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母親

 五月上旬。


 警視庁の特殊寮一階のキッチンで、ガラス製のコップが砕けるぱりんという音が朝の空気を震わせた。


「……あ、……」


 コップを落とした女性――カガリ由貴ユキは一瞬身を固めてから額に左手を当てた。

 割れたコップの片付けで朝の短い時間が取られるだろうことを煩わしく思ったわけではない。彼女が深刻だと思ったのは、この音を聞きつけてやってくるもの。


 と、溜め息を吐こうとした瞬間――背後のキッチンのドアが派手に音を立てて吹き飛んだ。


「篝!!」


 ドアを蹴とばしたその片足を上げた体勢から微塵も体幹を揺らがせず、手には拳銃を構えて入室してきた男が彼女の名前を叫んだ。


――うわあ。


 男は銃口をサッサっと左右に向けて敵影がないこと――当たり前だが――を確認すると、「無事か!」と由貴に問う。


「……隊長、ここは女子寮です」

「む……しかし、物が割れる音がしたものだから、なにかあったのかと」

「コップを割ってしまっただけですよ。というか銃を仕舞ってください」


 というよりも、男子寮から女子寮は結構な距離があるのだが、どうすればその距離で音を聞きつけて、そして一秒にも満たない時間で来ることが出来るのだろう――考えても無駄な疑問がどうしても浮かんでしまい由貴は首を横に振ってそれを払った。


 由貴が『隊長』と呼んだその男。名前は獅子目シシメホガラ。天然ものの金髪と顔に刻まれた片目を潰すほどに酷い大きな火傷痕、均衡の取れた分厚く高い背丈という威圧感のある外見は「名字は似合うけど名前は似合わない」とよく言われていた。


朗は由貴の言葉になにか落ち込んだ様子で銃口と共に顔も床の方向に向ける。その様子に、由貴はハアと溜め息を吐いて一歩近付く。


「……心配してくださりありがとうございます。しかし私は子供ではないですし、なにかあっても自分で対処できます」

「君はまだ二十三だ」

「いや……隊長もそんなに変わらないでしょう」

「だが……」


 朗の目が由貴の右側に移った。


 その視線の先には――なにもない。


由貴の肩から先に左側と対象になるようにあるはずの、しなやかで若々しい右腕は、どこにも存在しなかった。あるのはただ通すものがなくひらひらと垂れている袖のみ。


「……」その眼の意味に気付き、由貴は黙った。そんなに申し訳なさそうな顔されると気まずくなる雰囲気が回避できないではないか――そう文句を言ってやりたいが、ヤクザのような顔立ちに反して酷く真面目な朗はそれを真っ向から受け取って謝ってしまうだろう。


片や、由貴もまたこういった状況をすぐに和ませることが出来るほど器用では無かった。お互いに黙っていると――朗の足元から、ピーーッというけたたましい笛の音が鳴った。


「「あっ」」


 二人してしまった、という顔をする。

 足元――正確には朗の足首。そこにくるりと巻き付けられたアンクレットが一つある。デザインはいたってシンプルで、黒一色にして縦の幅がやや太く、一か所四角く膨らんでいた。アンクレットというよりも、腕時計を足首につけていると言った方がしっくりくる。

それの名前は、GPS搭載スコール観測装置――通称『足輪』。


 『スコール』を監視・管理するための器具であり、それは、由貴の足首にも同様に取り付けられていた。



***



 『特定領域干渉能力保持者』。彼らは、平成の終わりに世界各国の首都を中心に発生した。

 世間的には『超能力』と簡単な一言で済まされているが、その実態を説明すると、世界に存在する『一定の領域』内にある『特定の対象』に直接触れずに干渉できる能力、とされている。例えば手の届く範囲という『領域』にある『金属物』という特定の対象を変形させる能力――といった具合に。この程度のものなら別に能力者でなくても可能なことだが、動物と話す、宙に浮く、などというものは容易く真似は出来ない。

ヒトから離れたその力を危惧した政府は、二〇二〇年の最初にして最大の『スコール』犯罪――西尾ショッピングモール爆破事件をきっかけに、警視庁に対スコールの組織を設立した。


 名前は、警視庁公安部公安第五課、特定領域干渉能力保持者(学名:Squall)保護係。

その中にある第一実働部隊――通称『観測機動隊』。それが、隊長・獅子目朗と副隊長・篝由貴が率いる組織の名前だった。


 隊員のほとんどが『スコール』であり、確保した能力者に足輪を嵌める彼らもまた、自身の手では外せない足輪を着けていた。



 そんな彼ら実働部隊の仕事だが、基本的には『スコール』による犯罪や事件の解決、それから細かいところを言うと能力を活用した奉仕活動やら自分と似た能力を持つ『スコール』への指導なのだが――本日は、平時とは変わった仕事が入っていた。



***



 一時間後。

 曇天を写し取ったような灰青色に黒いラインの入った意匠の制服。上品な色味でいてどこか旧時代の軍服めいた形のそれは、『スコール』に関連する機関であることを示した。

 今朝の騒ぎのせいで部屋を出るのが遅くなった由貴は、段々暑苦しく感じてきたその制服の上着に袖を通し、『足輪』のせいでシワになりやすいパンツの裾部分を整えた。最後に、玄関先でブーツタイプの安全靴を履く。


「行ってきます」


 誰もいなくなる部屋にそう声をかけ、扉を閉めた。



 寮を出て桜田通りまで足早に向かうと、内ではなく外から警視庁の地下駐車場に入った。かつんかつん、と靴底に仕込んだ金属の音に、また踵部分の革が破けてしまったのだと察した。帰ってきたらまた発注しようと考えながら目当ての車を探すと、やや奥まったところに駐車されているそれ――黒い地味な乗用車。その運転席で煙草を吸う朗の姿を見て、由貴は駆け足で助手席に回り込んだ。


「お待たせしました」

「いや」


 由貴が車内に入ると、朗はドア部分に取り付けられた灰皿に武骨な指先でギュ、とシガレットを押し付け火種を消した。


「やめたのではありませんでしたか」由貴は、臭いで反射的に顔を顰めそうになるのを抑えつつそう訊いた。

「ああ。五回ほど止めるのに成功している」

「それは成功したとは言いません」

「……、確かにそうだな」


 ジョークかと思いきや本気で言っていたらしい。火傷痕で飾られた顔を神妙にさせた上司に溜め息を吐きたくなりながら、由貴はシートベルトを着けた。それを合図に、車が発進する。

