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7/12

兄弟

 銀島が体育の授業で挙手する数刻前。


 隣のクラスに体操着を借りに行ったら八木一味に捕まり夕立町ビル街まで連れていかれた――それが現在の氷色の状況だった。


――面倒くさいな。


 体育の杉田は三回以上遅れると当たりが厳しくなると銀島が言っていた。いっそ堂々と欠席を宣言した方がまだマシだと。しかし八木に財布も端末も入った鞄を取られてしまえば、それを放って授業に出るわけにはいかない。八木の他に三人の仲間に囲まれながら、氷色は学校を出て五度目になる溜め息を溢した。


「つーかさぁ、外まで行く必要ある? 俺杉田の授業今日で四回目なんだけど」

「学校は銀島の縄張りみたいなもんだし、なんかしてもあいつが飛んでくるんだもん」


 氷色は、八木らの会話を聞きながらどうにか鞄を取って逃げ出せないかと思案する。が、運よく奪えたとしても悲しいかな自分の体力では直ぐに追い付かれるだろうと直ぐに判断出来て

しまった。平日の昼間、駅前ならまだしもこの辺りでは紛れ込むことが出来るほどの人混みも存在しない。空でも飛べればなぁ、などと昨日の友人の馬鹿な言葉を思い出して、ふ、と笑いが零れる。


「……」


 小学校で窓から突き落とされた時も、

 中学校で熱湯を背中にかけられたときも、

 前の高校で耳に無理矢理ピアス穴を開けられたときも。

 全て痛みは感じなかったし、どうでもいい日常の一コマだった。そこになにか感じるものがあったとすれば、制服の洗濯が面倒だということと、また教師から根掘り葉掘りその傷はどうしただのと訊かれる煩わしさくらいだった。

 銀島に、自分のその無抵抗さが恐ろしく感じるのだと指摘されて、氷色は初めて自分のことを自覚した。あの友人は間違いなく酷い人間なのだろうが、氷色にとっては、自分で気付かない自分の印象と感情を教えてくれた――恩人だ。だから、琴乃に謝ることも出来た。


――どうすればいいのだろう。


 ビルとビルの間。薄暗い影が氷色を飲み込んでいく。荒いアスファルトの上、横に長いゴミ捨て場があり、ビール瓶入りのビールケース、転がる空き缶、挟まれた壁には室外機が煩く回転し、そこからパイプが伸びている――。弱者の首を絞める人間はこういういかにもな場所ばかりを選ぶ。

 ここで今までみたいに、ただ時間が過ぎるのを目を閉じて待っているのは、きっと銀島の教えに反する。自分が相手に向けた痛みと、相手から自分に向けられている怒りを理解して、対処しなければ。自分にはもう、そうすることのきっかけは与えられているのだから。


「……」


 氷色はすうと息を飲むと、顔を上げた。目にかかる髪を振り払い、前を歩く背中をはっきりと視界に入れる。


「――あんたが」


 木の枝が水面を打ったような声色に、八木もその仲間も一斉に氷色の方を向いた。


「あんたが怒っている理由を教えて欲しい」

「……は?」

「しばらく考えたけどわからなかった。あんたはオレとほとんど接触しない内から石を投げてきた。『謝る』にも、オレが理由をわかっていなければ意味がないんだろ」


 前髪を横に避けたため、氷色の双眸が無防備に感じるほどにはっきりと晒されていた。日本人には見ない濃い紫色をした切れ長の瞳に、八木の仲間たちが気圧されたように一歩引いた。

 八木はというと、背を向けたまま、首だけ振り返っていた。氷色が最初に会ったときと比べるとやややつれた印象はあるものの、平均的な身長、平均的な体格、平凡な顔をしていた。しかし、その背から立ち上る、幼い子供の純粋さと残虐性が混ざった空気だけが際立って異様だった。


