包丁
五月十三日。言わずと知れた母の日である。
数日前からニュースではその日についての話が出て、どこぞの女優はカーネーションと手作りクッキーを送るつもりだと話し、俳優はやはりカーネーションと旅行券をプレゼントしたい語り、自分のイメージアップに忙しい。花屋はバイトを雇い、色々な店が軽い贈り物になりそうな商品を店の目立つところに配置する。
そうして迎えた当日、天気は生憎の雨。銀島は――百万円の入ったスクールバックを肩に下げて家に帰った。
夕立町の高級住宅街。そこに銀島の家がある。
似たような形と色とサイズをした一軒家がズラリと並んだそこは、銀島が好きなこの街で唯一嫌悪を感じる場所だった。
統一されていて、揃えられていて、綺麗に均されたここは個性を赦さない。充実した金銭だけではなく社会的地位の高い者にしか「ただいま」を言わせないブランド性を崇拝する信者たちは、壁の色を派手にすればやれ景観を損ねるだのと遠回しに忠告し、ある家の一人娘が夢のために公立中学に進学すればやれあそこのお嬢さんは第一志望の私立中学に落ちただの噂が流れる。ここには昼ドラも真っ青なほどにドロリとした空気が白い壁を這っていて――銀島の母もまた、その空気の一部であった。
その内の一つ、やはり個性のない白い一軒家の門扉を開けて中に足を踏み入れ、玄関扉の前に着くとなんのキーホルダーも付いていない鍵を差し込んだ。
ただいま、とは言わない。
言ったところでなんの返事も帰って来ない為言うことがなくなった、幼い頃からの癖だ。しかし、今は――
「あらぎんちゃん、お帰りなさい」
――一方的にそう言ってくる存在がいる。
その人物――銀島の母親は、わざわざ広い家の玄関まで出迎えに来ていた。いつもは無視をして二階に上がるが、今日は意識して作った完璧であろう笑みを向けて「ただいま、母さん」と言ってみせると、母親は驚いたように唇を尖らせてから「今日はご機嫌なのね」なんて声を弾ませた。
「おぇ」
「え?」
「なんでもない。……母さん、今、ちょっといい?」
腹の底から沸き上がった吐き気を疑似的に吐き出す動作をすることで堪えた。直ぐに表情を戻して母親にそう問うと、彼女は少し考えるように視線を外してから「ええ、もちろん。飲み物入れるわね」とリビングの方に背を向けた。
母の日と言えど、今日は平日だ。兄も父も学校と会社で家を留守にしている。三階建ての大きな家、たった二人の人間がリビングの一室で机に向かい合って座った。
「それで、どうしたの? 朝から出かけていたみたいだけど」
母親が自分で入れたコーヒーを口に付けながら切り出す。白々しいな、と思いながら、銀島は彼女が煎れた同じものを啜ることはしない。
「今日、母の日だろ」
銀島がそう言って鞄を漁ると、母親が嬉しそうに「えーっ!」とやたら若々しいリアクションをした。それもそうだろう、銀島は生まれてこの方誕生日だろうがクリスマスだろうが彼女に贈り物なんてしたことはない。
――……。
銀島は、勿体ぶって鞄をごそごそさせるフリをして、母親の顔を盗み見た。少々無理のある若作りなメイクは笑った瞬間のしわでひび割れていて。そして、銀島にはわかった。その表情は、「やっとわかってくれたのね」と語っていた。反抗期の息子がようやく自分の言うことを大人しくきいてくれたときの顔に近いだろうか。再び嘔吐きそうになったのを、小さく息を吸い清涼な空気を取り込むことで誤魔化す。
――これを出したら、『ハッキリしちまう』。
――いいのか。
――いや。ここで止めたらなんのために素っ裸で三時間座ってたのかって話だろ。
ほんの少しの躊躇の後。
銀島は、百万円が入った封筒を机上に置いた。
「……え、と?」
母親が戸惑った声を出すから、
「百万」
と、銀島は答えた。
「九歳までに、母さんが俺にくれた金。一週間に二千五百円。それが三歳頃からだから、九十万で、あとの十万は再婚した後に値上げしたから」
銀島は笑顔で、彼自身も本当に感謝しているつもりだった。素っ気ない茶封筒の入口から数枚札束がはみ出ている。
「ありがとう、母さん」
たっぷりの感謝と――愛を込めて、銀島はそう慈しんだ。
マニキュアで彩られた銀島の母の指先から、カップの持ち手が離れ、高い音を立てて机上に黒い液体がぶちまけられる。白い湯気を立てながらやがてじわじわと広がり、茶封筒までもが黒色に侵されても、銀島はそれを気にせず母親の反応をじっと観察した。
「……仕返しなの……?」
――『仕返し』。
そう取るか――と、銀島は目を伏せた。この時点で、彼の中では一つの答えが出ていた。
