも分からない。前はあの人だった。

 リュメルの姿がぼやけて、記憶の中のあの人の姿が重なる。ダチュラ。そう、ダチュラ。


『あのダチュラが、王族越えの魔力を持つ公爵令嬢を誘拐したって』


 ヒューロンの言葉が頭の中でこだまする。

 違う。だって、だって。

 生まれてまだ間もない、それも魔力量の多そうな赤ん坊が孤児院の前に捨てられていたから拾ってきたんだって、あの人は昔、そう言っていた。

 ダチュラ。

 組織の中で私を育ててくれて、鍛え上げて、守ってくれた人。戸籍上の父はギードで、家族のように思っているのはルゥーとウィスティだけど、それ以上にどこか、今も私の心の深いところに居座っている人。

 だから、違うのだ。きっと、何かの間違いだ。お願いだから、間違いであれ。


 手に触れた布を、ぎゅっと握りしめる。


「……モーガンス?」


 気遣うように声をそっとかけられて。握ったのがリュメルのシャツだと気がつく。

 リュメルは、私の顔をのぞきこんでいた。唇を引き結んで眉を寄せて、不安げな、心配そうな、そんな顔、しないで欲しい。


「……ききました、よね。私がアイオライトの魔術師かって」

「うん。……でも、今じゃなくていいよ」

「……今日のこと、また、ぜんぶ、はなします……」

「……うん」

「だから、おねがい……きかないで」


 どうしてか、リュメルの前では、取り繕えない気がする。きっと聞かれたら、誰にも見せたくない弱音もさらけ出してしまう。

 だから、どうか、聞かないで。心の奥底に、踏み込んでこないで。

 目的語のない、意味がわからないであろう私の言葉に、リュメルは少しの間考え込んで。


「……善処するよ」


 そう返された言葉になんとなくほっとして、私は意識を手放した。


ウィスティはヒューロンの結界を消すことはできましたが、中の状態がわからないのと、リュメルを連れていて万が一のことがあってはいけないため、結界には触れずに結界が解かれるのを外で待っていました。

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