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晩夏の空蝉

作者: 雪待心和

【鬱注意】

最近ほとんど活動していなかったので、2年ほど前に書いた作品を公開しました。

Twitter @yuki_machi1118

 はじめに強く意識したのは、におい。通路に漂う薬品っぽいにおい。はじめの頃は鼻を衝くと意識していたそのにおいも、今では気にならないのだから不思議だ。僕にとっては非日常であったこの部屋に来るという行為が、日常になってきているということだろうか。しかし、代り映えのない毎日の中でここにいる時間だけは特別だと、日常化してきたことを把握したうえで思いたかった。

 あかりは点いていないが、室内は真っ暗というわけではない。窓から差し込む日の光が、白を基調としたこの部屋の内部を淡く照らしているからだ。床やベッドに当たる光は、窓の桟によって左右二つに分けられ、部屋の扉側に進むにつれて照度を落としていく。

 蝉の声が聴こえる季節。その終わり頃の、暑苦しいと感じるほどに暑いわけではない日。蝉の声は耳に心地よく届き、背中の方にほんの少しだけ熱をもたらす。

「包丁使うの、上手くなったね」

 白いリクライニングベッドの上で体を起こし、こちらを向きながら、少女は傍らに座る僕に話しかけてきた。

「何回も使ってりゃそりゃな」

 右手に包丁、左手にりんごを持った僕は、淡々と包丁を押し進めながらそう返す。剥いた皮は一度も途中で途切れることなく、ぽとりと皿の上に落ちた。それをゴミ袋に入れ、今度は剝き終えたりんごを食べやすい大きさに切る。「どーぞ」と手渡すと、「ありがと」と微笑み、少女はりんごの乗った皿を受け取った。続けてシャリっと一口。

 りんごを剥き終えた手はベタつき、放置するのは躊躇われる程度の不快感を僕の両手に与えた。

「ちょっと手ぇ洗ってくるわ。ついでに花瓶の水も換えてくる」

 そう言って席を立ち、ベッド脇にある棚に載った花瓶を手に取り部屋を出た。通路を少し行って右手にある手洗い場で手を洗い、花瓶から花を抜き出して中の水を捨てる。放たれた水は手洗器に打ち付けられ、飛沫を上げ、泡を作る。しかしたちまちその泡は弾け、消えてしまう。次に蛇口から勢いよく出た水を花瓶の内に留める。するとやはり泡ができて、底側から水面に浮かんできては弾けて消える。水は留めておけるのに、泡はすぐに消えてしまう。

「おっと」

 こぼれそうになった水にはっとし、蛇口を捻って水を止める。留まり損なった水が水滴となって、手洗器の表面にぶつかり、弾んで幾つかに分かれた。ぽた、ぽたと何度か滴り落ち、最初に落ちた粒の破片は後の破片と合わさって、もうどれだかわからない。

手洗い場を出て通路を通り、少女のいる部屋の前に戻る。スライドドアの前で立ち止まり、取っ手に伸ばした手を空中で一度留めた。

 部屋に戻ると、少女は窓の外を見ていた。薄い水色の布を纏った細身の体は、窓から差す日の光に照らされ、透き通って見えそうなほどに白い肌も相まって、どこかこの世のものらしからぬ雰囲気を醸し出している。体の芯が締め付けられるような焦りと息苦しさを感じ、それに耐えかねた僕は、花瓶を元の場所に戻し、早足で窓のほうに向かった。

「こんないい天気の日に、外の空気全く感じないとかもったいないぞ」

 そう言って笑いながら窓を開けると、蝉の声が大きくなると同時に、部屋に停滞した空気を少しずつ洗い流す、心地よい風が入ってきた。レースカーテンをふわりと揺らす風は、肌に当たるとほんの少しの冷気を伝える。程度でいえば涼しいと表すのが妥当であろうその冷気は、僕の胸の内のなにかを欠片ほどだけ攫っていくようで、ふぅっと小さな溜息がこぼれた。雲一つない空は、日を傾け始めていた。

「最近は、前より少し日が短くなってきたね」

「そうだな。そろそろ電気つけるか?」

「んーん、大丈夫。好きなんだよね、この感じ」

 窓の外を眺めたままそう言った少女は、『この感じ』という曖昧なものにいったい何を思い、何を感じているのだろうか。少女を眺めて漠然とそう考えているうちにも、外の景色は少しずつ、少しずつ変化する。さっきと全く同じ景色は、もう二度と見られない。少女が見ていたのと同じ景色を、僕は見ることができない。 

空蝉うつせみって言葉、知ってる?」

「え?」

「空蝉。蝉の抜け殻のことをいうんだけど、この世に生きている人間とか、生きている人間の世界って意味もあるんだよ」

 そう言った少女は、花瓶の載った棚の引き出しから蝉の抜け殻を取り出すと、左手を水をすくう形にして、その上にそっと載せた。そのまま腰までかかる掛け布団の、太股の上にあたる位置まで持ってくる。

「上手く言ったもんだよね。実際のところこの言葉を作った人がどういう思いで作ったかはわからないけど、蝉の抜け殻と、この世に生きている人間……。まるで、空っぽで中身のない人間を皮肉ってるみたい」

 言い終えると同時に、少女は左手の中にあった抜け殻をくしゃっと握り潰した。

瞬間、うなじから腰にかけての位置が、かぁっと熱くなる。脳は自分の意思に反し、勝手に記憶の引き出しを開け振り返りだす。次々、次々、次々と、ブレーキが壊れた車のように、止まらずに開け続ける。目的も持たずなんのために受けているのかもわからない、日々の授業。精神をすり減らしてまで保とうとする友人関係。寝て、起きて、食べて、飲んで、スマホをいじって、時々ゲームをしたりして、また寝て、起きて、変わらない日々を何度も何度も繰り返して。


そんな日々を送る僕の中には、いったいなにがある?