「……去年の秋、夏休み明けの直ぐ後。三木小学校三年二組の教室を丁度二つに割って『前部分だけ』を破壊した『スコール』がいた」


 不意に八木が語り出した話は、氷色も知っているものだった。

 去年、夕立町内にある三木小学校で、能力の制御に失敗した『スコール』が同級生を教室の前半分ごと吹き飛ばしたという事件だ。その『スコール』はその後専門の機関に保護されたが、被害に遭った同級生は重傷者二名・軽症者八名となり、最近起こった『スコール』が関わる事件ではで最も大きなものだった。


「その『スコール』は俺の妹の顔を変えるくらいの力を持ってたのをわかってたくせに、それを隠して、滅茶苦茶やってさあ……。……いや、別に、こんなん後付けっていうか。都合よく言い訳が出来たって部分もあるんだけど」


 くるり、八木が軽やかな動きで振り返った。

 その瞳には、酷く冷めてはいたが、氷色が知っている明確な意志が浮かんでいた。氷色を窓から突き落とした同級生が頬に浮かべていた、煮詰まった泥のような雰囲気。


「むかつくんだよね、『スコール』。お前も面倒かける前に潰せればいいな、って。――だから謝んなくていいよ」


 これは――無自覚の殺意だ。

 八木の手がポケットに伸びた。嫌な予感がして氷色は足を引くも、背後には八木の仲間がいて退路を塞いでいる。一か八か無理矢理こじ開けるかと、眼前を睨み付けながら腰を低く落とした――


 その瞬間。


 八木の体が、氷色目掛けて吹き飛んできた。


「な――ッ!?」


 反射的に後方に飛び退くと、仲間の一人にはギリギリぶつからなかったが、地面に手を着こうとした八木の爪が氷色の片目を引っ掻いた。そして八木は前方にたたらを踏む暇も無く、水面に叩き付けられた蛙のように無様な格好で倒れ込む。

 痛みは感じないがダメージを受けて濁った氷色の視界の先で、誰かが八木を踏ん付ける形で立っている。

 その男は、悪魔のような赤毛をして、人を踏み台にすることになんの苦も感じていない暴君のような顔で、歯を見せて笑った。


「――毒電波」

「銀島だ!」


 もはや癖のようになってしまったやり取りの後、銀島がその歳の少年らしい逞しく広い手の平を差し出し、氷色は迷わずそれを取った。鞄は何時の間にか銀島が肩にかけている。突破口は銀島が足の裏で作った。あとは逃げるだけだ。起き上がろうと叫ぶように唸る八木の上から飛び跳ねるようにして降りた銀島に続くように、氷色は地面を蹴った。建物同士の狭い隙間、暗がりの奥へと自ら駆けていく。背後で静止を命令する声が響くも、絶対に足は止めなかった。


「なにあれ、八木ルンルンすげえオコじゃん!」


 銀島が振り返りながら茶化す様に言った。彼の蹴とばした空き缶が低く宙を舞い、何世紀前からあったのかという色をした中身が散る。


「元から、すっ『スコール』に、恨みがあ、るみたいだ!」

「ふうん。つーか息切れ早すぎだろ」

「仕方ないだろっ」


 怪我の危険からはなるべく遠ざかるように生きてきたから運動なんてもっての他だったんだという説明までしたかったが、十七歳男子にあるまじき貧しい体力はそれを許さなかった。乾いた喉に無理矢理唾を通して、代わりに「どこまで行くんだ!?」と行き先を問う。


「んー、こっち!」


 銀島が曲がり角を右方向に曲がると、すぐ近くに外階段付きの建物があった。フェンスと鎖で気持ち程度に封鎖されているが、南京錠などは取り付けられていない。銀島は慣れた手つきでそれを取り払うと、ガンガンとけたたましい音を立てて身軽に駆け上がっていく。


