表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/12

友達?

 一週間後、昼休みの教室。


「ヒイロあのさ、タケモトピアノでなんで赤んぼが泣き止むのか調べてるんだけど、ちょっと横になって三分ぐらいタケモトソング聴いてくんね?」


 馴れ馴れしく下の名前で呼びながら動画投稿サイトMYTubeの画面を見せてくる銀島に、氷色は手元のノートから顔を上げ、呆れたように頭を傾けた。長い前髪がざらざらと横にずれ、全力のしかめっ面が晒される。


「うるさい毒電波」

「銀島です」

「……どこで横になれってんだよ」

「あっやってくれる? よっしゃやったぜ、保健室行こ!」

「あんた次授業の時間って知ってる?」


 このように、氷色はほとんどの場合素っ気ないもしくは攻撃的な返事しかしなかった。しかし彼の場合どうやらそれが基本的なスタンスらしく、暗い話題も楽しい話題も嘘の話も本当の話もこの調子で、今のように一度突っ放した後の言葉や態度の方が氷色の心情が現れていると思われた。


 一週間前、銀島は氷色に友達になってほしい提案に断られていたが、なぜか氷色が銀島から距離を置くことは無かった。

 むしろどちらかと言えば積極的で、銀島はそれが不思議だったが、まあ他にまだ仲の良い奴がいないのかな――くらいに考えていた。


 氷色と言葉を交わしつつ片耳にイヤホンを入れニュースを聞いていると、夕立町で女優のなんたらがスタントマンに頼らずにアクション映画に挑戦と流れた。撮影場所が近場だったため放課後に覗いてみようかと考え、氷色も誘おうとした――そのとき。


「んん?」


 顔を上げた先に氷色の頭頂部が見える。彼が、机上にあるノートに目がいって前のめりになっているからだ。その乱れた黒髪になにか違和感を覚えて、銀島は目を凝らす。

 よく見るとそこに、粘土かなにかが固まったような物体がある。土でも着いているのかと「なあ、アタマ」と指差して教えると、再び顔を上げた氷色が「あたま?」と聞き返しながら自分の手をそこへ持って行った。


 そうして頭頂部を一撫でして帰ってきた手の平に付着していたのは茶色の土屑――ではなく。


「……血?」

「……みたいだな」


 赤が変色して黒になった、血液が固まったもの。平たく言って瘡蓋だが、治りかけだったらしくカーディガンの袖には新しい紅血が引きずった跡のように着いてしまっている。


「これどうしたんだよお前。ココナッツでも降ってきた?」

「さあ?」

「『さあ』だぁー?」


 いくら痛みを感じずとも――腕や足を引っかけたのではなく――頭頂部に出血するほど衝撃があったのなら気付くだろ、と銀島は首を傾げた。

 するり、氷色の視線が逸れる。銀島は、この転校生の目が口よりも素直で雄弁なことを知っていた。辿った視線の先は銀島の背後に続いている。

 銀島は密かに目を細めると、席を立つ。


「見せてみろよ、やばそうだったらまじで保健室行った方がいいぜ」


 氷色の背後に立ちつつ頭頂部を覗き込む。「いやいい」と言う声を無視して血で固まった髪を一束摘まんでどかすと、生乾きの血液と瘡蓋のかけらが混ざったシャーベットに似た状態の傷創が出てきた。思わず「うわ」と声が出る。


「えー、これ本当に痛くねえの?」

「特になにも感じない……ああ、そういえば少しむず痒かったような……」

「…………痛みは感じないのに痒みは感じるのか。へー……」


 ――痒みと痛みって繋がりがあったような話を聞いたんだけどな、となにかの本で読んだ記憶を掘り起こしつつ、そちらに引っ張られそうな興味をはっとして引き戻した。今は痒みと痛みの関係性について考えるよりも、やるべきことがあった。

 銀島は氷色の怪我の具合を観察する動作をしながら、教室内を一瞥した。常人ならばほとんど情報を吸えないような一瞬の行動だったが、彼はそれだけで窓の外に飛んでいた鳥の色も黒板に書いてある日直の名前も教室内にいる生徒全員の位置も写真で撮ったように把握した。そして、先程氷色が目を動かした方向にいた生徒を、見付けた。


