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「シグムンド!! お前は裏口から逃げなさい、私達が引き付けている間に!!」

「父上、母上!! できません、そんな事!」


 父と母が叫ぶ言葉に、シグムンドは必死に首を振る。そうする間にも、二人に男達が武器を振りかざす。


(──ああ、どうして、俺はこんなにも役立たずなんだ)


 深い絶望感に飲まれながら、シグムンドはどうすることもできず、立ち尽くしていた。



 ***



 シグムンド・フォルスターは、フォルスター伯爵家の嫡男だった。


 フォルスター家は大きな力を持っている訳でもなければ、財力だって王国内の貴族で言えば平均的な家だった。歴史はそれなりに長かったが、特に繁栄していた訳でもなく、ただ小さな領地でよく言えば平穏な、悪く言えば平凡な毎日が送られていた。

 けれど、確かにフォルスター領内は他の領に比べて治安が良く、領主の評判は長い間落ちたことがなかった。


 シグムンドは、そのことが何よりも誇らしく、自分がいずれこの領の領主になるのだと思うと嬉しくてならなかった。

 幼い頃はもっと大きな権力を持つ侯爵、公爵家に憧れもした。平凡で特筆することもないような領の領主にならなければならないことを、(うと)ましく思ったりもした。

 けれど、大きくなるに連れて自領の素晴らしさを知った。平凡ではあるが平穏であることの良さを知っている自分が、他の同年代の貴族の子供よりも大人である気もした。


 領内は平和だったし、フォルスター家自体も仲が良く幸せな家族だった。父であるフォルスター伯爵、母フォルスター伯爵夫人、そして嫡男のシグムンド。

 三人だけの家族だったが、いつも笑顔に溢れている素敵な家庭だった。シグムンドはたっぷりと両親に愛情を注がれて育ったし、父も母も大好きだった。


 そんな幸せが壊れたのは、シグムンドが十歳の時だった。


 本当に、突然のことだった。

 ある日、事前の断りもなく訪れた国内警衛治安維持隊を名乗る男たちが、フォルスター家に押し入ったのだ。そうして言い放ったのは、フォルスター伯爵に謀反の疑いがかけられていること。


 何かの誤解だ、きちんと調べ直してくれ。父は必死に訴えた。母もシグムンドも家の使用人達も、そんなことがあるはずがないと訴えた。

 しかし、男たちは問答無用でフォルスター家の者全員をまるで罪人のように引っ立てて、王都へ連れていったのだ。

 そして、父は牢に入れられた。シグムンドは母と使用人達と一緒に、王都内の小さな屋敷に軟禁された。

 訳が分からなかった。何故父が謀反人などと言われているのか、これから自分たちはどうなるのか。ただ、理解できない状況の中で日々怯えながら過ごしていた。


 そんなある日のことだった。

 とある男が、シグムンド達が軟禁されている屋敷を訪れたのだ。男は、ダニエル・ドランケンスと名乗った。ドランケンス侯爵───国の宰相だった。


 シグムンドは、ドランケンスに必死に訴えた。父は何も悪くないと。自領を愛していて、謀反なんか考えたことがない穏やかな男であると。

 そんなシグムンドに、ドランケンスは頷いた。


「君の領の領民がそれを訴えに来たんだ。だから私は、君達を解放出来るように動こうと思う。今日はそれを伝えに来た」


 フォルスター家が捕まったのは、とある侯爵の告発によってだった。そしてその侯爵は、とにかく事を急いて独断でフォルスター家を罪人へと仕立て上げてしまったのだ。ここまでフォルスターたちを連行した者も正式な国治隊でなく、侯爵が独自に手配した者達だという。

 オノラブル内でも特に大きな家だった。そんな家の現当主は、並々ならぬ恨みをフォルスター伯爵に抱いていたのだと、ドランケンスは言った。


「あれは学生時代からのことで、逆恨みといってもいいものだった。彼は、フォルスターが羨ましかったのさ。ちっぽけな領で、大した力もないくせに幸せそうにしていることが。彼は昔君の母親に気があったのに、フォルスターに取られたことも未だに根に持っているんだろうね」


 くだらない、とシグムンドは憤慨した。しかし、彼にできることは何もなかった。ただその侯爵の名を、頭に刻み付けた。

 ラウレンツ・ヴォルフックス侯爵。絶対に、許すものか。


 ドランケンスは、何とかしてフォルスター家を解放して見せる、と言ってくれた。しかし、彼が来たその三日後、事態は急変する。

 フォルスター伯爵の極刑が決まったのだ。それも、僅か二日後。

 ありえない、と思った。しかし、残念ながらそれはどこまでも現実だった。フォルスターを擁護し出したドランケンスに焦り、ヴォルフックス侯爵が権力を行使したのだ。真っ当な手段では敵わないのだと、シグムンドは絶望した。


 刑の執行当日、屋敷に軟禁されていたシグムンドと母を再び国治隊の者が死刑場まで連行しようとした。シグムンドと母は、必死で抵抗した。何も悪くない父が殺されるところなど、見たくなかった。そんな二人に、国治隊は静かに囁いた。