「中に入った方がいいんじゃないか! ばれるぞ!」銀島の背中を追いながら氷色が叫ぶ。

「いい! むしろ追って来てくんねーと!」銀島が真っ直ぐ上を目指しながら吠える。


 氷色には銀島のその答えの真意がわからなかった。このまま上っていけば屋上に出てしまう。そうしたら逃げ場なんてなくなってしまうし、そこから中に入って下に降りてもまた鬼ごっこが始まるだけだ。一瞬、下の鎖を内側からかけ直そうかと振り返ったが、既に曲がり角から八木たちが追って来ているのが見えて、諦めて銀島を追った。錆びれた階段、所々穴が開いている。けれど銀島はそんなこと知らないような勢いで駆け上がっていくし、氷色もまた恐怖といった感情は特にない。一歩間違えれば崩れるかも知れない足場に足底を叩き付けるようにして、空を目指していく。

 八階分の階段を上り切り、屋上に出た。


「っは、はぁ……」

 もう足がこれ以上は無理だと訴えている。震えるそれを叱咤して鼻に浮かび上がった汗を乱雑に拭うと、周囲を見回した。


「……!」


 長いこと誰も足を踏み入れていないのだろう、学校の屋上とは正反対の汚い場所だった。フェンスは一切無く、ある物と言えば下に繋がる階段と灰色の貯水タンク。足元は雨風のせいで寝っ転がるどころか尻も付きたくないくらいに汚れている。

荒涼としていて薄汚い、人が来ることを前提にしていないような、そんな印象だった。

 けれど。


――ああ、ここだ(、、、)。


 屋上のパラペットの向こう、青く澄み渡った空が、視界いっぱいに広がっている。

 昼前のこの時間、太陽がもっと高く高くと昇り始めて、薄い雲がそれを避けるようにのんびり漂っている。少し視線を下げれば、低いビル群が凸凹と連なって、その間を豆粒のような群衆が転げ回っていた。これを自分だけが見下ろす感覚――氷色はそれの名前を知っていた。あのお綺麗に整えられた学校の屋上じゃ感じられない、子供の頃にだけ許された冒険。氷色は、八木らに追われていることも忘れて、静かにそれを思い出した。


――『自由』だ。


 誰もが追い求め、いずれ無くすもの。諦めたのではない。忘れてしまうのだ。恥や外聞を気にするようになって、善悪の区別と規則を守ることが大事になって、自分に出来ることと出来ないことを線引きするようになって、もしもの向こうに行くことしなくなる大人の世界には、この屋上は存在しない。

 銀島は学校の屋上が嫌いだと言った。大人の手によって綺麗に整頓されて居心地よく作られた世界に案内役だとしても足を踏み入れたくなかったのだ。このときになって、ようやく氷色は、銀島がまだ幼い子供の域を出ない人間なのだと理解した。――そして、自分もそれと同じなのだと。


「ヒイロー!」


 名前を呼ばれて、はっとしてそちらを向いた。

 そうだ――今の状況を思い出して前方を行っていたはずの背中を探すと、何故か屋上の淵ギリギリのところで内側に体を向けていた。ただ立っている格好ではない。両手の指を地面に付、足は片方前に出して膝を立て、もう片方は後方で膝を付いていた。

 『クラウチングスタート』。短距離走などで使われるその姿勢を見て、なにをしようとしているのかわからないほど、氷色は鈍くなかった。


「な……!」


 止めようとするも咄嗟に言葉が出てこない。そうしていると、銀島がぐっと腰を高く上げてスタートの合図をする。


「待ッ――、」


 届く距離ではないとわかっていて伸ばした指の先で、銀島が真っ直ぐ前を見詰めたまま「俺に、」と鋭い笑みを浮かべた。背後で人が上がってくる気配がして、そちらに気を取られた瞬間に、銀島は体を支えていた十本の指を浮かした。


「――ついてこい!!」


 銀島は弾かれたように奔り出し、屋上を横断し始めた。

 それは、ヒトというよりも獣に似た疾走だった。腕の漕ぎ方も足の振り方も出鱈目に加え乱雑で、飛び出た弾丸と表すには歪で、放たれた矢と表すには――迷いが無さ過ぎた。


「おいっ」


 銀島の勢いに引き摺られるみたく氷色の足が前に出た。その拍子にひらめいたカーディガンの裾を思い切り掴まれて、ぐんと体が後ろに引っ張られる。


「待てよ!!」


八木が血走った眼で牙を見せた。


――あいつに言え!


