謝罪
翌日。
登校して早々に銀島は氷色のカーディガンを鷲掴みし、既に机に着いていた琴乃の前に連れてきた。それに気付いて顔を上げた彼女が、「どうしたの?」と首を傾げる。
「……」
口をモゴモゴさせる氷色。数秒してもそこからなにも出てこないものだから、銀島がこっそり脇を突いた。
「……無神経なこと、言って、……悪かった。……ごめん」
生まれて初めて口にしたような――実際にそうだったのかもしれない――拙い謝罪だった。続いて、ぎくしゃくと頭が下がる。
氷色のその様子に、登校済みの生徒たちがにわかにざわついた。これまで度々無遠慮な言葉を吐きなんでもない顔をしていた氷色が唐突に謝罪を口にしたのだ。不思議に思ったり、驚くのも当然だった。
床の方に向けた顔を少し上げて様子をうかがう氷色に、琴乃は笑って「……いいよ」と答えた。たったそれだけで、その後彼女は特に言葉をかけることは無かった。
「……うん」
けれど、氷色にとっては、許されたということそれだけでも――奇妙に胸の内に染み入る熱いものがあった。
きゅっと張り詰めていた空気がそうして解れたとき、隣に立つ友人が身動ぐ気配がして、氷色はそちらに視線をやった。
「……なに笑ってんだよ」
「いや、『うん』ってちょっとなんか保育園生みたいだなって」
「なっ……こっちは! 真剣に……! 茶化すな毒電波!」
「銀島です。だぁって、なんかシチュエーションが先生に『ごめんなさいしようね~』って言われてる年少さんみたいなんだもんよ~」
へらへら笑う銀島に氷色が掴みかかり、琴乃が「怪我するよ」と口先だけで止める。
そんなことをしているとチャイムが鳴って、一時間目に体育が入っている銀島たちは朝のホームルーム後更衣室に向かった。場所は体育館内だから校庭とはやや距離がある。急がないとギリギリ遅刻してしまう中、氷色が自分の机の横になにも引っかかっていないのを見てはっとした。
「そうだ、無いんだった……!」
「先に行っててくれ」と言う氷色。それに了承して、銀島は一足先に教室を出た。
――『忘れた』じゃなくて『無い』ね。
なるほど、と銀島は一人頷く。
きっとあそこで悔しがるなり焦るなりすれば氷色の体操着を『盗んだ』相手の欲求もある程度満たせるだろうに。氷色にはそういった感情を持つ機能に不備がある。
――いやーでも、精神的苦痛が発生しないのに怒ったり笑ったり出来るってのは、どういうメカニズムなんだろ。
――嫌がらせされてもどうとも思わないのに別の場面では怒りが生まれるって逆に器用じゃね?
一人考えながら体操袋を行儀悪くぶんぶん回していると、背後から「銀島君」と声をかけられた。立っていたのは、つい先程氷色を連れて謝りに行った先にいた人物だ。
「委員長。どうした。ヒイロの謝罪には一応誠意は籠ってると思うから許してあげてくれたら嬉しい」
「急に面倒見がいい……。いやそうじゃなくて、……八木君のことなんだけど」
出来るだけ更衣の時間を短縮する為か既にブレザーを腕の中に仕舞っていた琴乃が、銀島と足並みを揃えて歩きつつその耳元に口を寄せて来る。それに答えるように銀島も首を傾げて耳の位置を下げた。
「昨日の騒ぎのときに一応注意したんだけど、あんまり懲りてなさそうだったからちょっと気を付けて」
銀島にはそこまで内緒話にするような内容ではなかったように感じたが、暇な高校生はネタさえあれば直ぐに噂を広める。それを思っての事だろう。
神楽坂琴乃はクラスの委員長だ。お堅い雰囲気の見た目に反しある程度融通は利くし多少の無茶も許すし先生の言いなりでもないが、しかし、『クラスの問題事』となるとその解決のための行動が豪く迅速で正確になる。一度銀島は、道端で胸を押さえて倒れている女性と転んで膝を擦りむいたクラスメイト、助けるとしたらどちらか訊いたことがある。琴乃は後者だと即答した。理由は、「私はクラスの委員長だから」だと。つまり琴乃は、そういう人物だった。
「そろそろオイタがね、見過ごせないかなって。星君も私か先生に相談してくれればいいのに……」
「まあ、本人諦めてんのもあるけど、どうでもいいことを一々気にしてないんじゃねえかな……ところで委員長」
銀島が顔の位置を元に戻してから、
「『ヤギクン』って……俺の前に座ってる奴のことでいいんだよな?」
と――去年も同じクラスで、現在一つ前の席に座っていて、先日親し気に会話していた生徒の名前を、心底自信が無さそうに確認した。
それに琴乃は驚いたり呆れたりしたような表情はしなかった。ただ、「そうだよ」と困ったようにはにかんで返す。
「銀島君ってどうして人の名前覚えられないかなぁ……」
「覚えてないってことは、多分どうでもいい退屈な奴だったんじゃねえかな」
「クズだね」間髪入れず、琴乃が顔に似合わない罵倒をした。
「いやぁへっへへ」
「なんでそこで照れるの」
今度こそ呆れるように溜め息を吐いた琴乃は、体育館の前で銀島と別れた。
十数分後。
――なーんでヒイロは来てないかな!
体操着姿で体育館内に並べられた二年一組。その中に友人の影がないことに気が付いた銀島は、一緒に八木のグループも授業に参加していないのを見て色々と勘付き、
「先生! 腹ぁ痛いです!」
「世良お前、今週それ三度目だぞ」
と、授業を抜け出すために元気一杯挙手をした。