「いやよ、いや……私今まで、ちゃんとやってきたじゃない……そんなことしないでよ……。また捨てられたら、もう、私を愛してくれる人なんて、だって、しょうがないしゃない、だってだって、ぎんちゃん誠一さんの子じゃないんだもん、『銀島』だもん」
母親が手の平で顔を覆い、ぶつぶつと何事かを喋り出した。『母親』のメッキが剥がれ、震える声色から奇妙な幼児性が滲み出る。
「……ともかく、その百万は母さんのだから」
中学三年から出来るバイトをしてきて貯めた百万。恐らく既に大分コーヒーが染みこんでしまっただろうが、もう銀島にはどうでもいいことだった。それよりも、これ以上ここにいたら、本当に胃の内容物を逆流させそうだった。膝に置いていたスクールバックを持ち、リビングに出て行こうとして――強く腕を掴まれた。
「ッ……んっだよ」
思わず強い口調になり、マニキュアで飾られたその手を剥がそうと引っ張るが、放れない。細い指が締め付ける様は、虫が這う感触に似ていた。
「ねえ、愛してるじゃない。私……、あんたなんて、あいつの子供なのに、ちゃんと反省して、……改めたのに、あなたは、いつも私に酷いことばっかり……」
「――放せよ」
「優しいお父さんも頼りになるお兄ちゃんも大きな一人部屋も行きたい学校も全部全部用意したじゃない。なにが不満なのよ、なんで反抗するのよ」
「放せ」
「ねえ――『ぎんちゃん』」
「ッ放せよ!!」
あまりの嫌悪感に力任せに腕を振り、母親の手のひらを弾いた。ガリッとなにかに引っかかる感触がして、母親が、眼を見開いた。マニキュアのスパンコールの一部が今の衝撃で取れている。
「――イヤァッ!!」
母が、口の端を裂かんばかりに絶叫した。
「痛いィ痛いいたいぃいいたィいっ! 爪がぁ~アッ、ァううんぅっ、ぅ、ぅうああ……! ぁあほら、ほらね、あんたもっあんたもあんただから、あいつの子供なんだ! ほらぁ! そうやってすぐ殴る! 女のことを見下してんだ! だから中学生なんかに手を出して――」
整えられた髪をぶちぶちと引き千切りながら叫ぶ母親をこれ以上見たく無かった。随分と久しぶりに怒りに任せて叫んだせいで喉がひりつく。背を向けて足早に玄関に向かうと、銀島のその後頭部に奇声と共に熱いコーヒーが入ったカップが投げ付けられた。一口も飲まなかった銀島の分のものだ。
「――ッづ……!」
項から背中に強烈な熱さを感じ、思わず手で抑えると熱さが手のひらにも貫いた。一気に毛穴から汗が滲み出る。このヒステリックババア、と口から出そうになるのを堪え、銀島は家を出た。
外の雨は酷くなっていた。彼方まで広がっていた青空は分厚い雲に覆われ顔を隠してしまっている。殴る様に門扉を開け放ち、塀に当たってガチャンと鳴るのを無視して駅の方へ向かう。
「くそったれ……!」
首がまだ猛烈に熱く、銀島はパーカーのフードを広げて雨粒が当たりやすくした。徐々に冷えていく感覚に安堵しつつ火傷になっていないか確かめようとじんじんと疼痛を訴えて来る箇所に指先で触れる。痺れるような痛みに、確実に表皮は損傷していることが伺い知れた。
「いってぇな、まじで……あー、もー……」
頭に上っていた血が急速に熱を失っていく。銀島は昔から、怒りの感情が湧くことは少なかったし、それが顔を出したとしても直ぐに冷めた。そもそも彼の勘に触るような人間は、彼の母親くらいだった。
――『仕返し』か。
母親の言葉と顔を思い出す。痛みで歪んだ表情のまま、は、と笑みを零す。
「……そうか、やっぱり、そうなんだな」
もうあの家に帰っても、銀島の利になることはなにもないだろう。今日のことは、母親の本性を知らずに愛す父の耳に入り、益々面倒なことになる。十年間過ごした家に一切振り返ることなく、銀島は高級住宅街を去った。
***
今年に入って一番の大雨だという今日、氷色は学校の帰り道、駅と学校の間をふらふらと寄り道しつつ歩いていた。
こんな日はさっさとアパートに引き籠るのが吉とも思ったが、普段から日の当たらないワンルームは湿気臭く、気分も下向きになるものだから外の方がマシと判断したのだ。
梅雨には早すぎるじゃないか、と傘の庇護下から空を反抗的に見上げると、その瞬間雨粒が氷色の瞳孔に直撃した。反射的に目を瞑ってすぐに頭を引っ込め、代わりに顔を横に向けて街並みを見ていると、あちこちに赤いデザインで『母の日』と書かれたポップが目に入った。
――毒電波、今日学校に来なかったな。
――そんな大がかりなプレゼントしたのか……?