 思わず心の中で叫びながら、他の仲間の腕が掴みかかるすんでの所で力任せに振り切った。氷色はもう――銀島に付いて行くしかない。前を向き直し、出来るだけ銀島が走った軌道をなぞるように大回りをしてその背中を再び追う。

 銀島は既に屋上の中央地点を走り抜けたが、そのスピードは緩むどころか益々加速していく。同じように、氷色も崩れ落ちそうな下肢を無理矢理動かし、眼前の姿を追い背後の者を引き離していく。――銀島がやろうとしていることは予想が付いていた。というよりも、この状況でわからないというものはその事実に恐怖して受け入れたくないだけだろう。氷色には恐怖が無かった。だから、今思うことは一つ。「俺についてこい」と叫んだ銀島に最後まで着いていける体力があるかどうか――それだけ。


 そして、銀島は。


 氷色と八木たちの目の前で、勢いそのままに――飛び降りた。


 否、飛んだ。


 パラペットを蹴り出したコンバースの赤いローカットスニーカーと、蘇芳色の頭髪。

 一筆で塗りたくったような青をした空にその反対色が目立って宙に舞い、長く感じる滞空の後、重力に従い落下して陸屋根の向こうに埋もれていった。背後で八木らが何か叫んでいる。耳にぶち当たる風で詳細は解らない。

 八階建てビルの屋上。その高さから落ちたら下に車か花壇でも無ければ間違いなく死は免れないだろう。氷色は身体能力が高いわけではないし、パルクールを習得しているわけでもなければ、猫でもない。けれどそれは銀島も同じで、その銀島は着いてこいと言った。あの男が考えも無く飛び出すとは思えない――奥歯を噛み締め肘を思い切り後ろに突き出す。下を確認する暇など無かった。氷色は、銀島の後をぴったり追うように、どこにでも売っている黒いローファーでパラペットから飛び出した。



***



 その月の初め、二年後に公開を予定している『怪盗綾小路夫人』という映画の撮影が夕立町の某所で行われていた。


 と言っても、四月の十日までに終えるはずだったシーンの撮影が、演出家の夜間に撮って欲しいという要望と女優の精神状態が理由で中々進まず、日数は押すに押して現在まで伸びていた。仕方ないから主演女優の精神状態が整うまで別のシーンを撮影することになり、現在その某所で使う予定だったセットはそのまま置いてあり、昼の間は雨や汚れを避けるために青いビニール袋を被せていた。

 その場所の名前は葛城カツラギビルの屋上。

 女優の精神状態とは、高所恐怖症。

 撮影出来ず仕舞のシーンは、夜景をバックに高所からの落下。

 セットの内容は――主に、女優の体をキャッチするために大袈裟なサイズで設置された屋外用エバーマット。

 葛城ビルの横にはさらに二階分ほど背の高い八階建ての八津股ビルが建っており、今、そこの屋上から、赤毛の少年がエバーマット目掛けて飛び出した。




「――!!」


 内臓が全て上半身にずれたと錯覚するような浮遊感。服に風が引っかかって、思ったよりも体が重く、言うことを聞いてくれない。

 目下、隣接するビルの屋上に何故か置いてあったマットの上に、一足先に銀島がとんでもなくスタイリッシュに着地した後前転してY時のポーズを決めたのを見て、氷色はエバーマットの存在やそれを知っていた銀島のことについて驚く前に、空中で「どけよ!!」と本気で怒鳴った。バルバルバルと先程とは比にならないレベルで風が煩く自分の声すら掻き消されたが銀島には届いたらしく、氷色の靴の裏が赤髪の後頭部を蹴り飛ばす直前でバッと退いた。