少し沈黙が下りてから、由貴が「そういえば」と口を開いた。


「係長には怒られましたか」

「ああ……、『実働部隊隊長ともあろう男が、女子寮への侵入なんて理由で警報を鳴らすんじゃない』と」

「私も同意見です」


 間髪入れずに由貴が応えると、朗は眉を寄せ唸るように困った相槌を出した。


 地下から出て通りの車の流れに入り、歩道に植えられた木々の風景を見ながら、由貴は朗の姿を視界の端に入れた。朝のキッチンで見たぼさぼさの髪にいかにもパジャマですといった黒い無地のTシャツと打って変わり、きっちり整えた頭髪に由貴と同じ灰青色の制服。首から下を見ればそれこそよく鍛えられた肉体も相まって軍人めいているが、顔の印象が闇金業者か暴力団関係者なため、妙なギャップを生んでしまっている。当初は違和感の有ったその組み合わせだが、五年という長い付き合いでもう見慣れてしまった。


二人は現在このようにカッチリ機動隊としての制服を着用し車を柱得ているが、今から出動というわけではない。これから向かう先はとある高等学校。本日は、そこで『スコール』についての講義を行う予定である。制服はいわばパフォーマンスの一部だ。

 場所は文京区の夕立町。高校の名前は、櫛城高校という私立校である。


 しばらくして。


「……係長は」


 ぽつり。無口な上司が珍しく自分から話し出して、由貴は窓の外に向けていた眼に一度目蓋を下ろしてからそちらを向いた。


「『スコールの理解を深めるために特別講義を開催することにした』と言っていたが、おそらく……」

「ええ、『彼』の様子を見てこいということでしょう。そうでなければわざわざその高校を選んだ意味はないでしょうし……」


 車が左折し、しばらく道なりに行くと頭上の案内標識に『文京区』と書かれるようになった。

――都心にしては物足りなさを感じる高さのビルが連なる街、夕立町。かつて、足輪を嵌める前に、確かめたいことがあるから束の間でいいから自由が欲しいと、必要なはずの生活保護を振り切ってまでその街に赴いた少年がいた。


「どうしてますかね」

「きっと、会えばわかるだろう」


 どこか弾んだような声色で朗が返した。と、車の運転席側のドアガラスが中ほどまで開き、朗が『両手で』煙草のケースからシガレットを取り出した。それが機嫌の良いときの行動だと由貴は知っていたが、吸うのならもう少し窓を開けてくれと注文をつけようとして――思考にストップをかける。


――『両手』?


 重要な部分以外の情報を取ろうとしない自らの視覚機能の横っ面を叩き今見た光景をもう一度見ると、朗の両手はハンドルを握っていなかったし、まさかと思って足元を見れば、両足ともアクセルにもブレーキにも触れていない。


「…………隊長、こちらも開けていただけますか」


 確認する意味でそう頼めば、朗はこちらに視界を向けることも指先も動かすこともせず、ただ「ああ」と承諾する。と、助手席側のドアガラスが『ひとりでに』ガ~と呑気な音を立てて下がった。春と梅雨の中間にあるやや湿気を帯びた風が由貴の髪を揺らす。マールボロの苦い臭いと風の音が沈黙を埋め十秒、ようやく朗が失態に気付いたようで「あ」と、しまったの同義語を喉から発した。


「……隊長!」

「ふふ。すまない。今日は好きに使ってもいいと言われていたからつい」


 極悪人のような恐ろしい顔立ちで、朗が少年のように笑った。



***



 数時間後、櫛城高校第三講義室。


 何事もなく目的地に到着した二人は、教員らの歓迎もそこそこに、午後の時間を使い第二学年を対象に講義を行っていた。


「一番最初に発見された『スコール』は、上空の領域に干渉し、水分量を増やしたり逆に減らしたり、温度を上げたし下げたり……つまり、天気を操るに近い行為が出来る能力者だったそうです」


 スクリーンに投影される絵を使って説明する朗に合わせ、由貴はプロジェクターに繋がるパソコンのエンターキーを押す簡単な仕事をする。


「と言っても当時はまだその能力が解明されておらず、彼も無自覚で、能力を制御出来ているわけではありませんでした。ただ、彼が少し遠出をすると必ずその地域を突発的な雨風を襲ったものですから、友人知人がふざけて『ミスタースコール』と呼んだことが、特定領域干渉能力保持者の学名に繋がったと言われています」


 ぽちり。エンターキーをタップ。確かに自分は片手しかないし機械に疎い部分もあるが、この扱いは酷くないだろうか――そんな不満もありつつ、由貴は自分の務めに集中する。


「二〇二〇年を過ぎると、西尾ショッピングモール爆破事件のこともあり『スコール』の存在が一層公になりました。自分の能力を悪用したり、制御が出来ずに人を傷つけたり、あとは『スコール』を神の遣いとする宗教なんかが出てきたこともあり、そういったスコール関連の問題を解決するために作られたのが警視庁の公安第五課という部署で、私たちはその中でも『スコール』による暴動があったときに駆け付ける観測機動隊という部隊に勤めています」


――あ、よかった。今回は噛まなかった。


 以前、別の学校での講義の際「かんしょくきどうたい」と酷い滑舌を披露し少年少女に笑われた朗の姿を思い出しつつまたエンターキーを押す。気の抜けるような絵柄を使った図説だ。さっきからページを変える度に少し笑いが起こっている。威圧的で恐ろしい雰囲気のある彼が真面目な顔をして小さな女の子が書いたような絵を指して説明する光景がなんともシュールで感情を擽られるのだろう。もうちょっとスタイリッシュな感じにならなかったのだろうか――少し呆れながらも、パワーポイントを制作した張本人の説明を耳に入れた。


「因みに私は『電子操作』の能力を持っています。昔事故で両足を無くしたのですが、現在電動の義足を使用しているので、能力でそれを操ることでとても速く走れます。機動隊に入れられたのも、もしかしたらこれが理由かもしれません」