「……ふぅん」

「――おい毒電波、もういいだろ」

「銀島です。これ血のカスでぐちゃぐちゃだからキレーにして消毒した方がいいぞ」

「めんどくさい」

「面倒なのは次の授業だっての。つーか真っ当な理由があんだから行くぞ、保健室体験を逃すなんざ三流高校生のすることだ」


 筋が通っているような滅茶苦茶なようなことを言いながら、銀島はあれよあれよと氷色を引き立たせる。それから、扉から出る際近くに立っていた琴乃に


「じゃあ委員長、つーわけで先生に言っといてくれ」


 と、ちゃっかり言伝を頼む。


「銀島君のその信頼は嬉しいけど、行くのは星君だけでいいよね?」琴乃が慣れたように優等生らしい正論を返す。

「千円」銀島は買収を企てる。

「理由は『腹痛』にしとくね」琴乃は優等生顔を悪友顔に変えこっくり頷いた。

「ありがと、委員長」


 銀島は、これもまた慣れたようにウインクを返し、両手をパーカーのポケットに突っ込み氷色を連れ廊下に出た。


「委員長はああ見えてあんま真面目じゃねーから、けっこー色々やってくれるんだ」

「……ああ」


 どことなくぼやけた相槌に銀島は後ろを振り返った。


「……どうかした?」

「……いや」


 どう見てどうかしてない顔ではない。話の流れから、氷色の意識の先にいるのは琴乃だろう。


――いーんちょうは人と衝突するような性格じゃねえし、多分『スコール』にしても偏見強いタイプじゃないけど……。


 考えながらもぞりとポケットの中の手の位置を直した。




 保健室に着き、『スコール』であることを含めて頭部のことを説明すると、女性の養護教諭はすぐに処置をし、それを終えると彼女は「顔色が悪いから寝ていきなさい」と氷色に言った。色白なのは元からだが、初めて顔を見た彼女には貧血気味とでも映ったのだろう。常連である銀島は、氷色の付き添いで来たついでに五時間目は自習だと真っ赤な嘘を吐き、こちらで勉強していいかと訊いた。養護教諭は少し悩んだが「友達に着いていてやりたいんです」という健気な言葉――氷色は危うく「は?」と目をひん剥きかけたが――を受け、オーケーを出した。

嘘と言うのは、案外こういう大胆な話の方がばれないものである。

 彼女がベッドから離れたデスクに座った途端、銀島はベッドまで持ってきた丸椅子に座り、


「で、誰に石投げられたよ?」


 と、問いかけた。


「……」


 氷色が枕に乗せた頭を銀島の方に向ける。枕と黒髪とガーゼの一部分が擦れて、ザリリと音を立てた。


「し、」

「し?」

「知らない内に、切ってただけだ。よくあるって言っただろ」

「切ったっつーかさ、あれはなんか硬いもんがぶつかって出来た挫創だろ」

「なんでそう断言出来るんだ」

「そりゃお前、俺だって昔石ぶつけられたことくらいあるし」


 銀島の言葉に、何か反論しようとしたらしい氷色は文字通りごくっとそれを飲み込んだ。


「なーヒイロ、お前ってさ、嘘をつける人間だよ。お前、多分良い奴ではあっても善い奴ではないから。でもさあ駄目だよ、壊滅的に下手過ぎて嘘つくときバレバレだもんよ」


 氷色は黙った。チャックで閉めましたと言わんばかりに口を閉じ、かけ布団を頭上まで持っていく。「あ、逃げた」という煽りを含んだ銀島の言葉にも反応しない。


「なんで庇うんだよ? 別に仲良いわけじゃないだろ、『あいつ』」


 教室で氷色の視線の先にいた人物を思い出しながら訊く。クラスカーストの上位にいるわけでも、先生とつながっているわけでも、この学校ならではの『自由度』が高い生徒というわけでもない、銀島からしてみればどうでもいい奴だ。銀島ならば確実に、『昔そうした』ように倍の数の石を倍の数の人数で投げ返していただろう。


「……オレが」


 布団の下で、もごついた声がした。

 悲観に暮れているわけでも怒気を噛み殺しているわけでもない、純然たる事実を読み上げるニュースキャスターのような冷静な音だった。


「オレが、無痛の『スコール』だからだ。だから今どうしたって、また同じことが続く。意味がない」


 上靴を脱いだせいで、布団からはみ出た足首がよく見えた。そこにはなにも着けられてはいない。性犯罪者を監視する装置と同じ仕組みのGPS発信機は、付いていないのだ。なのに――氷色のその姿が、銀島には酷く不自由に映った。目には見えない、耳には聞こえない、言葉には出来ない、そんな仄暗いなにかに――縛られている。


「……そ」


 銀島は、ただ氷色の言うことを肯定した。胸中では色々な意見が渦巻いて、今か今かと飛び出そうとしている。けれどそれは抑えた。銀島と氷色は違う人生を歩いてきた他人で、当然意見も異なる。そしてこれは――氷色の問題だから。石を投げ返すかどうかは彼自身が決めることであって、銀島が出来ることは氷色にぶち当たった石の手当てをすることぐらいだ。

 だから、それ以上は口出しせず、銀島は静かに目を閉じた。



***



 それからというもの、氷色は顔を合わせる度に真新しい傷をこさえてきた。


 傷は様々だった。打撲や切り傷が多かったが、日を増すごとに大きく深くなっている。エスカレートしていっていることは間違いなかったが、氷色は小指の爪が剥がれていたときでさえなんともない顔をしていた。

 氷色は痛みを感じない。だから泣き喚きもしないし、恐怖で震えることも無い。暴力を振るう加害者は相手を屈服させて満足感を得るというのに、氷色は「痛い」とも「やめて」とも「許して」とも言わないのだろう。だから相手も止め時がわからなくなり際限なく暴力を振るうようになる。言い換えれば、氷色が知らず知らず相手の暴力性を引き出してしまうのだ。


――金も取られてるみてえだし、そろそろ一線超えそうだけど……。

――でも俺、あいつの『友達』じゃないんだよなあ。


 保健室での一件からさらに一週間経過したとき、銀島は男子トイレから出ながらそう脳裏で呟いた。ぷらぷら、と自然乾燥を促すため下向きに振った手のひら。中指の先から離れていった水滴が床に落ちる――その瞬間。


 ガチャン、と。


 廊下の先で、何かが割れる音がした。


「……?」


 おそらく銀島がいる場所からだと距離があるのだろう、『耳に届いた』という程度の音量だったが、花瓶などのそこそこ重量のあるガラス製のものが割れる姿が連想され、放っておくには不吉な感じがした。様子を見ようかと一歩足を踏み出すと、廊下の先のT字路を数人の男子生徒が「やべえって!」と笑いながら駆け抜けていった。