 瞬刻の後、氷色の体も足からドッという衝撃と共にマットのやや端の方に沈んだ。足首が変な方向を向いたまま着地をしてしまい、ごろんと勢いよく一回転。通常通り痛みはないが捻っただろうなと脳の片隅で考えながら、すぐにマットから下りて八木たちの様子を見るために振り返った。


「は、」


 息を吐き出しながら見上げた、さっきまで立っていた隣のビルの屋上。そこから四人の少年が呆気に取られたような顔でこちらを見下ろしている。こちらに飛び降りる様子はない。それもそのはずで、よくよく見てみれば葛城ビルと八津股ビルの間は目測で五から六メートルほどのとかなり間隙があり、いくら高い位置から低い位置への移動でそれなりのスピードがあれば理論上可能なことでも、正気であれば飛んで乗り移ろうとは思わない。ましてや、それを他者に着いてこいと指示するなんてもっての外だ。


――こいつ、

――本当に毒電波だな!


 のこのこと一緒に飛んだ自分も自分だが、それにしたってなんの躊躇も無く飛ぶ奴があるだろうか。痛みを感じないわけでも恐れが生まれないわけでもないだろうにそれが出来るのは、一体どういうことだ――どんな顔しているのか気になって睨み付けるように銀島の方に視線を転じさせると、風でぼさぼさになった赤毛を携えた彼は、端末を片手にパシャシャシャシャシャァと派手な連写音を立てて八木たちの写真を撮っていた。


「なにを……」

「不法侵入の証拠」

「いや、不法侵入ならオレたちも……」

「俺達には這入った証拠がありませぇん。よっしゃ綺麗に撮れた、インスタに上げられるレベルだわ。ずらかるぞ!」


 パーカーのポケットに端末を仕舞い、銀島は氷色の背中を叩いて立ち上がらせた。慌てて後を追うと、今度は外階段ではなく普通に中に入り下に降りていく。

六階に続く階段の終わりには立ち入り禁止のロープが張られていて、階段の影から様子を見ると六階はカラオケ店のようだった。平日の昼間ということもあり眠そうに座っている店員が斜め正面にいて、階段の真横にエレベーターはある。あの店員ならこのまま下に降りれるだろうと氷色がロープを乗り越え下に続く階段に向かおうとすると、カーディガンを掴まれ止められた。


「なんだよ」

「入ろう」

「は?」

「このまま出たら多分鉢合わせる。まっさかカラオケで皆でシャンシャンしてるとは思わねぇだろうし、夕方まで時間潰そう」

「いや、でも……」

「つーか、その足だと多分走れないだろ」


 指差され、右の足首を見る。


――そういえば若干熱いような……?


 ぺろ、と裾を捲ってみると、目に見えて発赤と腫脹の症状が出ていた。変わらず疼痛は感じないがやや違和感がある。医者でなくとも誰がどう見ても炎症していると診断を下すだろう。痛みを感じなくても、機能が駄目になれば体は動かない。当然のことだ。


「じゃあ決まりな!」


 銀島がロープを飛び越えカウンターに歩み寄っていって、氷色はそれに続いた。大欠伸をする若い店員に、銀島は万が一八木たちがここまで来た場合の口止め料として一万円をメンバーズカードの裏に隠して渡した。妙に手慣れた交渉に呆れつつも、指定された部屋に入った。


 銀島が持っていたバンダナと氷色の赤く腫れた足首の間にドリンクバーの氷を捻じ込むことで炎症を冷やし、それからしばらく時間が経つと、飽きてきた銀島がピザを注文し「腹いっぱいになったら眠いわ。おやすみ」と長椅子に体を横たえ、「欲望に素直過ぎるぞ……」という氷色の言葉を無視して目を閉じた。


