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目が覚めたシグムンドは、小さな部屋のベッドに寝かせられていた。ボロボロだった服も綺麗なものに変えられていて、森であちこちに負った怪我にも丁寧に包帯が巻かれていた。
誰もいない閉鎖された空間の中で、一体ここはどこなのだろうかと周りを見回していた時、部屋のドアが開いて男が顔を覗かせた。
昨日、倒れていたシグムンドを助けてくれた男だ。明るいところで見ると、男は随分と整った美しい顔立ちをしている。昨日赤く光っていた瞳は、日の元ではもっとずっと落ち着いた、にごった血のような朱殷に近い色合いをしていた。
「おう、坊主。起きたか。腹減ってるか?」
その質問に、シグムンドは迷わず頷いた。寝起きにも関わらず、空腹感は絶えず感じていた。
「ん。じゃあなんか食えるもん持って来るから、ちょっと待ってろ」
男が部屋を出ていく。バタン、と閉じられたドアを少しの間ぼんやりと眺めてから、シグムンドはベッドを出て、軽く体を動かしてみた。少し凝り固まった感じはするが、痛みはほとんど無い。
怪我の手当に、食事まで。やけに丁寧に世話を焼いてくれるものだ。
勘違いしてしまいそうだったが、シグムンドは警戒していた。ただの善人にしては、男があまりに得体が知れなさすぎた。それは根拠の無いただの直感だったが、シグムンドは自分の人を見る目は八割方当たっていると思う。
──でも、それはどうだっていい。男が本当に根っからの善人で自分を助けてくれたのだとしても、何かのたくらみがあって助けてくれたのだとしても。
死んでもおかしくなかった所を、男に拾われて生き延びた。ただそれだけが分かった。ならば、その他はどうでもいい。
シグムンドは森で感じたあの悲しみを、悔しさを、怒りを忘れていない。生き延びたから、尚のこと。
ヴォルフックス侯爵に、なんとしても復讐する。
そのために、強くなりたかった。
父上、母上。俺、これからどんな環境に置かれようとも、きっとこの復讐を遂げて見せるよ。
亡き両親を想って、シグムンドは一人、静かに心に誓った。
*
「お前、あれだろ。フォルスターの子だろ。ヴォルフックスが目の敵にしてたとかいう」
与えられた食事にためらいなく食らいつくシグムンド。
その勢いに少し呆れた様子を見せていた男は、唐突に言った。
シグムンドは一瞬身を強張らせた。それと同時に、ヴォルフックスと父の件はそれほどまでに有名なのかと、少なからず衝撃を受ける。それなら、事情も全て知られているということか。
逃亡した罪人の息子だ、殺されたらどうしよう。一瞬そう思ったが、もしこの男がシグムンドを殺すつもりだったなら、もう既に殺されているだろうな、とすぐに考え直した。
結局何も答えずに食事に戻ったシグムンドに、男は少し笑う。
「単刀直入に言う。最初はうちのお姫様の側仕えにでもと思ってお前を拾ってきたんだが、お前は平均的に見て魔力量が多そうだし、思ったよりも使えそうだ。もう身寄りが無いってのもいい。ここでやっていく気はあるか? ただし、ここに入っちまえばもう出られないし、やっている事は真っ向から法を犯すことだ。だからつまり、フォルスター少年はここで消えるってことだ。それでもいいなら、ここに入れ。……まぁ、俺が連れてきちまった以上、覚悟がなくても出ていけはしねぇから、死ぬしかねぇんだけど。どっちがいい?」
にこやかに言った男の言葉に、一瞬息が詰まった。
(……いや、でも)
さっき誓ったばかりだ。今更何を迷うことがあるだろう。
シグムンドは空になった皿を下ろし、男の目を真っ直ぐ見つめた。
「ここに居させてください。何でもします。俺は、生きたい。力を付けたい」
男はいかにも楽しげに、目を弧状に細めた。
「やっぱ、良い目してやがる。じゃあ、フォルスター少年よ──アイーマへ、ようこそ。あぁ、今更だが俺はダチュラと言う。よろしくな」
ダチュラの言葉に、シグムンドは唖然とした。
アイーマ! 犯罪とは何ら関係ないところで生きてきたシグムンドでさえ聞いたことがある。
──まさか、オノラブル国内一の犯罪組織と言われる、あのアイーマだったとは!