銀島は度々学校に来ない日があったが、今日は先日話していた母の日であるということが少し気にかかった。朝からサプライズでもして、午前授業だから面倒くさくなってそのまま来なかったとか。大いにあり得る話だ。
銀島と言う人間は、傍目から見ると完璧な変人だが、その中にはいくつかルールがあるようだった。
それは大きく分けて二つ。
他者の自由を侵害しないことと、
自らが行ったことに対する責任は取ること。
前者は自由を侵害する相手は『友達』のみと厳しい線引きがされていることでわかり、後者は自分の都合で休んだ日にクラスメイトにノートを写しても良いと進められても断っている点でわかる。我慢に弱いと自称するから、恐らくそういうルールを作らないと人間関係や日常生活に亀裂が生じるのだろう。
出会って一ヶ月、氷色は、腹違いの弟のことがわかってきた。かなり、大分、結構、個性的な人間だったが、彼から見れば、まあまあ良き友人だった。
「……、」
氷色はふう、と息を吐いた。傘を叩き付ける雨の音が心地良い。彼は、雨が嫌いではない。否、降っているときは人並みに鬱陶しく感じてはいるが、徐々に小雨になって、やがて分厚かった雲から柔い天使の梯子が下りてくるのが好ましかった。
――そういや、向こう何日かは降るらしいって委員長が言ってたな。
もしかして自分が知らないだけで、本当にせっかちな梅雨が来てしまったのではないだろうか――氷色は少し傘を持ち上げ視界を明瞭にした。
――と。
「は?」
思わず声が出る。
大雨のカーテンの向こう、飲み屋の軒下。そこに、まるで物乞いのように座り込んだ姿勢で、銀島がいた。赤毛にいつものパーカー。見間違えるはずがない。氷色は、思わずなにかやっているのかと立ち止まって観察してみたが、彼は通行人にいくつか視線を投げられているにも関わらず、顔を伏せて静かに膝を抱えていた。
「……」
ぱちゃぱちゃと、氷色はずぶ濡れのローファーで歩を進め、銀島の目の前で止まった。銀島の姿勢は変わらない。足音には気付いているだろう、それでも反応がないということは、あえて顔を上げないか、こんなところで眠りこけているかのどっちかだ。どちらもあり得る、と思いつつ「おい、毒電波」と声をかけると、濡れてボリュームの無くなった赤毛がパッと上向いた。素で驚いたような顔だ。
「れ? 今帰り?」
「ああ。なにやってんだ?」
「あー、休憩? いやさ、傘忘れてさぁ、こんなんじゃ店入れてもらえねーじゃん? とりあえずここで服乾かしてよっかなって座ってたわけ」
銀島が緩慢な動きで腰を上げ、ぐぐっと伸びをする。どうにも苦しい言い訳だ。「でも見ろよ、雨も滴るいい男だろ」なんて続ける姿はちっとも頭に入ってこない。
「『母の日』は、どうしたんだ」
そう訊くと、銀島は一瞬口角を引き攣らせ、「おう、ちゃんと渡したさ、プレゼント」と答えた。
「受け取ってもらえたのか」
「一応」
「喜んでたか」
「さあね。……んだよ、今日は随分知りたがりだな」
ここまでの回答で、氷色はもう、大よそのことは察しがついていた。
なにが、母の日にプレゼントを贈ろうと思える相手、だ――。きっと違う。もし銀島が本当に喜んでほしくて贈り物をしたのなら、なにを送って、どんな反応で、どれだけ嬉しかったか、この男はその良く回る舌で語るだろうことを、氷色は知っていた。
「……ちょっと待ってろ」
氷色はそう言って一度その場を離れ、近くのコンビニで温かいお茶とビニール傘を買って戻ってきて、その両方を銀島に渡した。不思議そうな顔をする銀島に、
「『友達』だからな」
そうぶっきら棒に言い放ち、着いてくるように言った。
後ろから傘を開く音と雨の日特有のぱしゃぱしゃという足音が着いてくる。目指す先は氷色のアパートだ。かび臭い我が家の空気を思い出しながら、氷色はひっそり息を吐いた。
***
駅を南口から入り、北口から抜け、駅前から遠く離れたところに氷色のアパートはある。隣に建つ安いホテルとの距離が近過ぎて窓からは一切光は入らず、置かれた家具は冷蔵庫と備え付けの小さなキッチンくらい。安価であることが第一優先の、いかにも一人暮らしの学生の部屋といった風で、あまりの生活感の薄さに銀島はしばし目をぱちぱちとさせた。
と、その顔面に唐突に白い物体が投げ付けられる。
「ぶっ」と無様な声を上げながらそれを手に取ってみると、白いバスタオルだった。ごわついていてややしわもあったが、洗濯洗剤の清潔な匂いがした。
「……さんく」
「畳がカビたら殴るからな」