 氷色があの日視線を流した先にいた――銀島の前の席の男子生徒、八木のグループだ。

 嫌な予感が増し、大きく足を前に出す。他の生徒が集まってくる前に事態を把握したかった。

 二股に分かれた道で八木らが出てきた方に曲がる。美術室の扉が開いているのが目に入り、迷わず飛び込んだ。


「――ヒイロ」


 イーゼルと胸像の群れの向こう、そこにあったのは。割れた窓と、右手に野球バットを持った氷色の後ろ姿だった。

誰が見ても氷色が窓を割ったと捉えるだろう光景に、銀島は舌を打った。最初に見た時よりも薄汚れた白いカーディガンを纏う背中に近付くと、乱れがちな黒髪が揺れ、ゆっくり振り返った。


「……よお、毒電波」


 いつもと同じ平坦な声色に、疲れたような灰色が混じっている。それに「銀島だっての」と返しつつ、窓の外を覗いた。薄暗い影が腰を据える校舎裏、湿った地面にガラスの破片が飛び散っている。


「……バット床に置け」

「は?」

「早く」


 言いながら窓を開ける。小さな破片がレールに挟まっていたらしくサッシと擦れてジャリジャリとした感触が手に伝わった。それに構わず全開にし、足をかけて乗り上げた。


「ヒイロ、来い」


 振り返り大人しくバットを床に置いた氷色の様子を見つつ外に降りる。途端、体全体が季節を忘れるほど冷たい空気に包まれ、足裏で踏んだ破片が耳障りな音を立てた。その場から退くと、今度は氷色が窓から外に出た。


「上履きは……近くの自販機にいくだけだったって言やあいいか」

「毒電波」

「銀島ね」

「なにしようとしてるんだ?」

「まぁちょっと」


 銀島は窓を閉めるとレールに挟まっていたほぼ粉と言っていいほど小さなガラス片を一つまみし、それを自分に振りかけた。そして、銀島の行動を怪訝そうに見る氷色にも同じように頭上から降りかけ、ついでとばかりに大きめの欠片をポケットに入れる。このあたりで、氷色はようやく銀島がやらんとしていることに気付いたようだった。


「おい……」

「なんだよ」銀島は返事をしながら地面に転がる破片の内手ごろなものを拾い上げた。

「やめろって、すぐばれる」

「そいつはどうかな。こっち向け」


 銀島はそう指示をすると、氷色の額に手にしたガラスの先端を当て――ピッと横に引いた。

 やや斜めに轢かれた赤い一線から、ぷくりといくつかの血の玉が溢れ、やがてそれがくっついて重力に従い垂れていく。それが睫毛まで到達してようやく氷色はなにをされたか理解したらしく、触れた指先を見て大きな音に振り返ったときの猫のような目をした。それに構わず、銀島は続けて氷色の指や顎に小さく傷をつけていく。


「こんなもんか」


 周囲や窓の内側から徐々に人の声や足音が聞こえてくる。騒ぎを聞きつけてやってきたのだろう。もう少し時間が欲しいところだが、遅いくらいだ。


「えー後は、と」

 銀島は一度破片を捨てると別の似たような破片に持ち替えた。――うわあ、手の平ズタズタ、と思いつつも、しっかりと握り込む。そしてそれを――自分の左頬に向けた。


「な――、」


 氷色がなにか言おうとした直後、皮膚に刃先を食い込ませた。

 僅かな弾力の後表皮が破け、じくりとした痛みが脳を刺した。ふうと息を吐いてから、今度はそれを横に引いていく――不自然にならないように浅く食い込ませたつもりだが、思ったよりも手が震え、横一文字というには歪な線が出来た。頬から手を離すと、マグマでも握っていたように熱い手の中でくちゅっと音が鳴った。ぬらぬらと赤い絵の具を混ぜすぎた粘土のようになってしまった手の平に、妙な笑いが漏れる。

 掠れた血の着いたガラスを放り氷色の方を見ると、驚いたというよりも疑問に満ちたような曇った顔でこちらを見ていた。それがどこか傷付いた子供のように見えて、銀島はそんなわけないのになぁ――と皮肉っぽく口を引き攣らせた。


「……『痛く』ないのか」


 思わずと言ったように氷色が訊く。

 下唇を噛み締め脂汗をかいている銀島の姿を見てそう問うのだ。それがなによりも氷色が痛みを知らない証拠だった。その愚かとも取れる言葉に、銀島は――


「――いたいよ」


 そう、眼を伏せた。


「……俺らは、『自販機までジュース買いに行ってたら突然窓が割れて怪我した生徒』。いいな?」


 地面を蹴る音が近付いてくる。「いいな」ともう一度強く問うと、氷色はゆっくりと頷いた。



***



 教師が駆け付け「なにやってんだー!」と怒鳴られたりとすったもんだあったものの、二人は「通りがかった窓が割れた」という主張を貫いた。

 割った犯人が見付からないことに教師は首を捻ったが、血と細かい破片まみれの二人を見て、彼らを疑うことは無かった。それもそのはず、普通に考えて、人が来る五分にも満たない間に友人と自らに痕が残るかも知れない傷を躊躇なく付けて誤魔化す生徒がいるとは思わない。警察でも来ていたらばれたかもしれないが、外部の不審者ではなく内部の身内が起こした事件ということで、大事にしたくない学校はまた明日事情を訊くからと氷色と銀島に病院に行くよう言って早退させた。



「ロキソニン最強」


 帰り道、銀島は手当てされた手の平を擦りながら言った。


「軟骨のピアス開けたときも世話んなったけど、鎮痛と抗炎症を三十分でやっちゃうってほんとすげえよ。医療の進歩バンザイ」


 ぺらぺらと舌から発信されていく返事を期待した独り言だが、横を歩く氷色はなにも反応を返さない。降りた沈黙を春の鳥が呑気にピィチチチと埋めて、銀島は大袈裟に万歳した両手を気まずそうに元の位置に戻した。