 思考が悪い方向に傾いていることは自分でもわかっていた。だがそれでも止まらない。僕はなにがしたくて、なにを思って、なんのために生きてるんだ? 仮になにかあったとして、それがなにになるっていうんだ? なんとなく勉強して、そこになんの意味がある? 友人たちは僕がいなくなったらなにか変わる? 生きた先、最終的に行き着くところは――。無理解の波に呑まれて溺れるようで、息苦しい。怖い、ただただ怖い。鼓動が早鐘を打つ。加速する、加速する。呪いにでもかけられたように、少女の言葉が、無理解が、生きるということが絡みついてくる。

 無言の時間が流れた。静まり返った空気の中、蝉の声だけが響いていた。その蝉の声がなにか言えよと僕を焦らせるようで、酷く鬱陶しかった。そして追い打ちをかけるかのように少女が口を開いた。

「蝉ってさ、羽化してから七日間しか生きられないんだって。そんな短い期間しか生きられない蝉たちは、何を思って生きるのかな。ただひたすらに、子孫を残すことを思って生きるのかな」

 蝉が鳴く理由は、子孫繁栄のために雄の蝉が雌の蝉に居場所を知らせること。つまり求愛行動だ。だから少女の言った、『ただひたすらに、子孫を残すことを思って生きる』はあながち間違っていないのかもしれない。しかし、子孫を残したからなんだというのだ? 僕が考えを巡らせていると、それなら……と少女は続けた。 

「蝉より大幅に長い時間を生きてるのにずっとベッドの上の私には、なにがあるのかな。なんのために……生きてるのかな」

 ただでさえ凍りかけていた空気が、完全に凍った。一瞬時間が止まったような感覚に陥り、息が詰まる。苦しい、肺が酸素を求めもがいている。なにか、なにか言わなければ。脳から言葉を絞り出さなければ。でも、僕自身僕になにがあるのか、なんのために生きているのかわかっていない状態でいいかげんなことを言ってもいいのか? 矛盾した二つの思考が脳をぐちゃぐちゃにする。蝉の声がまた僕を焦らせる。更に思考を搔き乱す。ああ! 黙れ! うるさい! 頼むから黙っててくれ! 背中に汗が伝うのがわかる。喉が水分を失っているのがわかる。しかし、それでも、なにか言わなければ! そう思い、回っているのか回っていないのかもはや自分でもよくわからない頭でどうにか絞り出した言葉は、丸めた紙でも詰まってしまったような喉をなんとか通って音となった。

「ゕ……仮に蝉の成虫を人間でいう大人だとすれば、人間は蝉と違って大人になってから生きる時間の方が長いだろ? これから先大切なこととかものとか、色々見つかるって。まだ十代のくせに何言ってんだよ」

 引きつっていたかもしれないが、今できる精一杯の笑みを浮かべて放ったその言葉は、しかしながら自分への言い訳でもあったかもしれない。自分にはなにがあるのか、何のために生きているのか。それを見つけられない現在の自分の希望的観測。無責任な言葉。必死で誘導灯を探して見つけ出した非常口。一つの延命措置。そのことを自覚して、眉間に浅い皺を作った。

「そうだと良いね」

 少女は微笑みながら言った。その微笑みに少し陰りが見えたような気もしたが、それ以上なにか言う気にはならなかった。いや、僕の中には放てる言葉が無かった。

「そろそろ帰るわ。また来るから」

「ん、わかった。じゃあね」

 体が重い。椅子に引っ張られているようにも感じられ、苦労して腰をあげる。ドアを開けるのにも来た時より込める力が増した。部屋から体を出し、開けた状態を保ったまま少女に向き直る。

「またな」

 閉じて、歩き出す。ドアの向こうで少女が何か言った気がしたが、気のせいだろうと自分に言い聞かせ、そのまま帰路についた。


 翌日、僕はまた少女がいる部屋の前にいた。なんとなく部屋に入るのが怖かったので、しばらく立ち尽くしていた。いや、嘘だ。なんとなくではない。怖いと感じる理由はわかっていた。自分がこのドアの前に立つたびになにを想像しているかわかっているのだから。ただ昨日の会話によっていつもより強く意識させられたそれをなんとなくだと思いたいだけだ。想像ではなく妄想だと思いたいのだ。

大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。ドアの取っ手に伸ばす手が小さく震えている。指先が熱を宿していない。取っ手をぐっと掴み、冷たい指先に、震える手と腕に力を込めドアを開いた。部屋の中の光景が目に飛び込んでくる――。


 蝉の声が、一瞬聴こえなくなった気がした。


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