雨で濡れて帰ってきてタオルを渡されたのは、二年前にたまたま父が家にいて母がそうしたとき以来だった。過去の記憶から目を伏せつつ、銀島は玄関先で髪を拭き、水滴が垂れないことを確認してから部屋に上がった。傘は、玄関扉に立てかけておく。
「毒電波」
「ん」
「うちの母親は、お前の言葉を借りるならくそったれのくそつまらないくそばばあだ」
「ん、んん?」
突如氷色の口から飛び出た母親を盛大に貶す言葉に、さすがの銀島も狼狽える。あまり言い慣れないのか、若干覚束ない口調だ。
「週に飯代ってことで千五百円渡されて、筆記用具が欲しくてねだったら同じ団地に住んでる人に頭下げて買って貰えって三日部屋に入れてもらえなかった。若くて美人だったし、外面が良くて誰にもオレのことを悟らせなかった」
氷色が淡々と語りながら白いカーディガンを脱ぐ。徐々に気温が上がってきて暑く感じていたのだろう、その下は半袖のシャツだった。そこから出る生っちろい腕には、切り傷や根性焼きの痕が生々しく張り付いている。
「最初からオレのことを自分の子供だと思ってなかったって、よく言ってた。……けどオレが『スコール』ってわかったら補助金欲しさに朝飯なんて作るようになって……。……そんな感じ」
そう言い終わるころに、カーディガンはハンガーにかけられた。氷色は「パーカー寄越せ」と銀島に言った。意図はわからないがこのまま濡れた上着を着続けるのは嫌だったため脱いで渡すと、氷色はなにも言わずにそれを受け取り、銀島を待つように黙った。
――あぁ、そういうことか。
銀島は、以前氷色に、人との距離を近付けたいなら秘密の共有を謀れと言ったことを思い出した。大事なことは『共有』の部分で、まず先に自分が秘密や普通の人には言わないような内緒ごとを口にしなければ、相手は心を開かない、と。
だからってなんの脈絡もなしに暴露し出すのは変だと思うが、氷色なりの方法だったのだろう。これに気付いたからには、銀島も、その誠意に答えなければならない。
「うちは週に二千五百円だった」
「おお……金持ちだな」氷色がちょっと羨ましそうに言った。
「離婚した男の慰謝料が、多分結構な額だったんだろうな。ただヒス持ちで思い込み激しくってさぁ、なんか気に障ることあるとマジ話聞かねぇの。あと清楚な団地妻みてえなツラと恰好してんのに男癖も悪かったな。でも、一応、俺のこと愛してくれてたぜ。再婚してからも二十代気分の、ろくでもねえ若作りババアだけど」
銀島は、しばらく黙った。珍しく言葉に詰まったように口をもごつかせる。氷色に促されて畳に腰を下ろしても、不機嫌そうな顔で口を暫く動かさなかった。
「……小三のとき、誘拐されて、……それは良かったんだよ。別に、だって非日常は楽しいから。もう一回おんなじことが起こったら良いなとさえ思う。クソだったのはその後だ、あの母親、急に猫撫で声で媚び売るように……てめえが目を離したことを旦那に責められたくねぇからって、俺を使いやがった」
また少しの沈黙の内、氷色は「プレゼント、なにを送ったんだ?」と問う。
銀島の濡れた赤毛の先から、一滴の水玉が彼のスラックスに落ちた。とっくに濃い色に変わった生地に染みこんだとき、銀島がニッと口角を吊り上げた生意気そうな顔で「百万」と言い放った。
「は? 現金ってこと?」
「おお、そうさ、嫌がらせにな! 机に叩き付けてやったさ!」
「なるほどかなり嫌味だな」
「だろ、俺って天才」
「オレはもうあの人とは関わりたくない。最初は『学校どう?』から話が始まっても最終的に金の話になる」
「回りくどく言わねぇでさっさと人権売っぱらって足輪着けて来いって言われた方がマシだぁな」
「半端に後ろめたさ感じるなというか」
「それな!」
似通った境遇からか、妙に盛り上がる二人。過去のどんな人間とも出来なかった、苦々しい母親の思い出を共有する。
そのままコンビニに行き食料を買いながら、
「つーかクラスの女子とかにさ、調理実習とかで『銀島君って手際良いね』とか言われると、いやまあ親がネグレクってればそりゃ自炊も覚えますわみたいな」
「節約してかないとやってけなくなるよな。オレ、冬場に外に出されたこと何回かあって、近所のゲーセンと本屋の暖房の設定温度未だに覚えてる」
「あの頃よくぶん殴らなかったよ、俺ら。偉い!」
「あ、チャッカリマンチョコある」
「まじ? 懐かし。買お」
「金があるっていいな」
アパートに戻り、
「毒電波」
「お前ほんとその呼び方止めないな?」
「あんたって家に帰らない日どうしてるんだ? ホテルとか?」