「そのー、痛くねえからって切りまくったのは悪かったけどさあ、だってあのままだったら完璧お前犯人扱いになるって――」

「あんたがっ」


 俯いていた黒髪が震え、銀島の声を遮った。


「あんたまで痛くなる必要は無かったろ!」


 上擦って聞き取り辛い声だ。癇癪に似たそれだったが、その表情は、『痛み』を知らない人間のものではなかった。少なくとも、誰かを傷付けた後に悔いることの出来る善性が、銀島には確かに感じられた。

 下に水位の高い川が流れる橋の上、二人して立ち止まる。

 氷色よりも銀島の方が背が高いこともあり、俯いたままの氷色のつむじが見える。前の怪我の少し後頭部側に、もう一つ瘡蓋が見えた。誰かに、後ろから攻撃されなければ出来ないものだ。それを視界に収めながら、銀島は小さく息を吸う。


「……俺さ、お前の『友達ダチ』じゃあないから、お前の問題に口突っ込むことは出来ない。それは『友達』の特権だろ?」


 随分と潔癖な考え方だった。しかしそれは銀島にとって真実で、何故ならそうやって線引きしていないと、銀島はきっと人の考え方や行動を侵してしまう。彼は、それが嫌だった。

 自分を含め人間は、それがどんなに退屈な人物でも、自由を求め自由を手にし自由であるべきだと思うから。彼が友人になりたいと思うときは、その相手が求める自由の形が自分と一致していると感じるときである。


 だから――氷色がそれを拒否するのなら、銀島は本当の意味で彼の助けになることは出来ない。


「お前が不自由だとさぁ、なんか俺も不自由な感じがするよ。だからお前の不自由は見過ごせない」


 そう断言すると、氷色はぎゅうと眉を寄せた。いっそ憎しみでも籠ってそうな顔の後ろに、夕立町を構成するビル群が見える。

 この街に建つビルは、数は多いが一様に高さはない。よくて四階、最高は八階だ。二桁にも満たないそれらだけど、名前だけは立派に『ビル』なんて呼ぶ。銀島にはそれが、空を目指した摩天楼が最後まで至ることが出来なかったように感じて、どうしてか苦しかった。

 目の前の同級生からは、それと同じものを感じる。


「……オレは『スコール』だ」氷色が舌で転がすように言った。

「知ってる」

「『コロンダラテヲカシテアゲマショウ』も『オウチノヒトノワルグチヲイウナ』も、理解できない。転んでも立てるし、家のこと馬鹿にされようがどうとも思わない。言われても、なにも感じないんだから」

「そうか」

「他人と違うんだから、ズレは出るもんだろ」

「そりゃあね」

「……うん」

「でもそれは、『スコール』に限った話じゃない、って俺は思う」

「……」

「だって俺も特別な人間だもんよ」


 氷色が首を捻った。どこが、という意味だろう。それに答えるように、銀島はポケットに仕舞いこんでいた右手を出して、宙を指した。


「――俺だって、空を飛ぶくらいは楽勝さ」


 思春期の妄想にも、天才の戯れ言にも聞こえるその言葉。

それを吐いた張本人の得意気な笑顔が、本当に飛べそうなほどに自信に満ちていて――思わず氷色は、口元を緩めてしまった。


「――は、」

「あ、笑いやがった。本当だっつーの」

「わかったわかった毒電波」

「銀島な」


 歩き出した氷色を追う形で銀島が足を踏み出し、二人は背の低い摩天楼の方へ向かっていった。



 数分して、駅前の大通りに辿り着いた。スーツの男ベージュのコートを着た女などが雑居してや平日の昼間でもそこそこの賑わいを見せており、二人は自動販売機で飲み物を買うとパチンコ屋の前にある低い塀に腰を下ろした。

 もし学校の教員に見られたら病院はどうしたと怒鳴られるところであるが、この辺りは風俗店が多い。そんな場所に昼間っから教師がいたと知れたら大変なことになるのは教師の方なので、その辺りも考えての場所選びである。因みにお巡りさんと目があった場合はそれはもう仕方ないので若者としての体力に任せダッシュで逃げる予定である。



「はあなるほど、『ココロノイタミ』ってやつね」


 銀島が、ここに来るまでに氷色に聞いた話を復唱する。


「やっかいだ。目に見えないし聞こえないし触れないし」

「誌的だな……」

 コーラの缶の蓋を開けると、プシッといい音がして、銀島はさっそく体に悪そうな色をした炭酸飲料を喉に通した。


――しかしまあ、外の痛みだけじゃなくて内の痛みもちんぷんかんぷんと来たか。

――共感する能力が欠如してんのかなって思ったけど、笑ったり怒ったり出来るのを見るに感情丸ごと無いってわけじゃないんだろうし……。


 氷色の話によれば、どうやら彼は外からの侵襲による痛みだけではなく、内からの痛み――例えば誰かの悪口――にも苦しんだりする経験が無かったらしい。

 人間はコミュニケーションの多くのことを痛みによって学習する。言われて嫌だったこと、されて不快に感じたことを記憶し、他者に同じことをしないことで仲良くなる。しかし氷色は肝心のその学習が出来ないから、場違いだったり不謹慎だったりする言葉や行動をそうとは知らずに取り、周囲を困惑させてしまう。いわば、『空気が読めない』とかそういったことだ。