けれど驚くと同時に、先程のダチュラの前置きはそういう事だったのか、と納得する。
「よろしくお願いします」
犯罪組織だろうが関係ない。むしろ復讐という目的を果たすためには非常に好都合な環境だとさえ思った。もちろん父と母は、息子が犯罪組織に入るなんて喜ばないだろうけど。
アイーマって聞いてビビらないところ、いいと思うよ。からからとそう言って笑うダチュラは、やはり食えない人だと思った。
食事を終えた後、ダチュラに連れられて、シグムンドは部屋を出た。
ここは組織アイーマの本部で、隣国リバティエルとの国境付近に位置する市街地の一角にある建物らしい。
そのような所に本部があるのかと驚いたが、幻視魔術によってごく普通の邸宅に見えているのだと、ダチュラは説明した。大きさも幻視で小さく見せてはいるものの、実際の大きさは国一番の公爵邸並の大きさで、組織の一部の組員の住むところのみならず、訓練場にもなっているらしい。
「すぐに色々お前に教えていくことになるが、とりあえず、まずお前に紹介したい奴がいる。さっきも言ったがうちの姫で、アイーマの中で唯一の子供だ。これから色々訓練や任務をこなしていく中で一緒になることも多いだろうし、あいつは言わばお前の教育係的な立ち位置になる。あぁ、とそうだ。部屋が足りてねぇもんで、お前はあいつの部屋に入る。でっけぇ部屋だから困ることはねぇだろ。荷物や寝起きはそこでしてもらう、ベッドは三つ置いてるからあいつが使ってないのを使えばいい。あとはなんだ、まぁあいつに聞けばいいだろ。ほら、ここだ」
ダチュラの説明を聞きながら廊下を歩いていると、その部屋に着いた。ドアにかかる黒のドアプレートに、『ライラック』と白い字で刻まれてある。
(ライラック、か)
聞いた感じ、ダチュラやライラックは本名ではなく、組織内でだけの名前なのだろう。
うちの姫の側仕え、とダチュラは言った。アイーマ内で身分の高い、大事なお姫様なのだろうか。
傲慢な子は面倒だな、とシグムンドは思った。位が高いのなら尚更だ。
拾われたに過ぎないただの没落貴族の令息である自分が逆らえば、ろくな事はない。最悪切り捨てられるに違いないと、シグムンドはそんな現実的な心配をしていた。
白い字の下に、ダチュラは指を向ける。『ライラック』の字の下に、赤い光がふわりと漂って、新たに白い文字が刻まれていった。
完成した言葉は、『ルピナス』だ。ダチュラはそれを見て満足そうに笑う。
「いいな、『ルピナス』。フォルスター少年、今日からお前は『ルピナス』だ。そして──」
ダチュラが、ドアを開けた。
言った通り、たしかに大きな部屋だった。その真ん中で小柄な少女が一人、こちらに背を向けてぽつんと立っている。
「紹介しよう。ライラックだ。今日からお前のルームメイトだ」
ライラックと紹介された少女は、緩慢な動作で振り向いた。青紫の瞳と、かちりと目が合う。
シグムンドよりも二、三歳年下だろうか。まっすぐなブラウンの髪を肩まで下ろしている彼女は、幼いながらも顔立ちは整っていて、可愛らしい少女だった。
──けれど。
(……気味悪い、この子)
シグムンドの予想とは大きく違う子が、そこにはいた。
子供にしてはあまりにも無表情で、瞳もどんよりと濁っている。
こんなに生気というものをごっそり落としてきたような顔をしている子供をこれまでにシグムンドは見た事がなかったし、たとえ居たとしても到底一緒に遊ぼうとは思えなかっただろう。
ライラックとダチュラが呼んだ少女は、じっとシグムンドを見つめた後、「……ライラック」とぽつりと呟いた。
その間も、瞳はなんの感情も映さないし表情も動かない。
(……今ので自己紹介かよ!?)
なんだか、まるで人としての感情と他人とコミュニケーションを取る能力を全て置いてきてしまったようだった。
シグムンドはどう接するのが良いのかわからず、戸惑ってしまう。
その空気を察したように、ダチュラが口を開いた。
「おう、よく頑張った、ライラック。こいつはルピナスだ。これからここの事とか、色々教えてやれ。訓練も一緒に受けろ。いいな?」
ライラックはこくりと頷いてからシグムンドを見て、「……ルピナス」と繰り返した。
それを見たダチュラが、少し苦笑する。
「……見たら分かる通り、こいつは人と接するのに慣れてないから、分かり合うにはちょっと時間がかかるかもしれねぇが、良い奴だからよ。そんじゃ、今日はなんの予定もねぇから、二人で親交でも深めといてくれよ。じゃあな」
言うが早いか、シグムンドが引き止める間もなく、ダチュラはさっさと部屋を出ていってしまった。
残されたシグムンドは、どうすれば良いのか分からず立ち尽くす。
しかし、ライラックはそれには無頓着で、部屋のひと隅にあるベッドを指さした。
周りに引き出しやら何やら、家具が少しだけ置かれている。
「……私の」
(……こいつのスペースってことか?)
「ルピナス……あれか、あれ」
今度は部屋の別の隅にそれぞれ置いてある、もう二つのベッドを順に指さしていく。
「どちらでも。荷物、散らかしすぎは、だめ」
きっと、今までで一番長い台詞だった。
なんだか変な気持ちになりながら、シグムンドは頷く。
すると、ライラックは何も言わずに部屋を出ていった。着いてこいとか言う訳でもない。
「……はっ、全然歓迎されてねぇの」
思わず乾いた笑いが漏れてしまった。
思ったのとはまた違う意味で、やりにくそうな相手だ。側仕えなどと言うから、典型的な甘やかされて育った貴族の子供のような、我が儘で傲慢な子かと思ったのだが、きっとそれはダチュラの冗談だったのだろう。
まあいい。シグムンドだって、馴れ合いに来たわけじゃないのだから。
(俺は強くなりに来たんだ)
強くなるには競い合う相手がいることが一番だと、父が言っていた。シグムンドもその通りだと心から思う。
その相手にする人物がいた事は喜ばしいことじゃないか。
うちのお姫様、という言葉の意味を測りかねていたが。手厚く守られていそうな感じもなく、訓練を受ける話を平然としていたということは、身分が高いとか言うことでは無いのだろう。
ならば、子供にしては実力が高いということだろうか。
(魔力、そんなに多くは無さそうだけど)
髪は典型的な茶色で、目は青色が濃い。彼女よりもよっぽど、赤みが強い瞳を持つ自分の方が優れている気がした。
けれども、ここはアイーマ。半端なものじゃやっていけないことくらい簡単に想像がつく。
とりあえずのライバルとしては過不足無いに違いない。
(負けるものか)
心の中で呟いて、シグムンドは拳を握った。