「いやぁ週に三回も四回も泊まってちゃあさすがに金が無くなっちまうよ。んー、だいたい漫喫か、あと安い飲み屋とかバー点々としたり、ずっと歩いてたり」
「……今日もか」
「お前が泊めてくれんなら話は別んなるさ」
「別に構わないけど、布団はないぞ」
「え?」
「布団はない」
「や、そこ訊き返したわけじゃ……マジ? 俺イビキうるせえかもよ?」
「我が家のように寝そべりながらポテチ片手に遠慮されても……」
「まじかぁ。いやでも、親がいねえ友達ん家泊まんの、実はかーなり憧れてた。えーやば、TSUTAYAで借りて仮面ライダーアマゾンズ観ようぜ!」
「うちテレビないぞ」
古い友人――あるいは歳の近い兄弟のような、生温く心地の良い空気がワンルームに満ちる。夜になり、畳にそのまま横たわって寝る際、氷色は背後で向けられているであろう背中に向かってなにか声をかけようとした。
それは恐らく、仄暗い雰囲気を漂わせる銀島に、「落ち込むな」とか、「助けになる」とか、「いつでも泊りに来ていい」――とか。そんなことだったはずだが、変な形で芽生えてしまった兄弟意識と、友人として助けにならなければいけない使命感、それから、きっと銀島はなにうぃ言ってもへらりとした顔で躱すのだろうという予感が綯い交ぜになって、結局氷色は睡魔に腕を引かれて連れていかれるまで、なにも言えなかった。
***
翌日、五月十四日。
世良銀島は氷色のアパートから姿を消していた。代わりに、彼が寝ていた辺りには、ビニール傘とお茶代であろう六百六十円が置かれ――傍らには「ありがとな」と書かれた白いメモ用紙があった。
――先に出たのか……?
鞄もパーカーも無く、傘も持って行ったようだったが、そんなに早朝から家主である自分になにも言わずに出て行くような人物だっただろうか。氷色は少しそんな風に思案したが、誰かを泊めたことも誰かに泊めて貰った経験もない氷色では答えは出なかった。相変わらず外から雨が壁や地面を強く叩き付ける音が継続している。それがさらに氷色の寝起きの思考を散らかし、彼はぼやけた頭をどうにかするために首を左右に振った。
――一先ず、学校に向かうか。
時刻は七時。氷色は畳に置かれた小銭を財布に仕舞うと、制服に着替え始めた。
ザアザア振りの雨の中、学校に到着した。かなり風も出てきていて、下手すれば休校になるのではないかと氷色は思った。二年一組に足を踏み入れるとあと十分でホームルームが始まるというのに生徒は数人しかいなかった。
外が暗いため、朝だというのに教室は蛍光灯に電気が入っている。白い光が目に眩しい。
「あ、氷色君おはよう。雨凄いねぇ」
入口で銀島の姿を探していると、琴乃が声をかけてきた。大雨だろうが列車の遅延だろうが必ずこの時間には教室の席に着いている彼女に感心しながら、「おはよう」と返す。
「バスも電車も遅延してるみたい。氷色君歩いてきたの?」
「ああ、家、近いから。……毒電波、来てる?」
「銀島君? まだだよ」
来ていない――。
氷色は自分の携帯端末を取り出しチャットアプリを起動させるが、やはりそこに銀島からのメッセージは無かった。
「……」
なにか、とてつもなく嫌な予感がした。
銀島が学校をサボることも、時折フラッといなくなることも、よくあることだった。二日間来なくて来たときにどこに行っていたのかと問えば「なんか京都行きたくなって」と、お土産の金平糖と八つ橋を琴乃と一緒に渡された時もある。そういう人間だ。自由が好きで、誰にも止められず、誰にも縛られず、気儘に我儘にあっちに行ったりこっちに行ったり。
今日もきっと。誰も銀島がいない理由を詮索しようとは思わないだろう。今日は雨だし、どうせ雨に濡れるのが面倒臭くてサボったんだろう、と、教師もクラスメイトもそうやって一瞬だけ気を取られてすぐに忘れる。ここはそれが許される学校だ。
――今は、そう思ってしまうことが、何故か氷色には危険なように感じる。
「氷色君……?」
琴乃の不思議そうな声色でハッと我に返る。
「あ……いや、……昨日帰り道で、会ったんだけど……なんか変な様子だったから」
「変って?」
変。へん。ヘン。どう、と言われると、氷色には上手く説明が出来なかった。何かに落ち込んでいるようにも見えたし、何かに失望しているようにも見えたし、何かを諦めたようにも見えたし――わからない。具体的なことはなにもわからなかった。
――そうだ。
――母の日の贈り物。
――嫌がらせで現金叩き付けて、それでどうなったんだ?
