三話 漫画『朱眼姫』
朱眼姫は、ウェブで連載されていた、魔力や魔術などが出てくるファンタジーのカラー漫画だ。
前世で無類のファンタジー好きだった私にとって特にお気に入りの漫画で、連載中から追いかけ、単行本はシリーズ全巻を揃え、何度も何度も読み返していた。
舞台はここ、私たちが住むオノラブル王国の、オノラブル国立魔術学院。唯一の国立の魔術学院にして、魔術教育の最高峰だ。
時代は中世ヨーロッパをモデルにしており、絶対王政で貴族と平民の違いがはっきりしている。一方で、魔術を利用した魔道具が発展しており、前世、二十一世紀での日本の科学技術並、もしくはそれ以上に人々の暮らしを支えていた。
この国では人々が魔力を持ち、魔術を扱う。魔力、魔術はオノラブル王国固有のものであり、他の国には存在しない。この魔力こそがこの国の要であり、何よりも重要視されるものだ。
とは言っても、だからと言って皆が皆魔力を持っている訳ではないし、持つ魔力量も人によって雲泥の差がある。
個人差はあるものの、平均的に貴族は魔力が多く、王族はその中でもとりわけ多い。
一方で平民は、没落した元貴族を除けば、魔力を持っていないか、ほんのわずかしかないという人が過半数を占める。
そんな中、ごく普通の平民ながらオノラブル国立魔術学院に通えるほどの魔力量を持った主人公の少女、エンジェラ・クラインが学院で学院生活を楽しみながら恋愛をし、友達と交流を深め、様々なトラブルに見舞われる。
そんな内容だった。
よく作り込まれた世界観、可愛くて前向きな主人公、そしてその他の魅力的なキャラクターたち。伏線が張り巡らされていて何度読み返しても楽しめるストーリー、そして何よりも、絵がとにかく綺麗で好みだった。
後にも先にも、全巻揃えた漫画は朱眼姫だけだ。
そんな記憶を得て、大きく変わったことは二つ。
まず一つ目、前世ではそれなりに社交的な人間であった私は、急に表情筋を働かせ始め、饒舌になった。
ルゥーたちには別人かと疑われた。その誤解が解けると、今度はそのきっかけが殺人という任務であったことも手伝い、めちゃくちゃ心配された。
まあ、それはそうなるよね。
そして二つ目。ルゥーとウィスティは漫画内の登場人物だと気づいた私はすぐさま、アイーマを壊滅させることを決意した。
と言うのは、作内のルゥーことシグムンド、そしてウィスティことヴィヴェカは主人公エンジェラと同じ平民出身の生徒で、学院でできるエンジェラのかけがえのない友人──と見せかけた敵キャラなのだ。いわゆるラスボスである。
おそらくルゥーの奴、原作内では本当に年齢偽装しちゃってる。まあ、そもそもが犯罪組織の者なんだけどね。
閑話休題。
学院内で起こる事件はすべて、とある犯罪組織の仕業で、最後の最後で二人はその組織の幹部であり、一連の事件の実行犯であったと暴かれるのだ。
割と終盤まで信頼できる仲間として描かれていた二人の裏切りに、連載されているウェブページの感想欄は阿鼻叫喚の巷と化した。私ももれなく発狂した。
何と言ってもヴィヴェカは無口なのに思いやりがあって優しく、無性に猫可愛がりしたくなるような子で、シグムンドはただただ頼りがいのあるイケメンだった。ぶっちゃけメインヒーローより好きだったから、エンジェラとくっついて欲しかった。ら、まさかの悪役展開。
そしてね、決定的な裏切りのシーン。これがまた死ぬほど良かったんだよ……!
ちょっと寂しげな笑顔で、ヴィヴェカが「ゴメンね、エンジェラ」と言い残すのだ。そしてエンジェラが二人の名前を呼ぶと、「俺はルピナスだ」「わたしは、ウィステリア」と、突然の組織でのコードネームをカミングアウト。自分たちはエンジェラの友達のシグムンドとヴィヴェカではないのだと、敵であることを示す決別の言葉を投げかけるのだ。
これを格好いいと言わずして、なんと言う。
裏切りからもたらされる衝撃と感動。色々ごちゃまぜになって思わず泣いてしまったのを、未だに覚えている。というか、泣いたのは初めて読んだときだけではなかった。
そうして真っ向対立、命懸けの死闘の末最終的に倒される二人。話自体はハッピーエンドでも、私からしたら全くハッピーではなかった。大好きな二人が亡くなった後の朱眼姫は読むのも辛いレベルだったし。
最後の展開としては、当然ながらエンジェラがメインヒーローと結ばれて末永く幸せに暮らしたとさ、で終わるんだけど。
そもそも親友二人が亡くなってるのに、恋が叶って喜ぶなよ!! エンジェラさんよ、悲しむ時間が短すぎないかい!? と読み返すたびに突っ込んでいた。
……という、記憶を思い出した私は。
キレた。
ちょっとちょっとちょっとちょっと!? 私の仲間がそんな重要ポジだなんて、聞いてないんですけど?? 二人とも死亡フラグまっしぐらとかふざけんな!!!