――けどそうなると――『スコール』が入手する能力ってのは、肉体だけじゃなく精神の形……人格も大きく変えるってことだよな。


 過った可能性に、銀島の口元から缶が離れる。


「…………いやだなぁ」

「ん?」

「いや」


 ただの憧れや興味の対象だったものに対して、銀島の中で微かに恐れが混ざる。それを一先ず振り払って、銀島は氷色に注意を向けた。


「それでお前は超KY発言をしちゃったわけだ」

「あまり話さないようにしてるんだけど、あのクラスやたらフレンドリーだから……」

「……あー、うん、ソーダネ」


 氷色にはそう賛同する銀島だが──実はクラスメイトが根暗で陰険そうな印象の氷色に近付く大半の理由は銀島である。



 銀島はチャラチャラした見た目と適当そうな行動をしているものの、嫌味が吹き飛ぶほどに有智高才、爽快なほどに自由闊達、顔も若い役者のように整っている上に話上手の聞き上手なものだから、男子には勿論女子にも友人として──彼氏にしたいかどうかというアンケートを取れば間違いなくワースト一位二位を争うが──かなり人気だ。そのため、そんな銀島が気に入る者はどんな人物なのだろうと皆気になって近付いたのだ。


 閑話休題。


 氷色が傷つけた人間の母数を増やしてしまった原因が若干自分にあったことに気付きつつも、取り敢えず銀島は黙って氷色の話を聞くことにする。


「『野良』って知られてれば向こうから離れてくれるかと思ったけど、甘かった。……ああいうのって、無視したら無視したで『傷付く』んだろ?」

「んー、傷付く……も、あるけど、どっちかってーと『ムカツク』だな」

「ムカツク?」

「ん。イジメの動機になりやすい感情ベスト二位だよ。三位はイラつく」

「……一位は?」小さく喉を下して問う氷色。


「──『怖い』」


 そう答えると、氷色が思い当たる節があるように目を逸らし、カフェオレをあおった。

 銀島はそれに合わせるようにコーラを口に含み、続ける。


「……二位と三位の理由はさぁ、変えようがあるんだよ。ほとんどが容姿とか仕草の問題だから。でも『怖い』のに苛めるなんて凄い矛盾だろ? そんときって、本人の無意識のとこから出てる雰囲気のときが多いから、これまた難しいんだ。多分、お前もそのタイプ」

「やけに詳しいな」

「言ったろ、石ぶつけられたって。年相応じゃない行動ってのは嫌われるのが多いんだよ。子役の寺岡心にアンチが湧くのも、そういう理由じゃねえの──と、まあそれは置いとくとして」


 んん、と咳払いして、銀島は体を氷色の方に向けた。


「俺の個人的な見解になるけど──皆がお前のことを怖がる理由は三つ。一個が『スコール』であること。まあこれは仕方がないし、最近は理解が進んでるから『スコール』全員がテロリスト予備軍じゃねえってことはわかってると思う。そんな深く考えんな。二つに、お前が野良であること。政府の管理も受けず能力の指導もされたことがないっていう経歴がお前への疑念を生んでる。三つに、お前が、人を傷付けてもなに食わねぇ顔してることだ」


 指を一本ずつ立ててそう列挙すると、途端に氷色の顔が難しそうに歪んだ。


「……オレが、野良なのは、……」


 そこまで声に出して、氷色は口を閉じる。迷うように何度かそうするのを、銀島は急かすことなく黙って待った。


「……親、が」

「うん?」脈絡のない予想外の言葉に、銀島は思わず聞き返した。

「母親に、金が入るんだよ。うち生活保護受けてたから」

「……ああ、『補助金』ね」

 

 それは、『スコール』についての話の一つだ。


 表向きは監視を受ける代わりに生活に困らない金銭が支給される、といったニュアンスで言われているが、要は『人権を金で買う』という話だ。

 値段も、最低限なんてものではなく相当な額が入るらしい。そうでなければ実際に足輪をつける『スコール』は少ないだろう。


「けど、それのなにが悪いんだよ?」


 ごく普通の疑問を銀島が口にする。


「そ、の……なんというか、不仲なんだ、うち。そもそもオレ自体が望まれないで腹から出てきちゃったクチだから、『スコール』ってわかるまで結構ほっとかれてて…………なのに、補助金が出るって話になった途端、急に馴れ馴れしくされたら──」


 氷色の手の中で缶がカキュ、と嫌な音を立てて僅かにひしゃげた。


「──誰でもなんだこいつってなるだろ?」


 前髪の向こう、どこか青みがかった黒目が烈火を見詰めたように細まった。

 それに気付いて、銀島の脳裏に自分の母親の姿が映った。

 折り紙が、表から見ると美しくとも裏側は案外汚いのと同じように、銀島の母も、表向きは優しく穏やかな母親だが、その裏側にあるものはぐちゃぐちゃとした複雑な人間性だった。未だ銀島も、その全容を理解できていない。理解しようとすると、それに対する昏い思いが脳を焦がすから。


──こいつ、俺とおんなじだ。


 氷色は自分と同じように、親との間に『何か』ある。そう感じだ。


「……それを」


 銀島は、出した自分の声が震えていることに気付いて言葉を切った。缶を塀の上に置いてから、一度長く息を吸い、吐き出す。


「それを、そのままの言葉で伝えれば、納得してくれるさ」

 きつく握り締めた両の手のひらに視線を落とす。ぐるると喉が不吉な音を出すから、慌てて唾を飲み込むと、少し気分が落ち着く。そうしていると、氷色が耳を疑うように「く、クラスメイトに?」と訊いてきた。