氷色は、幼い頃金だけ渡して放っておいた親に「あのときはどうも、このお金のおかげで助かりました」という意味で突き返すことで仕返しをしたのだと思った。女々しく子供っぽい行為だが、銀島にはそういう子供染みたところがある。だから、ただ納得したのだ。してしまった。
「……氷色君」
不意に、琴乃がじっと氷色を見上げながら名を口にした。
「……?」
「考えるときに仕草が、ちょっと銀島君に似てるね」
「え?」
思わぬ指摘に間抜けな声が出る。と、同時に、少しドキリとした。腹違いの兄弟であることを見抜かれたような気がしたのだ。琴乃は氷色の戸惑いを知ってか知らぬか、小さく笑って、眼を伏せた。
「気になったのなら、ありのまま訊けばいいんじゃない? 『なんかあったの?』って」
「……」
「氷色君ちょっとは口数増えたけど、まだ肝心なところ口出したりしないでしょ。また変なこと言っちゃうんじゃないかって」
図星である。ぐうと黙った氷色に、琴乃は手の甲でその肩叩いた。
「銀島君の『友達』なんだよね? 友達を傷付けちゃっても、そしたら今度は私が一緒に謝るよ。だから後悔する前にやりたいことやろう? きっとそれが自由ってもんでしょ」
琴乃の目は、黒縁眼鏡の向こうから勝気そうに氷色を見上げていた。それに後押しされて、氷色はすうと息を吸い込んだ。
「先生に言い訳しといてくれるか」
「『バスが遅れてる』って言っとく。千円は銀島君にツケとくよ」
任せて、と歯を見せて笑った琴乃に背を押され、氷色は教室から出た。
***
琴乃に銀島が学校に来たら連絡をするように頼み学校から出てはみたものの、銀島の所在地には全く見当が付かなかった。電話をかけてみても当然のように相手が出ることは無い。取り敢えず手当たり次第に、ゲームセンターや本屋、靴屋、ラーメン屋、バッティングセンターなど、寄り道したことがある場所を訪れ、顔馴染みの常連に銀島を見かけなかったかと問うも、どこにもその姿は無かった。
そうして数時間探し最後に訪れたのは、夕立町で一等高い建物――八津股ビルの屋上だった。
歩き回ったせいでいい加減足が疲れてきている。氷色は、はあ、と大きく荒れた息を吐きながら周囲を見回すが、陸屋根の上には今まさに水を貯めている貯水タンクしか見当たらない。縁にある溝から溢れた雨水が足とローファーの隙間から侵入してきて鬱陶しさと気持ち悪さを伝える。
――ここにもいないか。
傘は、探している内に煩わしくなり、とっくに手元から離れていた。
街で一番高い場所。そこから目を凝らせば見付かるんじゃないか――そんな半分冗談半分本気の思いで、四月に踏み出し飛び降りた箇所まで近寄り街を見下ろすが、氷色の平均的な視力では当然近くの人々も遠くの人々も等しく豆のようなサイズで、加えて皆傘を差すものだから、その方法はどう考えても無駄な行為だった。
万策尽きる。氷色の脳裏にそんな言葉が過った。
銀島は、顔見知りが多く色んな人間と仲が良かったが、SNSのアカウントを誰にも教えてないし(そもそもあるのかわからない)、彼の電話帳やチャットアプリに登録してある人間の数は酷く少数だ。彼の『友達』による線引きがそうさせたのだろうが、おかげで誰も彼がどこでなにをしているか全く知らない。自由が好きで、誰にも止められず、誰にも縛られず――誰にも知られない。
「……くそ」
結局、『スコール』であろうと氷色はただの高校生だ。なにか卓越した情報網を持っている訳でも言葉巧みに他者の心情を引き出せるわけでもない。友人の安否をただ確認することすら、こんなにも困難だ。
――朗さんに頼んだときは、速攻で見付かったのにな。
高校一年の冬、朗にダメモトで銀島の所在を訪ねた日を思い出す。コンピューターを操り自在にあらゆる情報にアクセスする――彼のような能力が、今自分にあったら。そんな欲求すら湧いてくる。
――いやでも、『スコール』が勝手に能力使って人のプライバシー覗いたら、それこそ問題か。
――……あの能力の持ち主が真面目な朗さんで良かったな……テロリストとかだったら大惨事だ。
疲れた脳味噌が段々と違う方向に考えを進めていく。もう一度溜め息を吐いて視界を遮る前髪を片手で上げたとき、ふと、違和感が胸を過った。
――……? そういえば、なんであんなに早く見付かったんだ……?