 そう説明しながら朗はブーツを脱ぎスラックスの裾を捲った。そこには生身の肌色の硬いではなく、機械の武骨さと人工筋肉のしなやかさが合わさった実用的な形かつ、夜空の如き黒に青いラインが入ったスタイリッシュなデザインをした義足があった。おお、世の男子諸君。これがスチームパンクのロマンであるぞ――そう主張するような両の足に、生徒は痛々しいものではなく仮面ライダーベルトを初めて見た少年のように目を輝かせ、最前列の赤毛の男子生徒は「かっけぇ!」と声を上げていた。それに、隣に座る生徒が「うるさい」と乱暴な言葉で静かにするよう注意していた。


「そしてこれが、『足輪』で知られるGPS装置です」


 朗が、機械仕掛けの自分の足首を指しながら続けざまに放った言葉に、少々ざわついていた室内の空気が静けさを取り戻した。

 由貴は、またエンターキーを押す。スクリーンに映されたのは『首輪』の構造と、その役割。大きな赤字で『居場所の追跡』、『立ち入り禁止区域に入った際の警報』、『★不承認の行動に対する電気ショック』と表示されている。


「この赤字が、主な役割です。一つ目と二つ目は読んでそのままですが、三つ目は人権を著しく侵害しているということで、『スコール』によっては実装されたりされなかったりマチマチといったところです。ただ、犯罪歴があったり能力の規模が大きすぎる『スコール』の足輪には備わっていることが多いです。……あぁ、私も後者の理由でその機能がついてます」


 「例えば、」朗は、ズボンの裾とブーツを元通りにしてから、きょろりと視線を巡らせる。やがてそれを由貴の目の前にあるパソコンに留めると、アイコンタクトで少し退いてくれ、と合図。それを受け取り、由貴は腰を下ろしていた椅子から体を離した。


「――、」


 朗が小さく息を吸い、視線をパソコンに固定したままその目に力を入れた。すると――パソコンの画面内で勝手にブラウザが開き、検索画面が表示された。由貴はなにも触っていないことを示すために手のひらを見せつけるように挙げる。検索画面には、タイピング音も聞こえないのに『け い し ちょ う』と打ち込まれていって、最後は漢字に変換される。ちょっとした心霊現象のような出来事に女子生徒から小さく悲鳴が漏れ、後方の列で生徒が寝ないように見張っていた教師も口を開けて見ている。


「とか、あとは……」


 視線が、今度は生徒たちの方へ滑る。と、真ん中あたりの列、こっそり膝元で携帯端末を弄っている生徒に目を付けた。数瞬の後、突如その端末がプルルルッと着信音を上げ、生徒は「うわっ!?」と仰け反った。


「こんな風に、電気を使うものならなんでも操れるから、普段は厳しく制限をされてます。私はとてもまじめな人間なので悪用しようと思ったことはありません」


些細な冗談――本人は真面目なのだろうが――に生徒は一瞬笑いかけたが、その後に「――が、車を操って人を撥ねることも、どこかの国のコンピューターを操ってミサイルを発射することも、対象が干渉可能な領域内にあれば可能です」と続いて彼らは口を閉じた。

沈黙が、場を満たす。朗の言葉の続きを待っていた由貴は、自分が次のページに変えないと進まないのだと気付いて、慌ててパソコンに近寄る。


――と。


「質問いいですか?」


 かけられている重力が増したような雰囲気になってしまった室内に、どこか気だるげで、語尾が間延びしたような声が響いた。反射的にそちらを見ると、先程朗の義足を見て真っ先に食いついていた赤い髪の少年の姿があった。私服であろう黒いパーカーにピアス。素行が良さそうとは思えなかったが、場の空気を変える意味も含め、由貴は朗に視線でOKを出した。


「どうぞ」朗が言う。

「では、『足輪』をしていない『スコール』は危険ですか?」


 直球過ぎる質問に、由貴は息を飲んだ。

 かつて強くあった『スコール』に対する偏見からくる酷な扱い、無遠慮さ、奇異なものを見る目、その他嫌なこと諸々を思い起こさせてくれるような質問だった。こんな答え辛いこと訊かれるなら朗にOKを出さない方が良かったのではと後悔したところで――ふと、少年の顔がこちらを向いた。正面で説明している朗ではなく、由貴の方を。

染めたようにも地毛のようにも見える派手な蘇芳色の毛先が、その少年の額を撫でている。ギラついた精悍さのある顔立ちと軽薄そうな表情が混ざった不思議な印象だが、こちらを見る瞳に悪ふざけといった感情は感じられず、スクリーンが反射してハイライトの入った瞳は奇妙な知性と真摯さを醸し出していた。

少年が一つまばたきをして、視線を朗に戻す。


「――危険だ」


朗が、はっきりと淀みなく言い切った。

先程までの似合わない敬語が消え、厳粛な空気が流れる。


「まあ……『スコール』が完璧に自分の能力が操れていれば、我々が毎日の出動と報告書と始末書に追われて二十連勤とかいう事態にはならない。カマイタチのような能力で辻斬り事件を起こした奴もいれば、……発火能力で嫌いなクラスメイトの家に放火した奴もいる。犯罪予備軍呼ばわりされるのも、無理はないだろう」


 朗の回答に、少年は表情を変えなかった。同意したわけでも難色を示したわけでもなく、言うなれば、ただありのまま飲み込んだような顔で、静かに耳を傾けている。

 朗は少年の歪みなく真っ直ぐな視線に答えるように、一度切った言葉を再び紡ぎ出した。


「――しかし。『スコール』は獣ではなく人だ。人は悪いことをしたら罰せられることを知っている。それでも自分の特別に酔って罪を犯すなら、それは『スコール』である云々というよりは人間性の問題だろう」


 強い口調だった。特別講義に来た外部の人間という皮が脱げ、由貴の知っている軍人気質のような佇まいが顔を覗かせる。


「同胞だからと庇うわけでは無いことを承知して聞いてほしいが、『スコール』だけが特別危険というわけではないんだ。人には誰しも、魔が差したり、憎悪で思考が鈍ったり、よくない好奇心に勝てなかったり、そういう瞬間がある。そこで理性を保てずに一歩踏み出してしまう人間は――『危険』だ」


