十五話 高みの見物
二週間も経つと、目立たないように気を付けていた甲斐もあってか、クラスで私に関心を向ける人はほとんどいなくなった。多分、ヴィクトリアと一緒にいるのも大きい。三年以上クラスの一員をやっている彼女に、今更何かを言う人はいなかった。リュメルに関しては、自分から話しかけるなんて愚行を犯さない限り、そこまで女子の反感を買うこともない。
平穏だ、と思う一方で、学院全体ではそうでもないのだと、ヴィクトリアが教えてくれた。
「今、すごく噂になっているのよ。あたしたちと同学年で、赤クラスの女の子が、平民のくせに生徒会役員の方々に近づいているって」
「近づいてるって?」
「ほら、生徒会書記の、ドランケンス家のイザーク様って知ってる? 彼も第四学年赤なんだけどね、彼とあからさまに仲良くして、そこから生徒会つながりでサグアス殿下とか、キースリング様や第六学年のエーレンベルク様とかと親しくしてるらしいわ。それで、いろんなご令嬢から目をつけられているんだって。部活でもその話でもちきりだったの」
「へぇ……その平民の子って、もしかしてエンジェラ・クラインって名前の子?」
ヴィクトリアは目を丸くした。
「そうそう、クラインって名前だったと思うわ。知ってたの?」
「名前だけ聞いたことあるだけだけど」
私は肩をすくめて見せた。原作の中でも、こういう噂が流れていた。
私がサグアス王子とエンジェラの出会いを目撃したのは、ほんの二、三日前だというのに、噂が回るのはつくづく早いものだと思う。
「そうなのね。それでね、昨日の昼なんて、みんなの人目に付くところで彼女、殿下に進んで挨拶したんだって。こういうことを言うのはあまり気が進まないけれど、少し非常識ではあるわよね。でも、殿下も楽しそうに彼女と話していたらしいし」
「うわぁ、完全に目をつけられるやつじゃん」
「でしょ? しかも、殿下が笑顔を見せられるのはとても珍しいことなのよ」
そんな話をしたある日の、放課後のことだ。
「ねぇ。君、この時間いつも何してるの?」
「うわっ」
私は、周囲の魔力に感覚を研ぎ澄ませて学舎の中を歩き回っていた。
丁度別棟の最上階、三階の廊下を歩いていたときだ。開け放たれた窓から吹き抜けるひんやりとした風に肩をすくませていると、耳のすぐ側で声が落とされて、びくりと肩が跳ねる。とっさに距離を取りながら振り向くと、リュメルがいつもの如く笑みを浮かべながら立っていた。
「そんなに大袈裟に驚かなくても。僕が近づいてくるの、気配でわかってたんじゃないの?」
「……魔力を消して近づくのはやめていただけますか」
「君は魔力でしか空間把握をしていないの?」
にっこーと効果音でも聞こえてきそうな表情のままで首を傾げるから、バカにしているようにしか聞こえない。
魔力を持つものは人でも魔道具でも何でも、普通魔力を放っている。それはオーラのようで、例えるなら熱いものが熱気を放つようなもの。
訓練すれば魔力保持者は放出する魔力を意識的に止めることが出来る。けれどもちろん魔道具はそんなことは出来ないから、こうして放課後、吸魂具が無いか学舎内を散策している訳だけど。
広範囲の魔力探知のために、感覚を魔力に全振りしていたのだ。
いつもなら魔力を消されていても、気配である程度分かるのに、と思いながら私はにっこりと笑い返した。
「たまに魔力感知以外の感覚を全部切って魔力だけに集中すると、魔術の良い特訓になるんです」
「へぇ? 初めて聞いたね」
「そうなんですね」
そりゃそうだろう。ただの雑なごまかしなんだから。
「ところで、君、毎日この時間学舎内をうろうろしてるでしょ? 部活動中の生徒から、最近よく変な女子生徒がいて気になるって意見が来たんだけど、これ君のことでしょ。何してるの? もしかして、生徒会に用でもあって、探していたりした?」
見れば、すぐそこに生徒会室と書かれた部屋があった。ここから出てきたのか。
「いえ、散策しているだけです」
「ここ二週間、ほぼ毎日?」
「すごく広くて設備も綺麗で、興味が尽きませんから」
質問詰めが大好きな男に適当に答えたその時、廊下の開け放たれていた窓の方から、小さく声が聞こえた。
「──てください!」
それが聞き覚えのある声で、私は窓から下を見下ろし、「あ」と声を漏らした。
「どうしたの」
「いじめでしょうか、あれ」
窓からは、普通誰も近づかないような、校舎裏のじめったい場所で集団リンチのようなことが行われているのが見下ろせた。
数人の女子生徒に囲まれる、見覚えのある女の子。伽羅色──茶色がかった暗めの黄褐色の髪をしていて、最近私がしょっちゅう観察していた魔力の持ち主。
エンジェラ・クラインだ。
指差すと、リュメルも寄ってきて窓から下をのぞいた。
「あ、あの子……」
ぽつりとリュメルが呟く。エンジェラだと気づいたようだ。
それより、このシーン、見覚えがある。多分、原作で出てきたシーンだ。
エンジェラはクラスが上がったことや生徒会役員と仲良くすることにより、よく貴族の生徒に絡まれるけれど、その中でもこれは多分、『シグムンドとヴィヴェカが助けに来る』場面だ。