「ドランケンス侯爵に、君達を助けるように頼まれた。内密に逃がすから、どうか今は大人しくついて来てくれ」


 シグムンドは、母と顔を見合わせた。

 ドランケンスは確かに約束を守ってくれていたのだ。父は、と聞くと、もうすでに逃がした、と答えられた。

 罪はひっくり返せなかった。逃げたことで今はもう既に本当の罪人だ。けれど、死んではいないのだ。

 国治隊はシグムンド達を、オノラブルの国境近くまで連れていった。そこに小さな屋敷が用意されており、父がいた。


「ここではヴォルフックスに見つかるかもしれないから、数日のうちに国外に逃げてもらう」


 そう言った国治隊に、シグムンドは尋ねた。どうしてここまでしてくれるのですか、と。


「私たちは、善を悪から救い、悪を取り締まるのが仕事だ。罪のない人間を極刑に処すくらいなら、多少法を侵したって無罪の人間を牢から逃がす方がずっとましだよ」


 フォルスター家の三人は心から感謝した。国治隊が屋敷を去っていくのを、姿が全く見えなくなるまで頭を下げて見送りつづけた。


 今までの幸せは、失われてしまった。けれど、家族三人いればどんな苦境だって乗り越えられる。


 そう思いはじめた矢先のことだった。


 ──ドランケンスが用意してくれた屋敷に、ヴォルフックス侯爵の追っ手がかかったのだ。

 翌日は、国外に逃げる予定の日だった。


「いいから逃げなさい! なんとしてでも生き延びるんだ」

「シグムンド。お願いよ、私たちの大切な息子」


 屋敷に押し入ってきた追っ手が、父と母に襲いかかる。ならず者の平民からか、魔力はないようだった。武器を振り上げる男たちに、父と母が必死に魔術で結界を張り対抗する。けれど父と母の魔力はさほど強くはなく、防御しかできていない。その上、相手は二、三十人いた。

 ああ、とシグムンドは歯がみする。自分の魔力は、父と母よりずっと強い。自分が助けに入れたら、きっとこいつらを完膚なきまで叩きのめせたのに。けれど、シグムンドはまだ魔術の扱いを習ったことがなかった。


(何もできない俺は、ここで父上と母上を見捨てて逃げるしかないのか)


 しかし、必死に息子を逃がそうとするフォルスター伯爵と伯爵夫人に相手が気付かないはずもなく。


 シグムンドに気づいた追っ手の一人が、シグムンドに襲い掛かろうとした、その時だった。


「……っ!!」


 シグムンドは、自身の身が魔力で包まれるのを感じた。同時に、近づいて来ていた男が弾かれるように遠ざかる。


「逃げなさい、シグ」

「早く! 私たちがもっている間に!」


 大好きな父と母の魔力だった。それが父母自身を守る結界よりも強いことは、シグムンドにも分かった。


「──大好きだよ、父上、母上」


 幼い頃からシグムンドは、聡明な子だった。感情に流されず、理性的な判断が出来る少年だった。

 涙を堪えながら、シグムンドは愛する家族に背を向けた。歯を食いしばり、屋敷の裏口へと向かう。


「何としても生き延びるんだ、私たちの代わりに」

「私たちも愛してるわ、シグ!」


 父と母の声が追いかけて来る。

 振り返れなかった。一度振り返ればもう、進めなくなる。


 それに、後ろから追って来る男の気配を感じた。今は父と母の結界が守ってくれているが、早いうちに逃げ切らないと。


 シグムンドは、歯を食いしばって走った。

 涙はもう、出なかった。


 ドランケンス侯爵が用意してくれた国境付近の屋敷のすぐ近くに、巨大な森林がある。

 シグムンドは、迷わずそこに飛び込んだ。


 フォルスター領内にも、小さな森があった。幼い頃はしょっちゅう入り込んで、同じくらいの歳の領民の子と遊んだものだ。

 おかげでシグムンドは貴族令息らしくなく木登りが得意で、体力もある活発なわんぱく少年だった。


 森林に逃げ込んだ後、どちらの方に行くとか気にせず、ただただ必死に走った。時に木に登り、茂みを潜った。気付けば、後を追って来る男の気配は無くなっていた。


 それに気づくと同時に、動いている間体の周りにずっと感じていた魔力がふっと消えるのを感じた。


「…ぁ、ああ…」


 父と母のかけてくれていた結界魔術が、解けたのだ。

 距離で消えないそれを、誰よりもシグムンドを愛してくれた二人が敢えて解くはずがない。


 だとすれば、表すことは一つしかなかった。


 シグムンドは地面に崩れ落ちた。

 自分を追っ手から隠してくれた森林の中で、シグムンドはたった一人ぼっちだった。


 疲労感が全身を包んでいる。

 シグムンドは体を丸めて、(むせ)び泣いた。


(ヴォルフックス、貴様を絶対に許さない、許さない…!)


 何度も何度も、拳を地面に打ち付けた。それに反応を返してくれる者は、一人もいなかった。



 ***



 辺りはもう暗く、月の僅かな光の中で全てがぼうっと滲んでいた。


「おーい、坊主。生きてるか? もしもーし」


 追っ手からは逃げ切ったとはいえ、気付けば周りは木だらけで自分がどこにいるのか、どの方向から来たのか、どれくらい逃げ回っていたのかすらさっぱり分からなかった。


 やっとの思いでシグムンドが森林を抜けたときにはもう、一歩も歩ける気がしなかった。

 何しろ、ちゃんと食事を取ったのは追っ手が来た日で、それ以来水もろくに飲んでいない。その後何日森でさ迷っていたのかも定かでなかった。むしろ、生きて出て来られた事の方が奇跡だった。


 森林のすぐ側で力尽きて倒れているシグムンドの前に、その男は立っていた。


 背の高い男だった。銀色の髪が月明かりを受けて輝いている。目は赤く、暗闇の中でやけに妖しく光を放っていた。


 やけに軽い調子で話しかけて来るそいつが敵か味方か判断する余力も、シグムンドには残っていなかった。


 返事をしないシグムンドを前に、男は一人で喋りつづける。


「んー、どっからどう見ても魔力持ちだよなぁ……ライラックの遊び相手にでも持って帰ってみっか」


 辛うじて繋ぎ止めていた意識は、男に担ぎ上げられた所で切れた。


 ──これが、シグムンドと男、ダチュラの出会いである。


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