 少し、間があって。


「――……君も、気を付けてくれ」


 朗は、赤毛の少年に向かいそう言って、数秒後に思い出したように「です」と付け足した。

 その一連の回答に、少年は「ありがとうございます」と血色の良い頬に満足そうな笑みを浮かべ、無難な礼を口にした。



 その後も滞りなく講義は進み、一時間ほどで予定していた内容は終了した。


 生徒は週末最後の面倒な特別授業を終え、各々のクラスでロングホームルームを終わらせた後に帰宅する。そんな中、朗は今朝車内で話したとある少年と会うため、教師に貸してもらった二階応接室の窓から続々と校門を出て行く生徒の群れを眺めていた。

金曜日、いつもよりちょっとだけ早く終わったその日の放課後。このままどこかに遊びに行く生徒も多いだろう。青空の下で楽し気にはしゃぎながら街の方へ向かっていく彼らに、朗は自然と笑みが零れた。


「思い出しますか」


 不意に、ソファに座して温かい茶を口にしていた部下が訊いた。――相変わらず心を読んでいるようだ、と思いながら、朗はそちらに体を向ける。


「隊長があれに巻き込まれたときも、高校生くらいではありませんでしたか」

「いや……確か十四だったから、もっと下だ」

「そうでしたか。体格が良かったので、もっと年上に見えてました」

「篝は……」

「八か九歳です」

「そのくらい幼ければ、制服を着ている者は皆大人に見えたのだろうな」


 話している内、火傷で潰れた片目に掻痒感が沸き上がり、朗はそれを乱暴に擦って掻き消した。すると今度は義足の付け根がむず痒さを覚える。さすがによいしょとズボンを下ろして掻くわけにはいかないので、少々膝関節を折ったりして誤魔化してみる。あまり効果は無い。ふう、一つ吐息を溢し、朗は掻痒感から気を逸らすため、由貴との会話に出てきた過去の事件に思いを馳せた。



 十五年前、東京都豊島区で起こった西尾ショッピングモール爆破事件。言わずと知れた『スコール』による日本最大のテロリズムによる事件である。

どのくらい知られているかと言えば、アメリカの大統領の名前と同じくらいには知られている。その認知度の高さ故「スコールはテロリスト予備軍」という意識に繋がっていることもあるのだが、今回はその話は割愛する。

 その事件、『日本最大のスコール犯罪』と呼ばれているが、実のところ主犯の中年男性は『スコール』ではなく、『スコール』を神の遣いだと崇める宗教の宗祖だった。彼は、親がいない、生活が苦しい、苛めを受けているなどの理由で心に傷を負った『スコール』の子供を集め、『スコール』以外の人間を根絶やしにすることだけが唯一自分たちを救う方法だと教えていたという。その教えを真実だと疑わなかった子供たちは、ある平和な日曜日のショッピングモールで――軽症者二十三名、重傷者九名、死者三名を出す事態を引き起こした。

 朗と由貴は当時お互いを知らなかったし、それぞれショッピングモールにいた理由も違ったが、同じ現場に居合わせた。自分と同じくらいかそれよりも下の子供が血走った眼で人を傷付けるのを見て、同じ『スコール』である朗は説得に持ち込む意味も込めてこう訊いた。

どうしてそんなことをするのか――と。

 まだ小学生くらいの子供たち。どこから仕入れたのか、小さな手に似合わない銃を握っていた。その内一人が、死にかけの野犬のように濁った瞳で答えた。


「わたしたちは『少ない方』だから。多数決で負けた方がジユウに生きるには、『多い方』を減らして、わたしたちがフツウなるしかない」


 今思えば、あの子供らしからぬ物言いから宗祖に教え込まれたことだったのだろう。

 けれど朗は――納得してしまった。この世界の普通と異常を決めることは多数決でしかない。多い方が正しくて普通、少ない方が間違っていて異常。例えば、空の色を、百人中九十九人が『青』と言えばそれは青だ。ならば空の色を見て九十九人が『赤』と答えたならば、たった一人『青』と言う者がいたとしても、それは赤になる。

 それは真実だった。今でも、朗はそう思ってしまう。クラスメイトの顔写真がネットに流出すれば真っ先に自分が疑われ、近所で原因不明の交通事故が起こると道端の主婦がひそひそ声で話しながら登校中の自分を見る。そういう人間だけではないことも、中には『スコール』であることに無関心な者がいることも知っている。しかし、世間は圧倒的にそうであり、そんな彼らを安心させるために『足輪』が生まれたのだから、そういうことなのだ。

 だから朗は、それ以上言葉を出すことは出来なかった。親が悲しむとか、これからの人生をどうするのかとか、まだ間に合うんじゃないかとか、刑事ドラマにでも出てきそうな陳腐な言葉ばかりが脳内を去来して、足と舌を鈍らせた。


そうしてなにも答えられずにはくはくと空気だけを肺から出していたら、その子供は、乾いた笑いを浮かべ、能力によってショッピングモールを爆破させた。


朗は両足と片目を。

由貴は、右腕を失った。


止めなければいけないということは理解していた。けれど、朗は、あのときなんと答えれば良かったのか、未だにわからないでいる。



 コンコン、という控えめなノック音で、朗はぼんやりとさせていた意識を瞬きによって現実に引き戻した。来たか――ソファの方に歩み寄りつつ由貴と一度視線を合わせると、彼女が「どうぞ」と外に立っているのであろう少年に声をかけた。

 扉が静かに開く。そこに、十二月に二人と出会い、ある目的を達成するまで自由にさせてほしいと願い出た『スコール』の少年の姿があった。


「……一番偉い人と二番目に偉い人が仕事場を離れて大丈夫なんですか」


 少年は朗と由貴の姿にそれぞれ視線を伸ばしてから、生意気そうにそう言った。朗は律儀に「部下が優秀だから問題ない」と頷き、由貴は苦笑する。怒らないのは、彼のそのぶっきら棒な物言いが、数少ない信頼する相手への甘えに似たものだと知っているからだ。