どうしようか、と一瞬悩む。だって、私のせいでシグムンドたちは今いない。
そして──これ確か、エンジェラが周りの子達に魔術を使われ、ピンチになるやつ。言いがかりをつけられるだけならまだしも、魔術で攻められたら、エンジェラは自力ではどうにもできないに違いない。
けれど、私はエンジェラに直接は接触したくないのだ。
「キースリング様。助けに行ってあげてくれませんか」
リュメルは怪訝そうに首を傾げる。
「こういっちゃなんだけど、あんなの日常茶飯事だよ? さすがに一人に対して大勢で魔術を使うなんて非常識なことは、しないだろうし」
「使いますよ、多分」
「……そう思うのなら君が助けに行けばいいんじゃないの?」
私の言葉の真意を見抜くように、蜂蜜色が剣呑な光を湛えてこちらを射抜く。
私は目を逸らして、肩を竦めた。
「勇気がありません」
「……そんなに説得力のない言い訳は初めて聞いたよ」
呆れたように言って、リュメルはまたエンジェラたちに視線を戻した。まだ魔術は使われていない。
「ねぇ。君、彼女のこと知ってる?」
「……いえ、知りませんが」
「そう。彼女、僕らと同じ第四学年の平民の生徒なんだけどね。周りの令嬢たちは、多分第五学年の人たちなんだよ」
「……そうなんですね」
どう考えても、サグアス王子に近づくなという牽制だ。
「第五学年の令嬢が第四学年の平民を取り囲む理由って、なんだと思う?」
「何か、気に食わないことをしたんじゃないですか」
「そうだ。彼女は、サグアス殿下に近づいて、仲良く会話をした。それに対する牽制なのさ、あれは。分かるかい?」
「噂に関与しているキースリング様が助けに行けば逆効果ということですか?」
「知ってるじゃない、彼女のこと」
「彼女が噂の子だとは知りませんでした」
「へぇ?」
助けに行かない、というリュメルの判断は妥当だ。
でも、私がここで助けに行けば、彼女と繋がりができてしまう。もし私を通して彼女とウィスティたちに繋がりができてしまったら、なんていうのは杞憂なのかもしれないけど。私の仲間の死亡フラグになりそうなものは、何だって避けたい。ウィスティに直接接触をするなと伝えたのも、その為なのだから。
結局何もせずに上から見ているうちに、下の状況は見るからに悪化していた。
「──ますの、殿下が──」
「──ヒ様だって──なの、──」
ここからだと、耳に届くのは声の調子が高くなるときだけで、会話内容はほとんど分からない。
「──、でも──よ!」
一人の女子生徒が憤った声を上げた。同時に、エンジェラの足元の土が勢いよく風に巻き上げられる。足元のバランスがくずれ、エンジェラがよろけた。そのまま誰かに足をひっかけられたのか、転んでしまう。
間髪入れずに別の女子生徒がエンジェラに向けて手をかざした。多量の水が溢れ出て、頭からエンジェラを濡らす。
地面に座り込んでびしょ濡れの少女は、呆然と自分の前に立つ生徒たちを見上げるばかりだ。
「あら、平民は寒さに強いと言いますけれど、本当ですのね! この季節にびしょ濡れになるくらいでは物足りないかしら? なら、全部凍らせて差し上げますわ!」
その言葉だけ、やけにはっきり聞こえた。
さすがにダメだ。ここからでいい、何とかしなきゃ。そう思った時だった。
「これはさすがにやり過ぎ」
隣から声が聞こえた。え、と思わず目線を向ける。リュメルが窓枠に手をかけていた。身軽に窓枠に乗ったかと思えば、そのまま彼は空中へと身を躍らせる。
ふわりと優雅にも思える様で地面に降り立ったリュメルを見て、案の定エンジェラを取り囲んでいる女子生徒たちは慌てているようだった。
リュメルは決して、声を荒らげたりしない。ただ笑顔で、淡々と正論を説いてくるのだ。
一人の生徒を大勢で、よりにもよって魔術で攻撃することの非道さ、非常識さを懇切丁寧に話しているのだろう。声もほとんど届いてこないし、表情も上からじゃ見えないけれど、女子生徒達が青くなっていることは容易に想像出来た。
静かな説教が終わったのか、女子生徒達はリュメルの笑顔の圧に、逃げるように去っていく。
一方リュメルは、呆然としているエンジェラに向き直り、魔術で一瞬で濡れた彼女を乾かしてあげていた。
お礼を言って頭を下げるエンジェラ、爽やかな笑顔で手を振りそのまま去っていくリュメル。
さすが、かっこいいじゃん。今の一連の流れは、どこを取ってもスマートだった。まさか三階から飛び降りるとは思わなかったけど。
正直、私が手を出す前にリュメルが動いてくれて良かった。生徒同士の揉め事の仲裁とか、私の仕事じゃないし。今日、リュメルが間に入ったことでいじめがエスカレートしようが、私の知ったこっちゃない。
本来ならばあなたの友達だったであろう二人を奪ってしまったことは、少し申し訳ないけど。
そう思いながらエンジェラを見下ろしたところで、何故かこちらを見上げていた彼女と目が合った。きれいな水色の瞳だ──って、あれ、なんか私、睨まれてない?