朗の能力を使えば、人探しなど相手に戸籍が存在してさえいれば一分で終わる。戸籍管理の電算化が行われてしばらく経つ現代において、電子を操る能力を持つ彼にかかれば、ネットを通し他のパソコンに入っているデータを盗み見ることなど朝飯前だ。しかしそれは、当然やってはいけないことである。個人情報保護法などという中学生でも知っていることを、公務員であり性格も気真面目な朗が犯すはずはない。
では、何故、あんなにも早く、容易く、氷色が頼んだままに銀島に近付くことが出来たのか――。
――そうだ。そもそも無理かもしれないと言われていた。もしくは、会うことは出来ても事情は話すだろう、って。
氷色の首筋を、冷えた痺れが駆け上がる。それが消えるのを待たず、携帯端末を取り出し仕事中であろうにも関わらず朗に電話をかけた。三つのコール音の後、相手が出る。
《氷色君か? すまないが、今は――》
「世良銀島を探すとき、誰にどうやって許可を取ったんですか」
相手――朗は、口早な氷色の声に戸惑ったようで、少し息が詰まったような気配が電話越しに伝わった。
「『足輪』を承認する直前の『スコール』の要求が通りやすいことは知ってます。なにせ人権の一部を差し出すんですから。けど、オレが求めたこともまた、個人に保障されているものを侵害されかねないもの、でした。それがどうして、あんなにすんなりと……」
元々あまり弁の立つ方ではなかった氷色。しぼんでいくように舌が回らなくなり、一気に話したことで呼気が荒れる。それを整えていると、静まった受話口から《少し席を外す》と言う――恐らく部下に向けたものだろう――声がした。それから暫くして、《氷色君》と呼びかけられた。
「はい」
《……我々はあのとき、世良銀島の家族に君の要求に対しての相談をしようとしていた。君が、なにも知らない、なにも取り繕わない、ありのままの彼に会ってみたいという気持ちもわかったし……我々もまた、『腹違いの兄弟』という関係を最初から双方に明かしてしまうのは、壁を作るのではないかと考えていた。どんな『痛み』を受けても無反応な君が初めて興味を示した同世代の少年だ。もしかしたら、ゼロから関係を作り、ごく普通の友人になり得るのではないかと……》
朗は一度、そこで言葉を切った。叩き付けるような雨音が静寂を許さない。
《――電話越しにその提案を聞いていた、彼の、母は……至極面倒臭そうに、『どうでもいいことで時間を取らせないでほしい』と……》
朗の声は震えていた。怒りか、悲しみか、そのどちらもかだろう。利便性の高すぎる自分の能力を一度も悪用したことがないという実直な彼は、きっと銀島の母の言い草に嫌忌を抱いたはずだ。
「……」
額から伝った雨水が目と鼻の縁を伝い、頬を撫でて、顎の先から足元に落ちる。氷色は、自分の噛み締めた奥歯から軋んだ音がするのを感じながら、しかし――あくまで冷静に、自分の頭の中で朗に対し一つの提案とその方法を組み立てていた。
「……朗さん、頼みがあります」
氷色は雨音に掻き消されないよう、少し顔を俯かせて、送話口に雨粒がぶつからないようにした。
獅子目朗。彼は正義感が強く、実直で誠実で、そして情に流されやすい人間だ。――氷色はそれを知っていた。出会った当初はわからなかった。けれど、銀島や琴乃によって学んだ『痛み』の種類を分析すれば、彼の性格は実に簡単なものだ。弱者を見捨てることが出来ず、耳に入った願いの全てを聞き入れたがる――その結果、自分がどんな罰を受けることになっても。他者に寛容的で、自分には自傷的。そういう優しく甘い人間に育った大人だ。
氷色はそれを理解していて、朗が断れないような言い方で、ある頼み事をした。
《……それは、難しい。私は国を守るために生きる『スコール』だ。個人のために能力を使うことは出来ない》
思った通りの反応に氷色はぎゅうと唇を噛み締めた。肺の奥から熱い泥のようなものが這い上がってきている。――この感覚はなんだ。とにかく凄まじい不快感だった。朗ではなく、自分自身に向いたものだということはわかったが、名前まではわからなかった。氷色はそれを息を吸うことで飲み込み、耐える。
「……すみません、気にしないでください」
落とした目線の先に大きな大きな水溜りがある。そこに映った氷色の顔が、尚も狂ったように降り注ぐ雨粒のせいで歪み――一瞬、悪魔のような相貌になったように見えた。
「ただの、オレの我儘です。すみません、どうしたらいいかわかんなくなって、……」
心底困ったようなこの声色は、銀島が人の機嫌を取るときによく使うものだった。彼が、自分の見目の良さを熟知しているが故に、小粋さから儚さまで自在に自分の印象を操る、賢く狡い処世術。氷色がそれを実践したのは、初めてだった。しかも、自分の信頼する相手に――。
――どうかしてる。
――これで毒電波がのこのこ顔出したら、どうするつもりなんだ?