「――久しぶりね、氷色君」


 顔を隠すように伸ばした前髪に、線の細い体躯と中性的な雰囲気。少年――氷色は、由貴のその挨拶に「おひさし、ぶりです」とぎこちなく返した。座るように促せば、彼は由貴の座るソファの反対側に腰を下ろし、朗は由貴の隣に腰を沈めた。


――顔色が良い。


 朗がまず思ったことは、それだった。

 会ったばかりの頃の氷色は、慢性的な栄養失調に加え太陽に当たる時間が少なかったため顔付きが病人そのもので、いいから米と肉を食べろと言った記憶があった。それがどうだろう、色白なのは変わらないが、頬は健康的な赤みを帯びていて、眼の下に隈もない。だから、


「顔色が良くなったな」


 と、思ったことをありのまま口に出した。

 すると、氷色が渋いものを食べたような表情を作った。


「……人が金を持ってるタイミングを完璧に察知して飯に誘ってくる奴がいるんで」


 なるほど友達か――朗の胸の内に安心と喜びの感情が湧き出て、これもまた「友達か」と素直に問うと、益々顔が顰められた。氷色は嫌いなものは嫌いと口に出す人間だ。しかしそれをしないということは、朗の言うことは図星であるが、正直に言われると大変不本意である、といったところだろう。要は――面と向かって言われると気恥ずかしいのだ。そう解釈した朗は、そんな思春期真っ只中の少年に対して微笑ましいものを見る気持ちになった。


「え……? なんで睨んで……?」

「ああ、隊長のこれは笑っているのよ」

「人殺しそうな顔してますけど」


 小さな雑談。

想像していたよりも明るい再会に、朗は、学校はどうだとか、部活はやっているのかとか、生活は大丈夫かとか――一人暮らしを始めた息子の家に尋ねた母のような質問をいくつかして、十数分。とりあえずなんとか元気にやっているらしいこと確認して、呼吸一つ分、時間を置いた。

そろそろ本題に入らなければならない。漂った空気に氷色もそのことに気付いたのだろう。ほんの少し解れていた表情が、僅かに硬くなる。


「……君の兄弟には、会えたのか」


 窓の外で、生徒たちの笑う声が聞こえた。



***



 星氷色。

その名前は、彼の母ではなく曾祖母がつけたものだった。

母がネットで『子供 名前』と検索して一番最初に出てきた『はると』に決定しようとしたのを、選んだ理由があんまりだということで曾祖母が止めたのだ。結局彼の母は『はると』とも『氷色』とも呼ばなかったから、ただ出生届の提出という義務を行うときに、空欄を埋めたかっただけだったことは、幼い氷色にもなんとなくわかっていた。


 氷色の母は若かった。十五のときに氷色を産み、家を出て、都心の夜の店で働いていた。その経緯や、氷色を見る潰れた内臓を混ぜたような目、それからたまに世話をしにきた曾祖母の「恨まないであげてね」という申し訳なさそうな言葉で、聡い彼は物心付いたときには自分は望まれずに産まれたのだろうと理解した。

 その内曾祖母は他界し、本格的に氷色を気にかける人間はいなくなった。母は昼間は寝ているか男のところへ行き、夜は仕事に行き、朝は泥のように眠るの繰り返し。氷色がその頃持っていたものと言えば、自分の名前と、月曜日に渡される一週間分の食事代。おかげで氷色は金のやりくりが同世代よりも一足も二足も早く出来るようになった。なにしろ勘定を間違えて金が底を尽きても、母は一切追加分をくれなかったのだから。


 小学校に上がる前、氷色は母が自分を棄てたり殺さないことが不思議になって、訊いてみたことがある。


「かあさんは、オレが好き?」と。


他の人間との関わりが希薄だった氷色は、他者と感情を共有することをしたことがほとんどなかった。しかし、親は子を愛し、そして愛し方には人それぞれの形があることは本やテレビの知識で知っていた。しかし、母から温かさを感じたことはない。だというのに家を出されることもない。その矛盾が不思議だった。

 そのときの母の顔を、氷色はよく覚えている。


 初めて母が、笑いかけてきたのだ。美しく若い母。長い睫毛が震えて、潤いのあるふっくらとした唇が弧を描き、どこか艶のある声が「ふ」と小さく空気を揺らして――


「馬ッ鹿じゃねえの? 産まれちまったもん棄てたらクソ共がうるせえから育ててるだけだっつーの。十六んなったら出てけ」


 若い、母だった。

 化粧が派手で、口が汚くて、直ぐに癇癪を起す。丸っきり子供だ。けれど、たまに気紛れに、菓子をくれたりなんかするから――まんまと勘違いしてしまった。親という絶対的存在を、そう見てはいけないのだとわかっていたのにどこかで切望していた自分に、そのとき初めて気付いた。

 けれど氷色は、その日母がそうはっきりと答えてくれたおかげで、親からの愛情をすっぱり諦めることが出来た。最初から無かったものならば、途中で与えられなくなるほどに焦がれることはない。だから失望も絶望もしなかった。氷色はただ、そういった、どこにでもありふれる不幸を受容する人間に自分がたまたま産まれたのだと納得しただけだった。


 数年が経過し、中学の健康診断で自分に『痛み』を受容する感覚がなく、『スコール』であることが判明した。

 それと同時に肉体的な『痛み』の存在を、氷色は初めて知った。否、知識としては知っていたが、自分にはそれが無かったため、不快感や圧迫感といったものが強くなると『痛い』に至るのだと勘違いしていた。道理で小学生の時窓から突き落とされた際になんでもない顔で起き上がった自分を、落とした本人が見て泣き出すはずだ。どうやら、多量の出血を伴うときの『痛い』は相当らしかった。氷色は教師からそれを他人事のように聞き、最後に「はあ」と返事をした。

 『スコール』は、国から監視を受けたり行動に制限がかけられる代わりに、補助金を貰ったり日常生活の支援をしてもらえる。氷色のように、肉体の外的なものに干渉するのではなく、肉体そのもの――内的に干渉する能力は異常行動が認められるケースが多々あるらしく、役人は早く氷色を監視下に置きたがって多額の金額を提示してきた。彼にそれを抗う意思は無く、思ったことは、金が手に入ると分かった途端気色の悪い媚びた笑みを携えながら『母親』を演じるようになった母に心底呆れるぐらいだった。