「ああ。逆に、そのくらい個人的な理由の方が共感しやすい」

「ふぅん……?」

「お前はさ、傷付けることにビビって言葉数が少ないから、余計になに考えてるかわかんなくて怖ぇんだよ」

「……なるほど……」


 心底感心したような声色で頷くのが面白くて、銀島は強張っていた自分の頬の筋肉が緩むのを感じた。顔を上げてみると、まだ難しい顔をしている氷色がいる。


「……でも、また傷付けるかもしれない。そうしないようにするには、どうすればいい?」


 真面目くさった顔で助言を求める氷色。銀島のこれまでの言葉を信頼している様子が見てとれた。

 銀島は、その問いに苦笑いをする。

 わからないとか、知らないわけではない。ただ、誰もが普通にやっていることを本当に真摯な眼差しで訊く氷色の姿が、純真さを持った子供のようで。何となく、彼より感情の先輩として正しく答えられるかどうか不安になったのだ。

 けれどここまで教えたのなら銀島は答えなければならない。そのためには──


「答えてほしいんなら、俺と友達になってくれ」

「はっ?」


 脈絡のない申し出に氷色がすっとんきょうな声を上げた。


「これ以上言ったら、俺はお前のうんと深いとこに関わることになるし、多分人間関係もでっかく変わる。さっきも言ったけど、それは『友達』だけに赦されることだ」


 銀島は、神に許しを乞うような形で組んだままの手の指に力を込める。

 「だから」と続けると、氷色は少し迷うように身動いだ。それからしばらくして、細く息を吸う音が銀島の耳に入る。


「──ああ、いいよ」


 照れを隠したようなぶっきら棒な声色だった。当然だ、高校二年生にもなって面と向かって友達になろうと言われたことは無かったのだろう。銀島が小さな嬉しさと氷色と同じ気恥ずかしさを胸に顔を上げてはにかむと、氷色は誤魔化すように「いいから教えろっ」と銀島の顔面にチョップをかました。わりと強めで。


「んん、ごほん。どうすれば、ってな。そんなのは──謝ればいいんだよ」


 ぱち、と氷色の目が瞬く。


「謝る?」

「だからさぁ、別に傷付けてもいいんだよ。お前じゃなくたって、自分が気付かない内に誰かさんを傷付けてるときくらいそりゃあるよ。でも、もしそんとき傷付けたくなかった相手だったんなら、謝ればいい。『ごめん』って」


 銀島はそう言ってまたコーラを一口飲んだ。それを受け氷色は、最初に会ったときの彼の姿を思い出した。

 未遂だったとはいえ、突然手の甲にペンを突き立てようとした銀島。なんだこいつ──そう思って怒鳴り付けたとき、確かに銀島は頭を下げていた。適当だったのかもしれない。とりあえず謝っとけ、くらいだったのかもしれない。けれど銀島は確かに謝罪を口にしていた。それで氷色は、なんだか気が抜けてしまって、吊り上げた眉を下げたのだ。


──そうか。

─―『傷付けたら謝る』のか。


 過去、氷色に害を与えてきた人間は誰一人として謝らなかった。

 母親も親戚もクラスメイトも──氷色は痛みを受容しない人間であるため彼に謝罪を引き出させる能力が欠如していたこともあるが、それを抜きにしたって、誰も謝らないというのは彼の周囲にいた人間の不出来さを表している。そういった人生を歩んできた氷色にとって、銀島の意見は、衝撃だった。


──…………。


 改めて、その染め物のような赤い髪をした同級生を見る。

 何を考えてるのかいまいちわからないし、自分勝手で、我儘で、一瞬の欲望のために物事を軽んじる最低最悪な毒電波男だと、氷色は思う。それでもこの人間は、自分より遥かに『人間』なのだ。


「……謝る」


 呟きながら次に思い浮かんだのは、眼鏡をかけた真面目そうな顔立ちの少女。


「……ゆるしてくれると思うか」


 コロリ、喉から不安が転がって出た。


「一緒に謝ってやるよ。『友達』だろぉー?」


 ゴツン、わざとらしく銀島は氷色の脇を突いた。彼が手に持っていたコーラがちゃぽんと音を立てて跳ねたから、氷色はそれを理由に「こぼすだろ、」と文句を言って、面映ゆさを誤魔化した。



***



 それからしばらく、日が沈む直前まで二人でだらだらと喋った。葛城ビルの屋上で映画撮影してるのを誰かが見たらしいとか、新しいスニーカーが欲しいとか、なんの本が好きだとか、そういったどうでもいい話だ。周囲がオレンジ色に染まり、飲み屋や風俗店の店員が裏口を出たり入ったりして準備し始めたのを見て、そのときになってようやく帰る流れになった。

 銀島は家に母親がいるから帰りたくなかったし、

 氷色は家に誰もいなくて暇だから帰りたくなかったのだ。



 また明日と氷色と別れ、銀島は駅を通り過ぎた更に向こうを目指す。その先にあるのは誰もが憧れる大きな一軒家がいくつも経つ高級住宅街だ。目指すからには当然銀島の帰る場所もその内の一つだが、突出した個性を許さず白と茶色で統一されたそこは、皮肉なことに銀島がこの街で唯一嫌いな場所だった。


──帰りたくねぇなあ。


 足が前に進みにくい。

 家に帰れば猫撫で声で銀島を通し夫の機嫌を取ろうとする母親と、そんな母親の正体に十年以上気付かない義父と、銀島に無関心である義兄がいる。あの家は、三階まであっていかにも金持ちの家らしく広いのに、銀島には狭くて息苦しかった。