 曲が入力されなくなったテレビ画面が新曲の宣伝を垂れ流し、聞いても無いのにミュージシャンが曲を作った経緯を説明している。隣の部屋からはポルノグラフティのアゲハ蝶を大音量で歌うおじさんのしゃがれた声が壁を越えて響き、ニートか休日か退職後かを脳内で思案したが下らな過ぎて二秒で考えるのを止めた。


――静かだな。


 氷色は、騒がしいカラオケ店内にも関わらずふとそう思った。銀島は声が特別大きいわけではないがよく喋るため、ここ最近はいつも煩いと感じていたが、それが無くなると落差でうんと静かになる。それがなんとなく落ち着かなくて、氷色は「なあ」とまだ寝ていないかどうか確かめる意味も込めて声をかけた。


「んー……?」


 ぼんやりとした返事が返ってくる。構わず続けた。


「どうして、オレがあそこに連れてかれたってわかったんだ」

「そりゃ……おれも高校入って、さいしょに連れてかれたの……あそこだし」


 本当に眠いらしい。内容はしっかりしているが会話速度がスローだ。


「最初?」

「ぱいせんが、髪ん色が生意気ってよ……」

「……それ、地毛か?」

「じゃなきゃぁ……こんな趣味悪ィ色にするもんかよ、……」


「――父親譲りか?」


 氷色は、囁くように訊いた。

 そして骨太そうな首が頷く動きをして、肯定した。


「……そっか」

「そんあと、模試と喧嘩で負かした、から……くく、俺の勝ち」


 銀島がそう言って初めてチョコレートを食べた子供のような顔で笑った。そのまましばらく話しかけずにいると、規則正しい寝息が室内に降ってくるようになる。

 隣の部屋からは、次第に何も聞こえなくなった。



 一時間後、銀島は突然パッチリと目蓋を上げて起き上がった。


「……、なんかエロイ夢見たわ」

「三大欲求コンプしたな。おめでとう」氷色が端末を弄りながら彼なりの『おはよう』を口にする。


 時刻は十一時過ぎ。ふわわと大きな欠伸をしながら、銀島は携帯端末のチャットアプリを起動して誰かにメッセージを送る。


「なにやってるんだ?」氷色が暇そうな顔で銀島の手元を覗き込んだ。

「委員長にさっきの写真送ってる」

「……? なんで?」

「委員長、クラス内の問題はすげえ敏感だから、多分お前がボカスカやられてる現場は撮ってあると思うんだよ。けどこの学校、内部の問題だけだとでっかくしたがらねえから、そこに外部の問題も合わせて報告すればさすがにどうにか処理するだろ」

「処理?」

「よくて停学だけど、……八木って確か成績はあんま良くなかったから、まあ、退学もあんじゃねえかな」


 たいがく、と氷色は口の中で転がした。

 高校二年の春。この時期に虐めと不法侵入で退学処分を食らったとなれば受け入れてくれる学校は少ないだろう。――妹の顔面に傷をつけた人間と同種の氷色を恨んだ八木の気持ちを、わからないこともない。少し、同情した。


「カワイソウ?」銀島が訊いた。

「え?」

「お前案外人が良いよなぁ。言っとくけどさ、どんな動機があろうが、ブッ叩いたらブッ叩いた分だけしっぺ返しがくんのは当然だぜ。あいつは叩き返す相手を間違えた。妹の仇討ちしたいなら、その『スコール』のツラに包丁突き立てりゃ良かったんだ」