 自らが『スコール』という特別な存在であろうがなかろうが、今生きている世界に興味はない。

だから、周囲に促される方向へ行こうと考えていた。眼の前に転がる選択が自由の道に繋がっていることは知っていた。けれど、それを自分で選択すると、その責任は自分について回る。それは面倒なことである。だからその選択権を他人に預けることで責任を回避し、氷色は出来る限り楽に生きようと思った。


 その考えが覆ったのは――高校一年の冬。

 この頃、警視庁に務める朗と由貴に出会い、『スコール』の子供が多く在籍する学校に通わないかという提案がされていた。提案というよりも――彼らを通じて政府が下した命令に近かった。目的は監視と観察。職員は全て『スコール』の研究員で、出される食事から入浴する時間まで把握される。申し訳なさそうな顔でそれを告げる二人もその学校出身の『スコール』なのだという。

 氷色はそれに頷いた。沈黙の後、朗が「そうか」と小さく返して、記入の必要がある書類を渡した。

いよいよ『足輪』が着けられるのか、と。どうでもいいなと思いながら、予防接種の履歴を書き込むために、母に黙って引き出しから母子健康手帳を取り出そうとして――それは、氷色の目に入ってきた。


『銀島』――。

 

氷色の名字は『星』である。しかし、そこには確かに『銀島氷色』という見慣れない名字を被せられた自分の名前が書かれていた。離婚、という文字が頭を過り、芋づる式に一目だって見たことのない父親という本来あるべき存在を思い出す。初めから居なかったから、考えることすらしなかった。――そうだ、自分の半分を構成した男はこの世に存在するはずなのだ。そいつはどうしているのか。どうして母と自分を棄てたのか。どうして自分を作ったのか。

 それは単純な探求欲に似ていて、恨みや憎しみは感情に含まれなかったように思う。ただ、自分の自由が保障されている内に、自分の出自を知りたい――周囲に言われるまま能動的に呼吸をしていた氷色は、確かにそう思ったのだ。


 それからの行動は早かった。夜、母が仕事でいない内に彼女の私物を漁り、氷色が産まれる前に書いていた日記や大事に取ってあった現像された写真から父親のことを探った。その結果、父親の名前が『銀島良護リョウゴ』ということがわかった。

 否――父親、と称すには少し違う。

 日記に挟まれた新聞記事。不自然なほど小さな枠に収められたタイトル名は、『夕立町中学生暴行事件』。母はその被害者で、父はその加害者だった。



「まあそりゃあ、義務教育終わったら破棄したくなりますよね」


 自分の出自を知った二日後、生活状況を見るために氷色の自宅を訪問した朗と由貴に、氷色はそう言った。

 しかし、母は偉いと思った。堕ろすのが間に合わなかったのか、キリスト教にでも入っていたのかわからないが、事の経緯を考えるに望まない出産だったのだろう。なのに彼女は一応最低限の生活を送らせてくれたし、学校にも通わせてくれた。十分過ぎる、と氷色は感じていた。


「それでいいのか」


 朗が訊いた。どういう意図かはかりかねて首を傾げると、「本当に満足しているのか」と続けられる。由貴は、その隣で唇を噛み締めていた。まんぞく、と舌の上で転がすと、内側でそれを拒絶する声がする。


「父親の、実子が……」


 ほとんどに意識せず口から出た。


「いるらしい、です。母が酔っぱらってるときに訊いたら、話して……俺と同い年で、事件があった街にそのまま住んでるって」


 つまり、腹違いの兄弟。

 同じ年に、同じ性別で、同じ男の精液で作られた子供。

 その存在を知ったとき、氷色は、それは自分の『もしも』だったのかもしれないと思った。小さな団地の一室の押し入れではなく、普通の子供部屋で親に愛されている自分がいたのかもしれない。その自分の『もしも』がどんな風に生きているのか気になった。氷色という存在を知っているのか。お前の父親は最低の人間で、その証拠はお前の目の前に立っているこの自分だと明かしたらどんな顔をするのだろう。そう考えたとき、氷色の中に小さく生じていたものは、きっと普通の生活をしているのだろう自分の『もしも』に対する憧憬と嫉妬に近かった。


 その思いを、ありのまま朗に伝えた。また、自分が兄弟だということを明かさずに近付きたいことも。しばし難しそうな顔で悩んだ朗は電話で上司らしき相手と何事か交渉し、出された条件は三つ。

 一つに、その兄弟がどんな人間でも傷付けることはしないこと。

 二つに、定期的に公安五課が視察に来ることに承諾すること。

 三つに、期間は高校二年生の夏までであること。

 氷色はそれを了承し、朗が手に入れた情報に従い自分の兄弟が通う高校に潜り込んだ。


 迎えた四月。

 担任だという中年教師に連れられ入った教室で、「銀島、前向けよ!」という声が耳に入った。

 それに吊られて窓際の席を向いたとき――目が合った。一本一本丁寧に染めたような赤毛に、健康そうな肌色に乗っかった好奇心旺盛そうな二つの眼。氷色が想像していなかった視線だ。いったいどういう感情でこちらを見たというのだろう――背を縦に刃先で一線撫でられたような感触が伝わる。


「星氷色、です」


 目が逸れないまま、氷色は掠れた声で、自己紹介を始めた。


 そうして一か月後、五月の上旬。一回目の視察の日がやってきた。



***



「どんな子だったか訊いても?」


 由貴が問う。これも視察する際の質問内容に含まれているのだ。


「…………予想の、……斜め上……?」渋い顔で氷色は答えた。

「ええと……」

「電波な感じで、掴みどころが無いっていうか、凄まじい自由人で。頭が良い分タチ悪いし……、ああ、さっき空気読まないで質問してた奴です」

「あの赤い髪の?」

「はい……。本当にすみません」


 氷色が自分のことのように頭を下げると、由貴は思わず目を丸くして驚いた。

 代わって謝罪することなど、よほど親しい人間でないとしないことだろう。一ヶ月前自分と腹違いの兄弟に会ってみたいと言った氷色の雰囲気は、決してポジティブなものではなかった。それはそうだ、氷色は感情を表にするような人間ではなかったが、自分の境遇の原因となった遺伝子上の父親やその家族を恨むことは尤もなことなのだから。しかしどうだろう、ハラハラしつつ迎えた今日、氷色からは憎悪や嫌悪ではなく、普通の友人に対するような気安さしか感じない。