思わず、誰か私の後ろにいるのかと、振り向いてしまう。けれど、人の気配がないのにそこに人がいるはずもなく。
もう一度エンジェラを見る。やはり、こちらを見ていた。整った可愛らしい顔立ちが、憎いものを見るかのようにしかめられている。
数秒間、見つめ合う。
先に目をそらしたのは、エンジェラの方だった。くるりと背を向け、去っていく。
なぜ睨まれたのだろう。
私が助けに行かなかったことに気づいたから? そんなの私の心を読まなきゃ分かるはずもない。
さっぱりわからず、困惑したまま立ち尽くしていたとき、びゅううとまた強く風が吹き込んできた。ぴしゃっと窓を閉めると同時に、背後から軋むような扉の開く音がする。
振り向くと、生徒会室の扉を開け、美青年が出てきた。
「リュメル──って、あれ……あいつ、どこに行ったんだ」
彼は辺りを見回し、不思議そうに首を傾げる。
「あ……キースリング様なら、さっきここから飛び降りていました」
答えながら、思わずその人を凝視する。この人を、知っていた。
ハインリッヒ・エ-レンベルク──第六学年の、エーレンベルク公爵家の嫡男。行方不明のアイオラの兄だ。サグアス王子の側近で、生徒会副会長をしている。長く伸ばした黒い髪を後ろで一つに結び、深い青の瞳をした彼は、朱眼姫の登場人物の中では、一番精悍という言葉が似合う顔をした美男子。思慮深く、いつだってサグアス王子を一番に優先するキャラクターで、最初は妹の婚約者であるサグアス王子とエンジェラの恋に反対するが、最終的にはサグアス王子の想いを一番に応援してくれる存在でもある。
「飛び降りた?」
「下に可愛らしい女子生徒がいるのを見て、颯爽と窓から飛び出して行かれました」
「モーガンス、その言い方は語弊しかないんだけど」
涼やかな声が割って入った。
「ああ、リュメル、戻ってきたのか」
リュメルが階段の方から歩いてくる。気味が悪いほどの爽やかな笑顔をしていた。
「君が見捨てるから僕が行く羽目になったんじゃないか」
「私も助けようと思ったんですが、その瞬間にキースリング様が窓から飛び降りて行かれたので」
「本当に?」
「はい、本当です」
リュメルに負けないような完璧な笑みを浮かべて見せる。リュメルは口の端を吊り上げた。多分信じてないな。
「君は、リュメルの知り合いかい?」
苦笑しながら、ハインリッヒが割り込んできた。
「あ、はい。キースリング様のクラスメートで、リラ・モーガンスと申します」
「彼女が僕のクラスの編入生ですよ」
「ああ、リュメルが魔術決闘を挑んで負けたという?」
え、ハインリッヒにその話をしたのか。思わずリュメルの顔を見やる。リュメルは居心地の悪そうな顔をしていた。
「リュメルが珍しく不機嫌な日があったから、無理やり聞き出したんだ。勢いのまま決闘を申し込んで、負けたと聞いた時は笑ってしまったな」
「その話は忘れてくださいと言ったでしょう」
「そういえばそうだったか」
はは、とハインリッヒは笑う。
ハインリッヒは最高学年なだけあって、その態度からは大人の余裕を感じる。二人は幼少期から関係を築いているはずだから、仲も良いんだろう。
「私はハインリッヒ・エーレンベルクだ。リュメルとはこれからもよくしてやってくれたら嬉しい」
手を差し出され、促されるままに握手をする。
ふわりと、ハインリッヒの魔力が感じ取られた。
──なんだこれ。
ハインリッヒと目が合う。わずかに、青い目を見開いている。
「それでは、失礼します」
頭を下げ、二人に背を向ける。
私の足音が廊下に響く後ろで、生徒会室の扉が閉まる音が聞こえた。
魔力の質は、例えば声のように、人によって違う。だから知り合いの魔力は、感じれば誰のものかわかるものだ。
ハインリッヒの魔力は知らない魔力、それは確かだ。──でもなんだか居心地のいいような、今まで誰の魔力に対しても感じたことのないような、不思議な感覚がした。
あれは、一体何だったんだろう。