そう自問するも、何故かそういう予感は全く無かった。畳の上に置かれた金を思い出す。翌日に手渡しすればいいものをわざわざ置手紙までして返していることが、妙な不安を助長させた。まるで、氷色が目覚める前より早くに出て行って、なにか準備をする気だったのではと勘ぐってしまう。
電話相手はしばらく口を閉ざしたようだった。迷うような静かな呼吸音がして、《……善処する》と返った来た。
「……ありがとうございます」
通話が切れる。あの間は、どうだろうか――と、氷色は思考を巡らせた。銀島は、頼みごとをして速攻で突き返さない相手は八割頷くと氷色に言っていた。恐らく最後には、氷色の頼み事を了承してくれるだろう。
「……くそ」
悪態を吐きつつ、また垂れてきた前髪を掻き上げる。
――母親か。
――『どうでもいい』って……オレもよく言われたな。
愛情の裏返しは憎しみではなく無関心。有名なその言葉を知ってか否か、氷色の母親は機嫌が悪いときに氷色に度々「お前のこととかどうでもいいんだけど」と言った。お前なんかどうでもいい、周りの馬鹿共が煩いから育ててるだけ――恐らく、氷色が生涯溢す欠伸の回数よりは多く言われた言葉だ。
――飯食える分だけの金を渡されただけマシか。
氷色は、自分が親の望まない形で産まれてきたことを謝る気はない。こういったことが子供側に非はないことを理解していたし、自らの歩んできた道に悲観的になれるような情緒も生憎なことに無かった。しかし、銀島も意地が悪いと思った。食費の百万円。そんな風に嫌悪を嫌悪で返したところで、帰ってくるのはやはり嫌悪だと言ったのは、銀島自身だったのに。
――そこまで、考えて。
「……?」
氷色は言いようのない違和感に襲われた。
――あの毒電波が、そんな仕返しみたいなこと、するか?
世良銀島は、基本的に全てのことに肯定的な人間だ。自分も同意できることには「そうか、オレもそう思う」と笑い、自分に理解できないものには「俺は今まで知らなかったけど、そんなものもあるんだな」とやはり笑う。恨みも悲しみも不安も安堵も現実も虚構も、自由を尊重する故にどんな意見も無償で首を縦に振る。つまり彼は、全ての人間にとって、自分を受け入れてくれる都合の良い人物なのだ。
性格は最悪で性分は子供のままで、頭と顔立ちは優秀だが言動は危ない人そのものの彼の周りに人が集まるのは、そういった理由が大きい。
勿論、肯定性の強い彼だって時には否定し仕返しはする。それは彼の自由が侵されたときだ。しかし今回の場合、銀島はほとんど家に帰らず、また放置されていたために自由であったはずだ。それなのに、わざわざ昔のことを掘り返すように百万を渡したのは――何故。
氷色の脳裏に、転入初日、銀島が氷色の手の甲にペンを振り下ろした光景が甦る。
「……なにかを、試した?」
未だ降り注ぐ雨の中、氷色の呟きは水滴たちに吸い込まれ消えていった。
***
夕立町のホームセンターでレジのバイトとして働く青年――鈴木は、一年ぶりに見たかつてのバイト仲間に目を丸くした。
「銀島じゃん!」
「ん? おお、えーと、」
「鈴木だよ! なんだよお前、バイト辞めて急に買いにも来なくなってよー」
「やぁだってここより駅地下のとこの方が色々安いし。俺辞めるとき店長に超怒られたし。気まずいし」
「あーそっか、そういやそんな感じだったな」
軽口を叩きつつも手元では商品のバーコードを淀みなくスキャンし、カードを所持しているかどうかも忘れずに訊く。首を横に振った相手に「また無くしたのかよ」と笑ったら、「ポケットに仕舞っちゃうんだよなあ。それでいつの間にか」と笑いが帰ってくる。このバイト仲間は、時間があればずっと話していたくなるような、そんな不思議な雰囲気があった。まあ、それで一度鈴木はバイト中もずっとお喋りをしていたせいで客にクレジットカードを返し忘れ、クビになりかけたことがあるのだが。
「お前今なんかバイトしてんの?」商品を袋に入れつつ問う。
「モデルとか」
「へー、そんなんあるんだ。まあお前結構タッパあるしな……、五千円? 小銭平気か?」
「ん」
「あーい。んじゃ千五百十円のオカエシでーす」
外の雨の被害でやや濡れている手のひらに一枚の千円札と小銭を落とすと、元バイト仲間は「じゃあな」とやや素っ気なく店を出て行った。
「鈴木ー、レジ交代」
と、それに入れ替わるようにいつも同じ時間帯に勤務しているアルバイターが顔を覗かせた。それに「おう」と相槌を打ちつつ、画面を操作して交代の手順を踏み、相手と場所を変わる。
「なあ、今の銀島?」
「そうそう」
「へえ……店長と喧嘩して辞めたからもう来ないかと思った」
「一人暮らしでも始めたんじゃねえの」
「なにそれ」
外に出たくなくなるような大雨の平日の昼間、客は少なくレジに会計に来る者もほとんどいなかった。暇を持て余したアルバイターたちは、かつての同僚が買っていったものに勝手な予想をつけて雑談を楽しむ。
「いやだってそうでもねえと、包丁なんてそうそう買いに来ないだろ」