「いや、あのときは空気を変えてくれて感謝している。質問も簡潔で答えやすかった」

「あいつ、特別なもんとか好きみたいで」

「なるほど。だから足を見せたときも……」

「悪い奴じゃな……、……すみません、悪い奴でした。ええと、悪気はない……いや、あるかも……?」

「難しい人となりのようだな」


 口数も、一ヶ月に会ったときよりも随分と多い。陰鬱だった雰囲気もちょっと内気、というレベルまで落ち着いている。思わぬ嬉しい展開に、由貴は少し頬に喜色を浮かべ、


「もしかして仲良し?」

「違います」

「そ、そうなの……?」


 違うらしい。年頃の少年の心理は、由貴には少しわからなかった。


「……思っていたよりは、気が、合いました。オレのことはまだ明かしてないんで、そこら辺知ったらわかりませんけど」

「ふむ……」 


 もごもごと聞き取り辛い話し方で喋る氷色を見て、朗がなにか考えるように顎に手を置いた。


「……君と彼は、親しい仲になれたのか?」


 そう問うと、氷色はまた口をむぐむぐとさせ、やっぱり大変不本意である、と主張するように眉を寄せ、しかし確かに首肯した。


「そうか。よく、食事にいくのか」

「まあ、買い食いとかは」

「一緒に勉強したりもするか」

「頭良いんで重宝してます」

「そうか……」

「……やっぱり睨んでません?」


 随分と健全な生活を送る様になったらしい氷色を見る朗の顔は変わらず凶悪と言っていい人相だが、由貴はそれが深い笑みを浮かべているつもりなのだと理解している。「笑っているのよ」と先程と同じ言葉でフォローして、由貴もまた安心感から頬が緩んだ。


「私も、貴方が元気そうで――……、元気に、なって。嬉しいわ」


 ふい、と。少年の顔は、赤らみながら居心地悪そうに斜め下を向いた。



 三十分後、視察及び面談は終了となった。


 この後教師からも氷色の学校での様子を聞くため、朗と由貴はこのまま応接室に残る。その旨を氷色に伝え、ついでに気を付けて帰るように言うと、氷色は生返事を返して腰を浮かした。


「――氷色君」


 部屋を出る直前、朗に名を呼ばれ、氷色は長い前髪を揺らして振り返った。


「君は、彼に自分が兄弟であると告げようと思うか?」


 氷色には、どういった意味の質問なのかはわからなかった。ただ、厄介な願いを聞いて、忙しい立場だろうに自分のサポートをしてくれている彼らの問いにはなるべく答えたくて、彼はしばらく迷うと口を開いた。


「はい。……自分が、後ろめたいのも、あるんで。隠し事はあまりしたくないです」


 「勘付くとしつこく訊いてきますし」と続けると、朗はやはり睨むような目付きになった。



***



 それではまた一ヶ月後に、と氷色は応接室を出た。


「……はあ」


 扉を背に嘆息し、少し緊張して強張っていた首をくるりと回す。

 朗と由貴は、氷色の数少ない馴染みの人物であり、同じ『スコール』であることもあり信頼している。しかし、氷色がこの学校にいられるかどうかは彼らの評価次第で左右されるのだ。そう考えると心拍が上がってしまっても仕方のないことだろう。


――ほんっと、あの毒電波が食堂でやらかしたとき焦ったよなぁ……。

――転校初日から流血沙汰は確実に不味い。


 一ヶ月前の苦い思い出を噛み締めつつ、応接室を後にする。

 生徒たちのいなくなった廊下は、ときおり床や天井が軋む音が微かに耳に届くだけで、初めから人が踏み込んだことが無いように静まり返っていた。徐々に昼と夜の中立点である黄昏が近付いてきてのだろう、窓から見える空には暖色が混じってきている。


「……」


 当初、銀島と顔を合わせた氷色は、名乗られたその名前にまず違和感を持った。

 『世良銀島』。名字を二つ並べたような奇妙な名前だ。例えば、どこかの文豪から名前を取ったとか、そういう理由があるのならわかる。しかし氷色は、その名前が元の名字であっただろうことを知っていた。子供に名前をつけるのは親だ。一体どういうつもりで付けたのか。氷色にとっては嫌悪感のあるその名前で呼ぶのが嫌で『毒電波』と呼称し続けると、銀島はどこか憑りつかれたような顔で、銀島と呼べと言う。

 やがて話している内に、多くの共通点があることに気付く。銀島は、家は金持ちで父親も母親も揃っていて兄までいるというのにそこに帰ることを嫌がった。異様なまでの肯定性と、自由への執着。――美しく整頓された屋上への憎悪にも見える視線。


「……兄弟か」


 実際会ったところで、現実味はあまりなかった。しかし、同じ血が流れていると考えるとどうしても特別に思ってしまうのもまた事実だった。


――しかしなんというか。

――あのタッパで『弟』はなあ。


 未成熟な母体故の早産と長年の栄養失調気味な生活の影響で小柄な氷色に対し、銀島は運動系の部活に入っていそうなしっかりとした体躯をしているし、なにより身長が平均値をそこそこ超えている。どっちが兄かと問われれば大部分の人間が銀島の方に視線を寄越すだろう。

 妙な悔しさを感じ、筋トレでもするか、と考えながら階段の踊り場に差しかかったところで、一階から誰かが上がってくる気配がした。それも、なにやら急いでいる様子で。不思議に思いながらそちらに注意を向けていると、手摺の下から派手な赤毛が姿を現した。

 噂をすればなんとやら、だ。


「どく――――」


 声をかけようとすると、しかしそれはこちらに気付いた銀島が唇に人差し指を当てブオンブオンと首を横に振ったことで阻まれた。眉を顰めて説明を求めると、さらに下の方から「ぎーん島ァアアー!!!」という声が響いてきた。