 重い足取りがついに止まった。よくあることだ。

 銀島はすぐ側の駐車場に入り、適当な車止めに腰を下ろす。そうしてしばらく、橙と青が混ざって濃い紫になった空を仰いだ。広くて限り無く、これは世界のどこへでも繋がっていて、果てには海がある。そう思うと気が楽になった。


 銀島は──自由が好きだ。

 やってはいけないことをやったり、可笑しなものの話を聞いて楽しんだり、特別な能力を間近に見ることが好きだ。そうすると、退屈まみれの世の中でもまだまだ自分の知らない自由が沢山あると思えるから。──きっと、そんな心理から自分は好奇心が強いのだろうと、銀島は分析していた。


 氷色の求める自分はきっと自分と似ているのだろう。親との確執が自分と彼を繋げている。


 氷色に対して何故ここまで肩入れするのか、銀島は自分でもよくわからなかった。確かにきっかけはあった。『スコール』であること。屋上の印象が重なったこと。単純に珍しい人種を見るような好奇心も疼く。

 けれど──それ以上に、自己紹介をされたときから、妙な親近感があった。


──俺が同姓愛者で、あいつに恋してるとか?

──……いや、ねぇな。


 そんな風に客観的な可能性をいくつか思い浮かべたが、どれも当てはまらない。


──まあ、いいか。


 答えの出ない自問自答を早々に止め、銀島は目を瞑った。視界が塞がれたことで、春の黄昏時特有の冷気が皮膚を冷やすのを鋭く感じてしまって、手足を体の方へ畳む。


 今日はもう、楽しいことは無い。

 だから銀島は明日を待った。



***



 数時間前。

 櫛城高校のある校舎裏。


 櫛城高校の校舎はL字を模った形をしている。昔はどこにでもあるI字型で学校の理念も社会貢献をどうのというありがちなものだったが、四年ほど前に理念と共に校舎を新しいものにした。その際、古い部分と新しい部分と半ば無理矢理に繋げたために『隙間』が出来た。

そこは、いくつもの室外機や凸凹とした壁、そして校舎の影により生まれた低い温度と湿気という居心地の悪さを除けば、複数人の人間が内緒話をするにはもってこいの場所だった。

 例えば授業のサボタージュ先。例えば成人向け雑誌を堂々と読む場所。例えば未成年者の喫煙所。


 例えば――窓を割った罪を同級生になすりつけた帰り道。


 この場所から美術室までの距離は近い。ここの前を通る教師や生徒もいるだろう。

 自分たちはその野次馬に紛れればいい――。そう含み笑いをしながら、男子生徒――八木は様子を見に行った仲間の報告を待っていた。


「八木!」


 と、そこに茶髪の男子生徒が八木の名前を呼びながら飛び込んできた。一足先に様子を見に行っていた、例の仲間だ。


「おー、どうだった、上手くいった?」

「そ、それがさあ、銀島の奴が……」

「は? 銀島?」


 突然出てきた後ろの席のクラスメイトの名前に、八木は思わず訊き返す。八木と一緒に待機していた他の仲間と目を合わせると、同じように彼らは首を捻った。視線を元に戻し話の続きを促すと、茶髪の仲間は一度唾を飲み込むと「銀島が、」と始めた。


「なんか、割れたガラスで怪我、したみてーで」

「え、俺らので?」

「いやでも、外に誰もいねーの確認したじゃん」

「そりゃ傷害はシャレんなんねえもん」


 傷害罪は知っていても器物破損罪という言葉を知らないらしい彼らは焦った様子でその場から立ち上がり隙間から出た。右に進んだ先の角を曲がればそこに現場がある。そちらの方向に顔を向け、「じゃあ星は?」と八木が問う。


「同じ。顔面血だらけ」

「いや意味わかんねーんだけど……」


 氷色への嫌がらせのはずが、何故か気の良いクラスメイトが負傷する事態になっていることに八木たちは困惑の色を露わにする。すると、ふと思いついたように仲間の一人が顔を上げた。


「……銀島がやったんじゃねえか?」

「やったって、なにを?」

「あいつ転校生のこと気に入ってたろ。ここ最近特につるんでたし……、俺らが窓割ったの見て、庇おうとしてんじゃねえの」

「はぁ? 自分の顔切ってまで?」

「うーん、銀島君ならあり得るんじゃないかな。自分のしたいことのためなら屋上からダイブだってするだろうし……」

「いや流石にそんな自殺紛いのことはしねえだろ」

「星が提案したとか。あいつ無痛症なんだろ」

「星君はしないと思うな~だって彼、私が傷付いた! って顔したらちゃんと傷付けちゃった! って顔してたし」

「つーかさっきからお前なんでオカマ口調で喋って――――ぅわっ!?」


 粗雑な自分たちの会話の中に、先程から妙に丁寧で柔らかな声がするなと意識を現実寄りにした八木。そのすぐ隣にちゃっかり立っていたのは、クラス委員長――神楽坂琴乃だった。彼が驚いて後退ったのをきっかけに、他の仲間も驚きの声を上げて仰け反った。


「い、い、い、委員長、いつから……!」

「『おー! どうだった、上手くいった?』から」


――最初じゃねえか!