 なんでもない顔で言う銀島。妹の話は、おそらく八木を踏み付ける直前の話を聞いていたか、それ以前に既に知っていたのだろうと氷色は検討をつけた。


「……」

「委員長はおねだり上手だし、品行方正で通ってて成績も良いから学校としちゃ手放したくない生徒だ。ある程度言うこときいてくれんだろ」


 ぐうっと伸びをする銀島。それを横目で見ながら、氷色は静かに口を開いた。


「あんたの、その理屈だと」

「うん?」

「自分のやったことには代償がつくってことだろ」

「ああ……そうだな」

「だとしたら、あんたがやってきたことはどうなるんだ? 傷害に不法侵入に……他にも色々やってそうだけど。そのしっぺ返しは?」

「うん、来ると思うよ」


 否定することなくにっこり笑って答えたその端整な顔は、どこか、期待しているようだった。


「でも俺、我慢出来ないから。だから面白そうだなって思った方に走った分は、ちゃぁんと責任を取るよ」


 そう言ってもう一度、銀島は欠伸をした。


――こいつは、世の道理を理解してる。

――人の気持ちを察することも出来ている。

――けれど、だからと言って止まることをしない――……『我慢できない』から。


 氷色は、今日まで色々な意味で自分を助けてくれた友人の灰色がかった目を見た。最初に話しかけてきた友人。屋上を嫌いだと言った友人。きせられそうになった罪から庇ってくれた友人。自分に、『痛み』を教え、謝る手伝いをしてくれた友人。そのすべてが事実で、動機はなんであれそれは氷色にとって利になることだった。だから銀島が氷色にとって恩人だということは変わらないし、見る目を変えるつもりはない。

 けれど、自分と違い人道的な正誤を完全に理解した上で自分の欲のまま行動するその友人を――単純に、吐き気がするような人間だな、と感じた。


「……毒電波」

「銀島だって」


 訂正を求める言葉にはなにも返さず、喉の奥で「オレもそうなってたのかな」と呟く。


「え? なんだよ、『呼んでみただけっ❤』みたいな?」

「キモ。ただの確認だ確認」


 体をうねらせて軽口を叩く銀島に氷色がそう答えると、女性受けしそうな顔は訝し気に軽く眉を寄せるのだった。



***



 数日後。

 琴乃が上手いこと教師と交渉し、八木らは相応の処分をされた。「ネットに学校の名前付きで写真のデータを流すか警察と相談しますって言ったら快く対応してくれた」というのは後の彼女の言葉だ。

 氷色は徐々にクラスメイトと打ち解け、その内美化委員に入り、これまでの生活とは打って変わってぎこちないが充実した学校生活を送るようになった。


 これにて一件落着。

 世界で三十万人いる『スコール』の内の一人の少年の物語は幕を――


 ――閉じなかった。


 『スコール』は、役割は無く、正解は無く、理由は無く、意味は無く、敵もおらず、ただ『与えられた』人間たちである。

 しかし氷色には目的があった。

それが達成されない限り、物語が終わることは無い。



***



 二日後。

 夜、ネットカフェで時間を潰していた銀島の携帯端末に、一件のメッセージが届いた。氷色からだった。

 そこには、『あんた、誕生日いつ?』という簡潔な本文。

 プレゼントでもくれるのかと思い、銀島は特に深くは考えず『七月十三日』と返した。



 銀島からの返信を受けた氷色は、安いアパートの畳の上に座布団も引かず寝っ転がりながら、そのメッセージに視線を走らせた。


「……七月か」


 呟いて、身を起こす。

 しんと静まったワンルームには、氷色以外の影は無い。置かれた家具は小さな冷蔵庫と毛布のみで、窓からは隣の建物との距離が近過ぎて月明りどころか朝になっても日光は入ってこない。壁にかかった制服と床に投げ置かれたスクールバックだけが、生活感を漂わせていた。


「――……」


 氷色は、そんな仄暗い部屋の中心で一つ溜め息を吐くと――



「じゃあ――あいつ、オレの弟ってことになるのか」



 そう、独り言の続きを口にした。



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