――なにしてるんだ……。


 黙れと言われたから声には出さずに呟く。氷色のいる踊り場まで上がり切った銀島が上に行くか二階に隠れるか一瞬迷うように足を止めたので、氷色は溜め息を吐いて教室の方へ銀島の背中を押し出した。それから、その場に留まり上の階へ続く階段の上に向かって視線を上げる。

 だんだんだん、とけたたましい音を立てながら、下から男子生徒が姿を現した。確か、クラスメイトの一人だ。


「あっ星! 銀島どこ行った!? 見た!?」

「上。凄い勢いで上がってったけど」

「さんきゅ! おいこら銀島ァ!!」


 ズダダダダーッと、男子生徒が氷色には真似できそうにない三段飛ばしという荒業で上の階へ駆けていく。

 数秒して――教室の中に隠れていた銀島が顔を出した。


「敵影消失?」

「なにやってるんだ、今度は」

「いやさぁ、合コンのセッティングしたんだけど、その内の女子が今のと付き合ってたらしくて。進路票出しに行ったら鉢合わせてよー……」


 後頭部を掻きながら「恨むんなら彼氏いるくせに合コン来ようとするてめえの彼女恨めって話だよな」と同意を求める銀島に、氷色は呆れつつ「戻ってくる前に出た方が良いんじゃないのか」と階段を下り始めた。その後ろを、銀島が付いて行く。


「だいたい合コンのセッティングってなんだ」

「一人身の男女の恋のキューピットになるんだよ。俺いろんな知り合いいるし、高校生と大学生にウケるんだわこれが。費用は一人千円、ただーし女子なら八百円」

「金取るのか」

「愛も恋も金で買えるんだぜ」


 ふざけた調子で指でハートマークを作る銀島。こういう仕草もウインクもたまに出るわざとらしいキザなセリフも、彼がやると不思議と不快感が出ないのだから、人間顔なんだな、と氷色は思ってしまう。


「あんた、変なバイトばかりしてるな。この前はレンタルフレンド……だっけ」

「あーやったなぁ、インスタにあげたいから写真撮ってくれって。そこまで時給良くなかったけど。あ、ヌードモデルはンめっちゃ稼げるぜ」

「どのくらい?」

「俺を雇ってる人は時給五千円くれる」

「いっ……!?」

「男のモデル貴重らしいからなー」


 あまりにも魅力的な金額に、ホームセンターのレジバイトで時給九百八十円だった自分はいったい、と氷色がショックを受けてると、銀島が「やる? 紹介しようか?」と訊いてくる。


「……!」

「ただ筋トレで体型維持しねえと予告なしにクビんなるけど。あと髪の毛伸ばせとかヒール履けとか頭から泥かぶれとか注文が煩い」

「なんだそれ」

「さあ、モデルのバイト全部がそういうんじゃねえと思うけど、ちょっと変なおっさんだから」


 話を聞く限り氷色には出来そうになく、溜め息を吐いて諦めることにした。

 話している内、昇降口まで到着する。微かに砂利の転がるタイル上に、橙混じりの陽の光が写っている。


「そんなに稼いでどうするんだ?」


 靴箱からローファーを取り出しながら、なにげなく氷色はそう口にした。

 銀島は、服をはじめとする私物にこだわりを感じるし買い食いも好きなようだが、氷色にはそこまで浪費家には見えなかった。欲しいものがあるという話も新しいスニーカーくらいしか出てない。にも拘らずバイトはやたらと多いし多少危険でも高額なものを選んでいるようだった。だからごく自然に、どこか旅行にでも行く気なのか、というニュアンスで訊いた。

 しかし――数秒経っても答えは返って来ず。

 聞こえなかったのだろうかと、顔を上げた先に。――笑顔があった。

 本当に愛しいものを見る笑みを皮膚に縫い付けてみました、という完璧な笑みだ。きっと誰かが見たら「なんだよ、彼女にプレゼントか?」とでも勘違いしてしまいそうなものだった。しかしだからこそ、あまりにもありふれていて、人工的な不自然さを感じさせる表情だ。

だが瞬刻もすると、その違和感は掻き消えた。確かに首筋を舐めたゾッとする感覚が失せたことで氷色は戸惑ったが、目の前のニヤけ顔を見て勘違いと判断した。



「もうすぐ、母の日だからな!」

「……は」


 ははのひ。五月の十三日、日頃の母の苦労を労り母へ感謝する日。氷色の思考に辞書に載っているような説明が並べられた。そして直後、しばらく停止した。ショックに近い。ネガティブな意味ではなく、単純に衝撃だった感じに近い。

『銀島』という名。

家に帰らない生活。

やや法に抵触しそうなバイト。

そしてそれを、全て放任されている環境。

てっきり、自分と同じように親と確執があるのかと思っていた氷色は、ぽかんと口を開けたまま固まった。ローファーの踵部分に指を引っ掻けた体勢だったため、片方が床に落ちる。


「なんでいその意外だって顔は」銀島が落ちたローファーをタイルに避けながら不服そうな声を出す。

「いや、……うん、意外で。……なんとなくその、親と不仲だと思ってたから」

「まああんま仲良くはねえけど」


 銀島がスニーカーに足を差し込み、両足とも履けたら爪先をタイルにトントン、とさせた。


「オカエシみてーなもんよ。育ててくれてありがとうよってな」


 氷色の方を振り返る銀島。その目に、嘘のようなものは感じなかった。


「……そうか」

「おうよ」


 片方だけやたら綺麗に置かれたローファーの横に、片手に残っていた左足のローファーを並べ、足を差し込む。銀島と同じように爪先でトントンとタイルを叩くと、橙色が革靴にチカチカと反射した。


 憎しみとか、悲しみとか、苦しみとか、呆れとか、そういったあったかもしれない感情の末に瘡蓋のような煩わしさを伴って生まれた、親との間に横たわる軋轢。


――親と、不仲でないなら。

――それは幸いだ。


 自分の『もしも』の母親が、少し放任気味でも母の日にプレゼントを贈ろうと思えるような人なら、それはいいことだ――。氷色はそう思いながら、銀島の背を追った。




 数日後、迎えた母の日――その翌日。

 世良銀島は、忽然と姿を消した。




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