 非常にいけない状況だ。琴乃は成績上位者で教師への発言力も高いし、立ち位置的にクラスメイトたちからの人望も厚く、なにより銀島にそこそこ気に入られてる。今の話をどこに漏らされてもまずい――先程まで見事なほどに健康的だった八木の肌色が、みるみる色を失っていく。

それを見て、琴乃は困ったように眉を寄せ――

 ――笑った。

 それは、いつもの笑顔だった。宿題を忘れた友人に仕方ないなぁとノートを見せたり、行事の際に活気づけるための声をかけたり、そういったときに見せる、気さくで人当たりの良い、少し大人びた笑み。それを頬に携えたまま――


「単刀直入に言うね。八木君、今から星氷色君に危害を加えるのを止めて」


 そう、眼鏡の向こうの目を細めた。

 ぞわりと八木の首筋に悪寒が奔る。

 気付いていたのかとか、なんで委員長がそんなことを言うのかとか、言いたいことは色々とあったはずなのに、すべて喉に詰まってしまった。理由は――そのありふれた笑顔。琴乃の言葉から、彼女は自分たちが氷色にしたことを知っているのだろう。罵って、蹴って、殴って、笑って、奪ったことを。それなのに、怒るでもなく悲しむでもなく、ただ本当に、クラスの問題を解決するときと同じ微笑みを八木に向けている。

八木にはそれが単純に――気味が悪かった。

 自分の食事に他人の唾液を垂らされたようなその感覚に返答が出来ないでいると、琴乃の背後の方から生徒が続々と顔を出してきた。割れた音を耳にしてやってきたのだろう。彼女はそれを視線だけで一瞥すると、再び笑みを深めた。


「八木君の妹さんが、小学校で野良の『スコール』に怪我させられたことは、心底同情するけれど――」

「――!」

「でも、その『スコール』と氷色は別人でしょ」


 尤もな正論とわかっていて、しかし八木は「けど、同じ『スコール』だ」と言い放つ自分の口を止められなかった。


「そう……八木君って『黒人だから』凶暴とか、『年寄りは』皆スマホを使うことが出来ないとか、そっちに考える派なの。もし本当にそう考えているのならごめんね、何を言っても無駄ってことを察してあげられなかった私が悪かった。でも八木君って、妹さんの顔に傷を付けた相手と共通点がある人に、自分の感情をぶつけているだけだよね?」


 対して琴乃から返ってきたものは、淡々と並べたてられた事実だった。


――そうだ。

――自分が他人に害があるって知ってるくせに、それを矯正しようとしないあいつに、イライラして、ムカついて、――怖いから。


 噛み締めた奥歯から脳を軋ませる嫌な音が鳴る。琴乃はそんな八木の様子に一歩近付くと、その肩に手をとんと乗せた。綺麗で荒れてもいない、小さな女子の手だ。なのに八木には、どうしてかそちらの肩に強い圧をかけられたように感じた。


「疑心もわかるよ。恐怖も頷ける。八木君が『スコール』の人に感じてることも納得出来る。貴方の意見を潰して真っ平らにしたいとか、そういうことじゃないの。でも私、『クラス委員長』だから。問題が起きた時とか、皆の不平不満を解決するのは私の役割なんだ」


 野暮な眼鏡。まとめて結んである髪。膝丈のスカート。真面目そうな顔立ち。どこにでもいる女子高校生は、


「だから、不満があるならちゃんと口で言ってね! 私、仲介でもなんでもするから!」


 そんな真っ直ぐな言葉を吐いた。

 校舎裏に向かってどんどん人が集まってきて、琴乃は手を置いていた八木の肩を軽く押すと踵を返し、群衆に紛れ込んだ。


 八木たちはただその場で、騒ぎが収まるまで呆然と立ち尽くした。しかし、野次馬に加わろうとした下級生が擦れ違いざまに八木にぶつかり、その衝撃で意識を取り戻したように八木は指が白くなる程拳を握りしめた。


「…………終われるかよ」



***



 その日の放課後。


「琴乃―、一緒にかーえーろー」

「いいでしょう!」

「なんでちょっと上からなの?」


 なはは、と声を上げて琴乃の友人が笑い、琴乃も一緒に笑いながら教室を出た。

 いつも通り駅前に出来たスイーツ店の話や逆に潰れてしまった雑貨屋の話なんかをしつつ帰路を辿っていると、友人が思い出したように「そういえばさ」と話を振ってきた。


「琴乃、窓ガラス見に行ってきたんでしょ? あれ結局誰が割ったの? 銀島?」

「うーん、近くにはいなかったけど八木君じゃないかなぁ。走って逃げてくの見たって先輩いたし……、」

「えー、なんでまた」

「成績が上がらないことに対してのストレスとある種族への不信感・復讐心の丁度いい的が見付かってしまい、加えて人類は皆自分と同じ考えだろうというなんの根拠もない理由で行いを正当化したことによる犯行?」

「『犯行』!」


 また友人は高らかに笑い、琴乃も普段よりも大きく口を開いて笑った。それが収まった頃、琴乃はしかし表情を申し訳なさそうに曇らせ、笑顔には苦みが混ざる。


「と、まあ、ここまでが委員長としてのことなんだけど」

「だけど?」

「ちょっと私情が挟まったというか……銀島君が関わってるから」

「む! はいはい銀島ね! はい! お熱の! はいよいしょ銀島がどうした!」


 なぜか俄然話に食いついてきた友人を不思議に思いながらも、琴乃は続けた。


「銀島君って、自分の思い通りにならないとさ……周りに当たり散らすとかそういうことはないんだけど、凄い、こう、強引になるっていうか……。だから出来るだけ銀島君の妨げになるものは退かしておたくって」

「ケナゲ!」

「あ、ううん、そういうのじゃなくて、本当に死なれちゃうと困るし」

「……ん? なんでそんな話になるの?」


 不吉な発言に不可解そうな顔をした友人に、琴乃は困り顔で――しかしどこか憧憬を滲ませたような眼差しで、


「だって銀島君、きっと自分の自由のためなら飛べもしない空だって目指すでしょ?」

 

 そう、うっとりと笑った。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