その組織どう考えてもアイーマ以外にないじゃんか! このまま行ったら二人とも死んじゃうじゃん! そんなの許せるか!
全キャラ素敵で、ストーリー世界観まるごと愛していた私は基本箱推しだったけれど、なかでもとりわけこの二人がお気に入りだった。そんな二人は今世ではその上家族と言っても過言じゃない存在なのだ。
──なら、二人が死んだりしないように、救う一択しかないじゃないか。原作崩壊とか気にしていられるか。こんな記憶を持つ私が存在している時点で、とっくに崩壊しているんだよ。
二人を救うために何をすべきか考えた私はまず、ルピナスとウィステリア、そう名乗るのも死亡フラグな気がして、コードネームを元にした愛称をつけた。それがルゥー、ウィスティだ。その時に二人が、私のコードネーム、ライラックから私にもライラと愛称を付けてくれた。あまり変わっていないとかは言わないのがお約束だ。
ちなみに、原作の最後辺りでは誰も輪に入れないような雰囲気だった二人が、私を仲間認定してくれていた事実に泣いた。
そして、確実に二人を救うには犯罪から手を洗わせるのが一番だろう。最終的にそう決断したら、ルゥーとウィスティにも手伝ってもらい、入念に準備した後に国治隊にアイーマを告発。
それまで育ってきたとは言え、犯罪組織であるアイーマは、かけがえのない存在であるルゥーとウィスティの二人と天秤にかけるまでもなかった。
そうして私が十二歳の時に、アイーマは内部情報漏洩により呆気なく壊滅させられ、未成年だった私たちは国に保護された。
幹部は一人を除き、皆死罪だった。その一人とは、私を拾った、組織内での親代わりの人。アイーマの中でもそれなりに立場が上の幹部だったのだが、どう言い逃れたのか、下っ端と同じ懲役刑で済んでいる。
十二年間面倒を見てもらった恩と情から、それを国に告げはしなかった。あの人が幹部だったことは、私とルゥーとウィスティしか知らない。二人は、私がそれでいいならいい、と言ってくれた。
今も牢にいるその人とは、アイーマ壊滅後から会っていないけれど、彼の様子の報告は定期的に貰っている。
私たちが提供したアイーマの内部情報のお陰で、呆気なく終わったけれど、下っ端で未成年とはいえ、私たち三人は既に立派な犯罪者だった。
普通の子供の生活を今更送れるはずはなかったし、皆帰る家だってなかった。
そこで、国治隊の偉い人の養子となり身分を保証してもらう代わりに、私たちは国治隊として働くことになったのだ。ルゥーはシグムンド・ラムスドルフに、ウィスティはヴィヴェカ・シュルツに。
一人だけ赤ん坊時からの孤児で戸籍もなかった私が、リラ・モーガンスの名を得たのはその時だ。ルゥーとウィスティと違いコードネームしか名前を持っていなかった私の、今のリラの名前は、勿論ライラックから来ている。
同時に、私の存在がイレギュラーであることを確信した。ライラックや、リラという名の少女は作中に登場していなかったから、ライラックの存在自体がなかったものなのか、原作開始時点で既に死んでいたのか。
何にせよ、私の存在によって、ウィスティとルゥーの運命は変わった。それは確かだと思う。
だけど、ウィスティの年齢から計算すると、多分今年は朱眼姫の物語が展開される一年のはずだ。
そんなタイミングにピンポイントで『ムスタウア』が出てきたのは、まるで『アイーマの代わり』であるかのよう。おまけに、私とウィスティの二人は学院に通うことになった。
もし──もし、原作の強制力というものが存在するなら。
ルゥーとウィスティはもうアイーマではないけれど、ひょっとしたら事件に巻き込まれて死んでしまうのではないか。
考えるだけで、恐ろしくて仕方なかった。
本当に、ルゥーとウィスティは無事に物語の最後を迎えられるのか。
最近、そればかり気にしてしまうのだ。
「……でも、寂しくなるね」
私に大人しく抱きしめられていたウィスティが、呟いた。
今日は、ウィスティがいつもよりよく喋る。
「……もう、ウィスティまで同じこと言う。ルゥーもさっき言ってたよ? それ。二人揃って暗くなっちゃってさ、やめてよ」
「そんなこと言って、お前も寂しいくせに」
「うるさい、黙って」
悪態をつきながら、普段は無口な妹分を抱きしめたまま、その濃紫の髪に指をくぐらせた。ふわふわ柔らかくて気持ちがいい。
「うるさいのはお前の方。いいから認めればいいのに」
ルゥーが、私達二人をまとめて抱きしめてきた。ふわりと、爽やかな柑橘系の香りがする。とくんと、一瞬心臓が跳ねた。誤魔化すように、目の前にあったルゥーの硬い胸板にぐりぐりと額を押し付ける。
正直、こういう湿っぽいのは、嫌いなんだけど──不思議と、心が安らぐ。
不安にならなくても大丈夫、そう二人が言ってくれている気がする。
「なんかあったらすぐ報告しろよ。こっちも、全力でサポートしていくから」
頼れる兄貴分の力強い言葉に、その腕の中で私はウィスティと顔を見合わせ、笑った。